基本的にダメな『日々是修行』

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

佐々木閑『日々是修行 現代人のための仏教一〇〇話』ちくま新書


朝日新聞に連載されたゆるい仏教エッセイをもとにまとめられたもの。原始仏教・初期仏教の教えのうち、佐々木氏の共感できるものだけを切り出して「釈迦の仏教」と名づけて紹介している。つまり、自分の理解能力の範囲=お釈迦さまの教えの範囲とゆー、考えてみればずいぶん傲慢な切り分け方で、つづられている。部分的には面白いところがあるが、所詮は自分の俗情を仏教に投影しながらのゆるゆるエッセイだ。


例によって、自分にはわからない理解できない輪廻について難癖をつけていて、「輪廻の世界観をそぎ落とした」先に仏教の普遍的真理があるとのたまう*1のだが、失礼ながらそれは佐々木氏の理解能力が釈尊の教えに及ばないだけの話ではないか。悟りを開いたわけでもない佐々木氏の理解能力のレベルに合わせて「仏教の普遍的真理」云々を議論していいのだろうか?ちょっくら冷静に考えてみてほしいものだ。


「(輪廻について)一番奇妙なのは、生まれ変わったら、過去の記憶は残らないということ。」*2という一節には噴いた。仏教では、三明(解脱者の三つの明知)のひとつには宿住智(自分の前生のありようを知る智慧)が数えられている。凡夫が凡夫のままありありと輪廻がわかるのだったら、そもそも修行してそれを発見する必要もないじゃんか。まぁ、修行しなくても何となく常識の範囲でぼんやり考えられることに仏教を引き寄せたい気持ちはわからないでもないが(生命の基本的な衝動は無知と怠けだから)、その無知と怠けで丸め込んだ代物「が」仏教だと吹聴することの罪深さを、学者の皆さんはちったぁ、考えてくださいな。*3


というわけで、基本的にダメな本ではあるが、基本的にダメなこういう本を入り口にしてお釈迦様の教えに興味を持つ人と話をするために、読んでおいても悪くはないのではないか。


ちなみに『日々是修行』の「はじめに」には、増刷分から次のような「付記」が入った。

付記:
本書で用いている「小乗」という語は、本来は大乗仏教側からの蔑称であるから使用すべきものではない。しかし私は、その小乗仏教を敬愛しており、そこにある「釈迦の説いた道をひとり歩む」という生き方に惹かれているので、その教えを端的に表す語として、あえて「小乗」という呼称を使った。人によっては不愉快な思いをされたかもしれないが、その点はお詫びする。私は、大乗世界の人たちから「小乗」と蔑まれてきた釈迦の仏教を、その「小乗」という言葉ごと、名誉回復したいと願っているのである。その点、ご承知おき願いたい。*4

本書では、蔑称であることに何の注意書きもなしに、テーラワーダ仏教(上座仏教)を指す名称として「小乗仏教」という言葉が頻発されていた。その杜撰さに対して、抗議が寄せられたことへの対応としての「付記」のようだ。


多少なりとも仏教史の常識を知っている人ならば、現存のテーラワーダ仏教を「小乗」と呼ぶことは侮辱の文脈でしかあり得ないことは自明だと思う。それにそもそも小乗仏教という誤用ごと「名誉回復」されることなど、誰も望んでいないと思うのだが、いかがなものだろうか?


実は、この「小乗」垂れ流しこそが、本書のもっともダメで罪作りなところだったのだが……。上記の付記によって、しょっぱなから自分のものいいが「基本的にダメ」であることを表明したのはいさぎよい態度かもしれない。というわけで、ダメ本でした。


参考エントリ


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*1:第二四話,第二五話

*2:第二四話

*3:でもってそんな本に『日々是修行』と付けられた日には……

*4:14ページ