2010年03月04日新宿朝カルのメモ 判断基準としての道徳論

2010年03月04日18:30〜新宿住友ビル朝日カルチャーで行われたスマナサーラ長老の初期仏教入門、印象に残った言葉をtwitterでメモしました。以下、そのマトメです。元の書き込みはこちらで読めます。


長老:今日のテーマは『決断は智慧で下せ』です。生命の判断規準は、ふつう本能で充分。本能は身を守るためのとっさな判断。意外と成功しますが、一度失敗したら死にます。人間は本能を殺している。生存に必要なノウハウを失っている。文化人ぶって本能を壊してはだめです。

自分が何を食べるべきか、人間は本を開いて決める。猫はそんな阿呆な事しません。本能で判断している。生活習慣病になったりするのは人間にかわれている動物だけ。いかに本能が大切かわかるでしょう。

児童虐待する親も子孫を守って大事にしようという本能がいかれている。本能は大事だが、会社の仕事など知識世界では本能で判断はできない。山で遭難した時などは、本能が弱った人から死ぬ。スマトラ沖地震津波でも、死んだのは人間。動物はちゃんと逃げた。本能が機能した。

いつ何があるか分からないので本能は大事にしましょう。次の規準:感情です。人間社会ではどこでも見られます。感情がむき出しの凶暴な人間が主導権を握っている。次:知識です。知識は有難がられますが、特定の知識世界でのみ通用する。限られた世界でしか使えない。

知識は大量のデータとして頭にたまる。それを引き出して判断すると時間がかかる。時間のずれで失敗する。また知識はつねに更新される。いま妥当な判断が、知識更新されると間違いになる事も多い。

自分の判断が悩みの種になる事も多い。人間には先が分からない。判断ができない。判断しても曖昧さに悩む。仏陀の智慧で的確な判断できると皆さん期待していると思いますが、さてどうでしょう?

仏陀の勧める判断能力の向上方法。簡単な方法:道徳と戒律を基準にすること。簡単です。でも仏教の道徳戒律を基準にしないと危険です。宗教一般の道徳は当てになりません。むしろ宗教は人類に多大な迷惑をかけてきたのです。

長老:仏教では、自分を殺しにきた人であっても殺すなよ、という教えです。ですから仏教を使って戦争はできない。異教徒は殺せ、異端者は燃やせという教えない。悪人が宗教を利用する場合でも、それは宗教の責任と思います。悪人に利用されるような曖昧な教えを作ったのは無責任。

イスラム教のジハード概念も、しっかり定義されていなかったから、自爆テロにも利用されている。勿論平和的な解釈もできるが、ムハンマドも宗教を掲げて戦争した。(説得力がない)宗教を信仰している人も立派な人はいますが、模範にならない。教えのバイアスがある。

信頼して採用できる道徳戒律基準は仏教のものになる。単刀直入にいえば、基準とは、五戒です。五戒を破っていないか? という判断基準で生きること。しかし五戒を守るんだと言って引き篭もったりするのはカッコ悪い。社会で活発に活動しながら、五戒を守って生きるのがクール。

人とコミュニケーション取りながら、嘘をつかないという戒律を守る。人生であらゆる場面で判断しないといけない。五戒でベターな判断に達する。生命の尊厳を守って生きることが戒の目的。私は一切生命の尊厳、人々の人権を守って生きるというのはカッコいい生き方でしょう?

生命の尊厳を守るという基準が身についているならば、たとえ苦しい判断をする場合でも、相手も納得してくれる。道徳守る人が理性ある人。道徳を否定する人、戒律など守れるものか、という人は理性のない人。腐った社会を基準にする人は、社会と一緒に腐って終わるのです。

戒を守る人が腐った社会から生まれ変わって生きているのです。戒を基準にして生きるのは子供にも実践できます。特別な知識はいりません。

道徳的な生き方というのは子供の頃から身につけておいた方が、その後の人生は助かります。でも子供の頃から学ばなかったんだから知らんというのは成り立ちませんw 知った時点から道徳を守る義務が発生します。仏教の道徳を守った時点から人生は好転するのです。

善悪の基準とは何か? 俗世間でも様々な宗教でもしっかりした基準が成り立っていない。人間が語る善も悪も一時的なもの。世間の言っている道徳に乗ってはいけません。第二次世界大戦の時、国家が唱えた道徳に乗って何百万人も死んだのです。結果が悪かったなら、それは道徳ではない。

仏教の十悪十善。悪から説明します。悪は経験あるので、理解しやすいのです。体で犯す悪:1殺生。殺生しないとは、あらゆる生命に生きる権利があると理解しただけで優れた人間になる。実践したならば尚更です。2盗み(偸盗)、3五欲に溺れる(邪淫)。

善は慈しみで生きる。他人の権利を侵害しないように、限度に気をつけて生きる。自我中心から離れることで智慧が開発される。

言葉の悪4つ。妄語、無駄話など(妄語・両舌・悪口・綺語)。言葉の善4つ。真実のみを語る、愛語など(不妄語・不両舌・不悪口・不綺語)。真実のみ語ろうと思ったら、データを取って調べないといけない。学ばなければならない。頭がよくなる。嘘をつくためには何も学ばなくていい。

言葉の制御しただけで、能力が向上します。心で犯す悪3つ。貪欲、瞋恚、邪見。異常な欲、異常な怒り、邪見。これは世界に多く見られる悪。気をつけてください。体・言葉で犯す罪を犯す人は少ない。しかしこころの悪3を犯す人は多い。3つをまとめて言えば、妄想ということ。

妄想はもっとも危険な悪なのです。心の善とは、異常な欲や怒りに心を絡めることなく、つねに落ち着いていること。仏教は世の中の楽しみを否定しない。しかし常識の範囲で享受してくださいと勧めているのです。

仏教は欲に反対ではない。常識の範囲に留めてください。妄想にふけったりしないで理性を保つ。理由のない怒りに取り付かれることなく、生命を慈しんで生きる。そのように生きると頭が良くなります。理性で適量を知って生活する。

正見。客観的にデータを調べてから判断する。迷信や伝聞や名声で判断しない。一切は因縁関係で成り立っていると理解する。正見が確立すれば一切の悪から解放される。五戒は仏教独特で仏教徒になる人の約束。十善十悪は生命普遍の道徳。時代や地域は関係ない。

悪の根源は邪見・痴・無明。心には物事をありのままに認識できないという欠陥がある。それは仏教徒でも同じ。基本的に心に欠陥がある。十悪の十番目に悪の根源がある。邪見こそ無くせば、完全な人間になれるのです。

正見があればOKです。正見ある人には智慧がある。智慧さえあれば瞬時に答えが出てきます。

智慧の育て方(1):1仏陀の説かれた真理の教えを理解する。2それを参考にして自己観察を行う。3外の世界も観察してみる。智慧が現れます。どの経典も、自分という人間に語っているのです。

自分に管理できない悪感情が消え、人格が向上していくならば、智慧が現れる証拠です。どんなに膨大な経典を学んでいても、人格向上していないならば、ただの知識人であって、智者ではありません。

智慧の育て方(2):仏陀の説かれた戒律道徳を理解して守る。悪因悪果善因善果の業の法則を理解して、それに従って生きる。過去世など知らなくてもいいのです。3:因果法則を理解する。一切は無常苦無我と理解する。四諦を理解する。自己観察(ヴィパッサナー)でそれらを理解する。

智慧と知識は違う。勉強することで貪瞋痴が減ったならば、智慧を開発したということ。ただの知識人ならば、大悪人である可能性もある。一切の現象は無常なのでその時下す判断は長もちしない。最終的普遍的な判断は智慧の完成者である仏陀の管轄。仏陀の法とはその最終判断集。

仏教を学ぶことで、何かあった時は助かります。仏教に答えられない質問は、人類には作ることさえ不可能です。終わり。

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仏教と脳科学―うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで

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