拙稿「仏教とジレンマ」がスマナサーラ長老の単行本『道徳ロボット』に収録される

昨年12月刊行の『サンガジャパン Vol.31 特集:倫理――理性と信仰』の巻頭記事「仏教における倫理とは何か?」にて、スマナサーラ長老の前座的な役回りで「仏教とジレンマ」という文章(講演文字起こしのていの書下ろし)を寄稿しました。2018年10月11日に行われた「第51回サンガくらぶ」でしゃべった内容がもとです。

特に反響らしきものもありませんでしたが、このたびスマナサーラ長老の単行本『道徳ロボット――AI時代に欠かせない「幸福に生きる脳」の育て方』(サンガ)に収録されました。

同書の読みどころはAI やロボットに「道徳エンジン」を搭載する研究に取り組む鄭雄一教授(東京大学大学院)とスマナサーラ長老の対談ですね。僕の担当箇所では、スマナサーラ長老との対話パートで、スリランカ史書(マハーワンサ)の記述は、金科玉条のように捉えるべきではない、という言葉を聞けたのは良かったなと。

僕の問題提起は以下のような内容。

 古代スリランカのドゥッタガーマニー王は、スリランカの北部を支配していたインド系異教徒のエーラーラ王(徳のある王だったとされる)と戦って勝利した英雄として知られています。
 彼は挙兵する際、自らの槍先に仏舎利を仕込んで仏教徒の聖戦を演出しました。敵王エーラーラを殺し戦争に勝利した後、スリランカ仏教サンガの長老たち(八人の阿羅漢たち)は大量殺戮を懺悔する(ふりをしていた?)ドゥッタガーマニーをこのように慰めるのです。

 

 その業(戦争による大量殺戮)が、御身の天界に生まれる道に差し障ることはありません。人間の王よ、ここでは、ただ一人半の人が殺されただけです。一人は三帰依しており、他も五戒を保っていましたが(※エーラーラ王のこと?)、他は邪見ならびに悪行の輩で、獣類に等しいと思われます。御身はまた様々な方法でブッダの教えを輝かしなさい。そうすれば、人間の王よ、あなたの心の憂いは払拭されるでしょう。

 

 ここでは、王が殺戮したダミラ人(インド系民族)を「邪見ならびに悪行のやからで、獣類に等しい」として、殺生を正当化しているように読めます。①のケースとも少しかぶりますが、仏法を守る(護法)という「崇高」な目的と、殺してはならぬ(不殺生)という仏教の戒律がぶつかったジレンマですね。
 阿羅漢たちの(とされる)言動について、仏教的にはどのように解釈・評価するべきなのでしょうか?(p105-106)

 スマナサーラ長老のコメントは以下のとおり。

 先ほどの話にも出ましたが、大昔にドゥッタガーマニーという王がいました。私はあまり好きな王ではないのですが、歴史書『マハーワンサ』を書いたマハーナーマというお坊さんは、王家の連中のご機嫌を取るためにドゥッタガーマニーをやたらと褒め称える歴史書を創作したんですね。それがスリランカの正史になってしまっているのです。『マハーワンサ』が書かれたときには、ドゥッタガーマニーはとっくに死んでいましたが……。本を書いたのはお坊さんですから、ドゥッタガーマニーがたくさんの仏塔を作ったことをありがたがっているんですね。それだけの話だと思います。
 だから、『マハーワンサ』の中で、阿羅漢たちがこれこれを言ったというのは完璧に嘘の伝承で、マハーナーマさんはただの歴史学者で、ただの学僧で、阿羅漢の心は知りません。阿羅漢たちは社会と関わりを持ちません。お坊さんが社会と関わりを持つと、けっこうジレンマになる問題がたくさん出てきます。(p128-129)

というわけで、スマナサーラ長老も僕も佐々木閑さんが『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』と指弾してたような「テーラワーダ歴史原理主義者」とは一線を画したスタンスでやっておりますので、悪しからず。

naagita.hatenablog.com

 

拙稿「仏教とジレンマ」を通じて、僕が強調したかったのは以下のくだりです。

 ジレンマを説かないはずの仏教の歴史で、なぜジレンマが起こるのか。お釈迦様の教えは完全である(svākkhāta 善説)とされますが、その完全さはジレンマと無縁であることを意味しないのです。ある仏典に記録された対話を読んでみましょう。


阿羅漢も迷う―『ミリンダ王の問い』より


ミリンダ王の問い(milindapañhā)』に、紀元前にインド北西部を支配していたメナンドロス大王(ミリンダ王、ギリシャ系植民王国の主)と仏教僧侶ナーガセーナ長老との対話が記録されています。成立が早いとされる前半部分に、興味深いやり取りが出てきます。

 

大王「尊者よ、(阿羅漢は)迷うでしょうか? あるいは迷わないでしょうか?」

長老「大王よ、ある事柄については迷い、ある事柄については迷わないでしょう」
大王「尊者よ、どのような事柄については迷い、いかなる事柄については迷わないのでしょうか?」
長老「大王よ、まだ知られていない技術の領域、あるいはかつて行ったことのない地方、あるいはかつて聞いたことのない名称・表記については迷うでしょう」
大王「どのような事柄については迷わないのでしょうか?」
長老「大王よ、(覚りの)智慧により、『無常なり』『苦なり』『無我なり』とされた事柄については迷わないでしょう」
(『ミリンダ王の問い』第一篇第二章)

 真理に関わらない時事的・社会的な事柄については阿羅漢も迷うのだ、というのですね。敷衍すれば、「サンガも迷う」ということでしょう。

 先ほどのケースに照らせば、ドゥッタガーマニー王への阿羅漢たちの言葉も、シャム派サンガのカースト排除も、その当時の社会状況ではジレンマへの穏当な対応だったかもしれません。でも、それは歴史的な文脈を超えて、普遍的に正しいとは言えないのです。(もっと言えば、お釈迦様が比丘尼サンガに八重法を課したことも、他の選択肢があり得ない永遠の真理であるというよりは、古代インドの社会状況においてはそうせざるを得なかった、ということにとどまると思います)
 現代に同じことをしたら、仏教サンガは社会的非難を浴びることでしょう。阿羅漢や仏教サンガの言説や行動であっても、社会に関わる限りにおいて、それは相対的な正しさにとどまらざるを得ない。
 仏教は出世間の道を世間の只中で指し示さなくてはいけないのですから、絶えずジレンマに直面して、そのつど智慧と慈悲を駆使して、永遠にトライ&エラーし続けなくてはならないのだろうと思います。

(中略)

 仏法は不変だが、変化し続ける社会との関係はアップデートが必要、ということですね。(p108-111)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~