新宿朝日カルチャー初期仏教入門「ローヒタッサ経を読む」(スマナサーラ長老の法話より)

2011年12月22日新宿朝日カルチャー初期仏教入門「ローヒタッサ経を読む」メモ

(※気になったところだけ)

 

相応部経典に記録されたローヒタッサという神とブッダの対話。

 

神の質問:《世界の果て》に行けるのか?

 

世界 Loka とは、地球・宇宙/生命 という二つの意味で使う。他言語でも同じ。当時にインドでは、生命と環境を区別しなかった。《世界の果て》とは宗教者の考える「解脱」emancipation のこと。

 

この世は災難に遭遇している。生まれる、老いる、死ぬ、没する、再生する。しかしこの苦・老死からの解放は見つからない。(loka=衆生 の用例) 清浄道論では三つに分ける。行界(現象)、衆生界(生命)、空間(宇宙)。

 

ローヒタッサは生老病死のない境地(空間的な意味もある。いわゆる天国のような場所)を探し求めていたのです。

 

仏典では、如来には三千世界に声を届けられると説く。しかしその直後に、だから何? と突っ込んで阿呆な信仰に陥らないように戒めることも忘れない。

 

釈尊:世界の果てに歩いて達することはできない。しかし私は、感覚がある二尺程度のこの身体の中で、世界、世界の生起、世界の滅、世界の滅に達する道を宣言します。

 

この五蘊が世界です。四聖諦の「苦」を世界という語に入れ替えている。世界の果てとは解脱である。

 

宇宙についていくら調べても考えても意味がない。だから何?ということ。生命が「識る」とは、認識範囲の違いでしかない。人間とコウモリの認識に、優劣を付けられない。コウモリの認識を人間は正確に把握できない。人間は識る機能に加えて激しく妄想する機能を持っている。神や魂まで妄想して、あるに決まっていると信じ込む。制限された認識範囲で真理を知るということはあり得ない。生命は何を識っても《今、自分が生きている》という幻覚の投影 projection でしかない。だから世界の果てに、天国や極楽を妄想してしまう。

 

貴方の問題は《識ること》にある。生命の識る機能を調べることで、無常・苦・無我を発見する。(認識機能の幻覚を破って)苦から解放される。

 

生命は生き続けるエネルギーを常に眼耳鼻舌身意から取り入れている。意=思考が引き起こすエネルギーは強烈。瞑想して下さいと言うと、その瞬間から激しく妄想するのです(苦笑)。感覚器官に管理されない幻覚・幻聴も生き続けるエネルギーです。だから身体が壊れても生きるエネルギーは終わらない。新たな生まれが起こるだけ。

 

眼・色・眼識の「合」が触。触から受(感覚)、受から渇愛渇愛から執着が生起する。渇愛を残りなく滅することで世界(苦)は滅する。


外界をいくら観察しても主観の認識以外の何ものでもない。思考・妄想は苦しみを更新するだけ。生命の認識過程を観察することで、一切を識ることになる(世界の果てに達する)。渇愛を滅して苦の更新から解放されるのです。(終わり)

 
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