月例講演「仏教には「苦行」なんか無い」

14:00より蔵前かやの木会館にてスマナサーラ長老の初期仏教月例講演会「仏教には「苦行」なんか無い 〜正しい修行は、幸福につながる〜」を開催。聴衆は100名以上か?以下、見出しのメモ。序盤は苦行=修行とゆー俗情とのけったくそ、がなぜ起こるか「肉体信仰」とゆーキーワードを中心に分析。中盤は苦行のイメージと結び付けられやすい仏教の戒律の心髄に迫りつつ、頭陀行・身念住(身随念)についても詳しく解説。終盤は八正道の簡潔な分析と、修行を完成するための「修行者への注意」をリストにして指南。あとは実践あるのみ!とゆー、隅々まで行き届いた法話だった。

仏教には「苦行」なんか無い
 〜正しい修行は、幸福につながる〜

  • 学者の見解
    • 釈尊の六年間の苦行に意義を見出そうとする仏教学者の見解を批判。
  • 本当の輪法輪
    • パーリ経典に苦行の記録を残されているのはなぜかを解説。
  • 苦行では解脱出来ない
    • 経典に苦行の記録があるのは、その無意味さを語るため。正当化する目的はない。
  • 苦行は大人気
    • 俗世間で苦行がもてはやされる理由を分析。
  • 苦行の意味(一般)
    • キリスト教、ヒンドゥ教・ジャイナ教など他宗教での苦行の位置づけ。
  • 苦行の意味(仏教的見方)
    • 仏教の苦行批判。体と心の相互依存のはたらきを考えない「苦行」は無意味。
  • 肉体信仰
    • 俗世間の苦行・行は「肉体信仰」の現れであると指摘。
  • 肉体信仰に仏陀の反論
    • パーリ聖典から釈尊の苦行批判を紹介。
  • 仏教も身体の行から始まる
    • 苦行を否定する仏陀が身体とこころの相互依存を利用する
  • 身体かこころか
    • 現代では宗教さえも身体のために行うもの。
    • 仏教ではこころが支配者で、身体は単なる物体、道具、壊れるもの、借り物である。 
    • しかし、借り物を上手に使用するべき。
  • 身体かこころか
    • こころは身体を支配するから、身体の状況はこころの状況にもなる。  
    • 身体の状況はこころに影響を与えるが、身体には完全にこころを支配・管理することは不可能である。
  • 身体対こころ:中道
    • 理解しがたい「こころ」を先に管理することは無理なので、身体からこころを清らかにするプロセスに入る。
    • Siila戒・道徳・倫理は身体の感情的な行動の管理。
    • しかし道徳が「行」になると「邪見」となる。(戒厳執・律行)
  • 戒はこころの修行
    • 道徳によって、こころが清らかにならないと、人格は向上しないと「戒・道徳」になっていない。
    • 「戒律自慢・道徳自慢・自画自賛」で世界を他人を批判・非難する結果となる。(自我の肥大)
    • 正しく戒を護る人の自我が薄くなり、謙虚になり、落ち着く。優しくなる。柔軟性がある。
  • 戒は苦行ではないか?
    • 「犬行、牛行、猿行」、断食、異食行などを仏教は禁止する。
    • 仏教の戒は個人に、又、社会に幸福を与えるものです。(仏教の戒の殆どは法律的にも禁止されている。社会人として必ず守らなくてはならない道徳)
    • 戒が「苦行」になるならば、その人に精神的な問題がある。
  • 心身は健常なら戒は自然
    • 常識的な道徳を守れない人は精神的に健常ではない。
    • 歯を食いしばってでも守ることで精神的な病は消える。
    • 精神が弱い人にのみ戒を苦しく感じる。一般の人には当たり前の生き方となる。
    • 理性に基づいて戒を守ると、こころが成長し、清らかになる。
  • 道徳・戒は完璧ではない
    • 戒・道徳だけでは人格は完成しない。悟り・解脱はできない。
    • 戒の力は煩悩を抑え、睡眠状態にすること。
    • しかし理性・理解を伴う戒によって「自我」が無くなる可能性が大いにある。
    • 戒・道徳に馴染むことで、身体の行は完成する。
  • 健常な人に戒は苦にならないが、弱い人は?
    • 自分の人格的な弱さをチェックして、対症法として微妙に戒律を調整することはある。
    • 出家の13頭陀行はその例である。
  • 13頭陀行の項目(略)
    • これは出家は極秘で護る「行」であり、師匠以外だれにも知らしてはならない。
    • サンガの統一性・平等・調和を保つためである。
  • 現代的な行
    • 昔と違った誘惑は現代にあるとするならば、それらを戒めることでこころは清らかになる。(テレビ、パチンコ、タバコ、ゲーム、インターネットなど)
    • しかしあくまでも個人が自分の希望で決めるのであって、「それが仏教だ」と思ったり、他人に自分の行を自慢したりしてはならない。(他人を助けるアドバイスとして伝えても良い)
  • 瞑想実践も先ず身体から
    • 煩悩を完全に断つ瞑想実践も身体を観察することで始まる。
    • Kaayaanupassanaa 身念住の詳細(瞑想合宿などで坐禅・歩行禅などの合間も24時間実況中継するようにと指導しているのは、24時間の行為がすべて身念住だから)
    • 身念住14種は、具体的・合理的な智慧の開発方法で、苦行は微塵も入っていない。
  • 身体からこころへ
    • 身体の瞑想が進むと、自然に感覚に集中するようになる。(受念住)
    • 感覚を理解してゆくと、こころの働きが見えてくる。(心念住)
    • こころの働きを理解してゆくと、自然に普遍的な真理・dhamma(四聖諦、無常、無我など)が見えてくる。(法念住)
    • 結果として悟りに達する。
  • 誠の仏道
    • 八正道は中立・中正・中性(理性)的な正真正銘の仏道。
  • 知識から智慧へ
    • 八正道の正見と正思惟は人は最初に育てるべき理解・知識・思考のこと。(講演会などで法を聞くことも正見を育てることである)
    • 正語、正業、正命は理性に基づいた生き方・道徳である。
    • 正精進は人格的なこと、怠けず成長するために努力すること。
    • 正念と正定は智慧を開発する方法でである。
    • 従って、苦行には立場がない。
  • 修行者への注意
    • 自己流になると悟れない
  • 仏陀に忠実に
    • 仏道は束縛の道ではなく、自由になる道である。
    • 我がまま、好き勝手、主観的な生き方は自由ではなく「病気」である。
    • 真理に従うことこそが真の自由である。
    • それから、存在を脱出する。
    • 修行の方法を調整する場合は、「こころは成長するか否か」が決まり手となる。(日本のように、戒律を自分の都合で「捨てる」のは話にならない。戒律を個々人の資質に合わせて調整するのは師の仕事)
    • 人の話、仏教学者の見解などに乗らないこと。(俗人に悟った人の教えを聞くのは意味がない。また、学者というは性格的にだらしなく、酒ばかり飲んでいる自分の精神的レベルにブッダを貶めないと気が済まない)
    • 他宗教の行を導入しないこと。
    • 今までの習慣・伝統・文化も仏説に適合しない場合はキレイさっぱり止めること。(何千年続いた伝統だろうが無知は無知)
    • 世間の無知に従うのではなく、理性的な考えのみを聞くこと。
    • 自分の成長に役に立つならば、「人の真似」を使用する。(人=人格的な先輩、優れた人のこと)
    • 仏陀の瞑想方法であっても、勝手に幾つかの方法を混ぜないこと。
    • 仏教の瞑想にも合成出来るセットがあるので、指導者のアドバイスを聞くのがベター。
    • 個人的な好みで修行しない。(例:超能力・神通が欲しいなど)
    • 解脱したいと思うのは構わないが、それが足枷になる恐れもある。
  • 修行衝動の持ち方
    • より具体的に動機付けを持つこと。例えば……
    • こころを清らかにしたい。
    • 悪をなくしたい。
    • だらしない、感情的な人格を何とかしたい。
    • 苦しみを乗り越えたい。
    • 出来るところまで成長して生きたい。
    • などのこころ構えによって「成功」することができる。
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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜