仏教の基本的概念”saṅkhāra(行)”の多義性と解釈をめぐるプラユキ・ナラテボー師との論争――というか通仏教的な定説にもとづく誤謬の指摘

プラユキ・ナラテボー師というお坊さんとTwitterで仏教の基本的概念である”saṅkhāra(行)”の解釈をめぐって論争(とまでは言えるかわかりませんが論争的なやり取り)をしました。

実際のところ、論争になることは無くて、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」を「無明に基づく心の働き」とするプラユキ師の解釈が間違っていることは確定的なんですけど、私にはよく理解できないロジックと、「いいね!」を100以上もらってるから、というこれまた全く意味が分からない理由で、師が自説を撤回することはありませんでした。

プラユキ師は「ツイッターという場で対機説法をする際に」ということも強調されていましたので、ちょっと筆が滑っただけで、「いいね!」100以上ついたTweetをいまさら引っ込めるのも立場的に苦しいのかな?と思ったのですが……たまたま、ほんとうにたまたま閲覧した「ダーナnet」のインタビューでも、師は同じ「間違い」発言をされていたんですよね。

www.dananet.jp

日本では一般に「一切皆苦」という言葉が流通し、「『人生はすべて苦である』と悟るのが仏教である」などと解釈されています。でもそれってなんか救いようが無さすぎる感じですし、仏教を学ぶモチベーションにもあまり繋がらないですよね。ところでブッダも「生きることは苦しみだよ」ということを仰しゃりたかったのでしょうか?

ブッタは実際そのようには説かれていません。原文は「サペー(一切)・サンカーラ(行)・ドゥッカ(苦)」ですから「一切行苦」、無明むみょうすなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動はすべて苦しみにつながると仰しゃったのです。そして、こうした苦しみをめつする(克服する、あるいは超克する)道もある。すなわち、無明の闇を晴らしていく方法を説かれ、そうした道を歩めば、われわれ誰でもが苦しみを滅し尽くせると仰しゃったわけです。

もちろん、引用したセンテンスがすべて間違いということではありませんが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」の解釈は明確に間違っています。

十二支縁起の「行」を「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」とするのは、わかりやすい解説だと思います。釈尊ご自身が分別経(相応部因縁篇)で「行」の意味を「身行・口行・意行」と語釈されていますから。

しかし、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」は、広く「現象・作られたもの・形成するもの」を意味します。「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」に限りません。

五蘊や十二支縁起の「行」で表している概念は、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に包含される意味内容の一部に過ぎないのです。

ちなみに、筆者が東洋大学の印度哲学科「仏教概論」でテキストとして使った水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社でも、saṅkhāra(行)の概念内容の広狭に注意するよう書かれています。

仏教要語の基礎知識

仏教要語の基礎知識

 

諸行無常」の行は最広義のものであり、五蘊の行はそれに次ぎ、十二縁起における行は最狭義のものである。(119p~)

関連するページ画像を貼っておきましょう。

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もちろん、プラユキ師のインタビュー(説法)は全体として有意義な内容だと思いますが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に関する説明は間違っているのでは? ということです。念のため。

 

仏教の正しい内容が長く伝わりますように、という願いを込めて、このエントリーを投稿します。

 

追伸:仏教用語の多義性ということでいえば、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「苦」を「苦しみ」と説明することの問題点にも触れないといけないんですけど、それをやりだすとキリがないので、今回はやめときました。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~