佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』新潮選書 ~知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育む~

佐々木閑さんと宮崎哲弥さんの対談新刊『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮社,新潮選書)を読みました。結論からいうと、たいへん読みどころの多い良書です。

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

宮哲さんが巻頭言をユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の引用からはじめているあたり、掴みはバッチリ。ちなみにハラリはヴィパッサナー瞑想の熱心な実践者です。仏教徒と公言しているわけではないようですが……。

本書でもっとも印象的だったのは、佐々木閑さんが仏教学者の藤本晃さんを名指しして「テーラワーダ歴史原理主義者」として強く批判していたことです。(165p仏教に輪廻は必要なのか,284p~295pテーラワーダ原理主義化/藤本晃氏の言説が含む問題点)

テーラワーダ仏教の「強信者」と言えるかも知れない僕も、藤本晃さんの最近の論調(初期仏典どころかスリランカの史書まで一言一句無批判に絶対視する姿勢)はちょっと無茶すぎるよなぁと思っていたので、批判自体は「そうだそうだ!もっとやれ~!」という感じで受け止めています。

もちろん藤本晃さんの主張が全部トンデモというわけではなく、仏教学の方法論に関する重要な論点も含んでいると思うので、佐々木閑さんとは論文の応酬や学会パネルなどでガチに四つに組んで論争してほしいものです。

全体的に見ると『ごまかさない仏教』は仏教書不作に思える今年に出たなかでは光ってる本だと思います。ただ、業報と輪廻について何としても拒絶したがるお二人のいつもの拘り(165p~)にはなんだかなぁ、という感想を禁じえません。(;^_^A

あと、四沙門果に関する議論(109p~)では、覚りの階梯と十結(五下分結と五上分結)との関係にまったく触れないまま珍説を弄んでいて、正直苦笑してしまいました。繰り返しますが、いくつかのミスリードを除けば、お二人の該博な知識知見と志の一端を垣間見れる概ね有意義で楽しい本だと思います。

宮崎哲弥さんがスマナサーラ長老の言葉を引きつつ哲学者・永井均さんの無常に関する「誤解」(というか難癖?)を一蹴しているくだりは鮮やかでしたし、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『ゆかいな仏教』(サンガ新書)を公開処刑よろしく糾弾していたのも素晴らしかった。!(^^)! ほんと、どうしようもない本ですからね。わいの筆誅は以下のブログ記事にて。

naagita.hatenablog.com

藤本晃説との絡みでいうと、佐々木閑さんは同書で「廻向の導入こそが大乗仏教の根源」(221p)と言い切ってて、藤本さんの功徳廻向に関する新説を完全無視してますね。宮崎哲弥さんもツッコまない……本人読んだらここが一番ショックかも(笑)。

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

 

宮崎哲弥さんの発言でいちばんエモくてグッときたのは、274pの"なぜ「釈迦の殺人行為」は大乗にいたるまで伝承されてきたのか。"というくだりですね。ぜひ味わって読んでください。

上述のように佐々木閑さんは『ごまかさない仏教』終盤で激烈な藤本晃批判を展開していて、日本のテーラワーダ仏教があんな歴史原理主義的に傾くのは心配だ……と憂いてます。 それに対して宮崎哲弥さんが「スマナサーラ長老がそのような硬直的な態度を採ることはないと思います」とフォローしてるのも面白かったですね。

佐々木閑さんといえば、彼の新書本『日々是修行』について、2009年にブログで完璧な書評(当社比)をものしたことがありました。いまだったらもっとゆるふわに書くと思うけど、この頃は血気盛んだったからなぁ。ほんとに筆誅を加えるつもりで書きましたよ(笑)。

naagita.hatenablog.com

このブログ書評が何か影響を与えたのかどうかわかりませんが、その後、佐々木閑さんが現存のテーラワーダ仏教を指して小乗仏教という差別語・侮蔑語を用いることは無くなったようです。(全部の著作を読んだわけではないですが……)

佐々木閑さんに限らず、ほんの10年くらい前まではインド哲学仏教学の研究者が「小乗仏教」という明らかにマイナスの価値の入った差別語・侮蔑語を使っても看過されるという、非常に情けない状況があったんです。(現役研究者も関与してたので、学界内部では無かった歴史として忘れ去られるでしょう。)

なぜかと言えば、だれも文句を言わなかったからです。文句を言われるかもという発想すら無かったんです。東南アジアやスリランカ仏教徒は日本語など読まんだろうし、世界に冠たる経済大国で援助国の日本人様に楯突くこと言うはずない。ましてや日本人で小乗仏教を信じるバカなどいるはずないだろと。

だから延々と、小乗仏教と言い続けていたんです。そういう点では1970年代から東南アジアやスリランカに入っていった文化人類学者の研究者のほうが、よりフラットな眼差しでテーラワーダ仏教を紹介していたと思います。最近『上座仏教事典』に結実した学際的な研究の流れも、彼らの触発によるものが大きかったと思います。

上座仏教事典

上座仏教事典

 

これは見方を変えれば、大乗仏教優位説にすがりつく伝統宗学の情念が、より客観的・実証的・価値中立的なスタンスを求められるインド哲学仏教学の他分野にも流れ込んでいた、ということです。近代日本の仏教学も、いかに大乗仏教の正統性を学術面で裏付けるかという危機感によって形成されましたから。

でもね、そりゃしょうがない話ですよ。だってインド哲学仏教学やってる人たちは大半が日本仏教のお寺関係者ですから。佐々木閑さんだって、「僕は理系出身だから〜」とか言って畑違いを強調してるけど、ホントは真宗高田派のお坊さん(現役の住職)ですからね。生まれついての業界人やんけ!

佐々木閑さんの場合は実は「良心的」で、彼独自の初期仏教観(そもそも仏教は社会不適合者のための病院、サンガはニートの集いetc)に基づいて、「大乗世界の人たちから「小乗」と蔑まれてきた釈迦の仏教を、「その「小乗」という言葉ごと、名誉回復したい」という善意から(ほんとかね?)日本のクォリティペーパーを誇る朝日新聞紙面の連載でもって小乗仏教小乗仏教と書き続けたわけです。

でも、そんなの自分の学者としての良心のやましさと業界空気読みを折衷したどうでもいい曲芸言説ですよね? 当事者からすれば、「なに高尚ぶって滑ってるんだよ、さむいわ!」で終わりです。

それどころか、「あえて使っている」というエクスキューズを入れれば「小乗仏教」と言っていいんだ、という新たな差別語の固定化をも企図してたわけです。良心的といったけど、こう分析して見ると、佐々木閑さん超タチが悪いじゃん。野望打ち砕いといてよかったわぁ……って、うがった見方過ぎますね。

とにかく、誰かが声を上げなければ理不尽な差別はいつまでも残るし、ほっとけば専門家の手によって再生産され続けます。俗世の高みにいるように見える研究者もまた、属する業界の秩序・構造に組み込まれているから、業界のノリに冷水を浴びせてまで「差別はやめよう」という勇気は出てこないんです。

不公正に対して黙っていてはいけない、とは実は引っ込み思案だった(驚愕の事実!)某長老に対して師匠がかけた言葉だそうです。不公正に対して黙っていてはいけないし、黙ることをやめれば(やめ続ければ)、状況は確実に動くものです。小さな事例かも知れませんが、僕はそれを身をもって知りました。

昔話が長くなってしまいました。パーリ相応部大篇サラカーニ経のなかで釈尊は、仏道修行して解脱に至らなかったとしても、仏法への僅かな知的理解を得たり、またはブッダへの敬愛・愛情を抱いたりするだけで、死後は決して悪趣に堕ちることはない(あの世でも幸福になれる)と太鼓判を押しています。

その教えを踏まえれば、「仏・法・僧」の掌中をうろうろしつつ、知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育める本書を読むことの功徳は決して少なくないと思います。

というわけで、佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す 』新潮選書、おススメです!

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~