摩天楼法話会「真理を喜ぶ者は安らぎを得る」(スマナサーラ長老の法話より)

20120925(お彼岸最後の日)

新宿・日蓮宗 常圓寺祖師堂

摩天楼法話会「真理を喜ぶ者は安らぎを得る」

講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

ブッダの話は父親の話を聴くような感じで聴いて欲しいのです。異論があったら出して欲しい。お互い仲良く話し合って真理を学んで成長していくのが仏教の世界です。宗派は発展していったが、元の姿も知っておいた方がいいのです。

 

お寺の住職さんに旦那さん奥さんの愚痴を話してもいいのです。ちゃんと聴いてくれます。いま檀家さんとお寺が疎遠になって葬儀くらいしか関係がなくなっています。それは寂しいことです。

一般の方とお寺が仲良くなって安心できる社会を作らないといけないのです。いまは人の生き方が自己破壊になっています。仕事することが毒を飲むような、火であぶられているような事になっています。それを変えて生きる事を楽しく安らぎを得られるようにすることは、お寺にしかできないと思います。

 

お寺が置かれている状況も、社会の状況も大変ですが、それでも私たちは穏やかな気持ちで生きていることができます。しかし、そのためには一工夫しないといけないのです。では、これから私の話に入ります。

 

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アメリカで撮られたムハンマド侮辱映画に抗議して、暴動やテロが起きています。滑稽なのは、イスラム教の人々が自らの行動によって、「イスラム教は野蛮で暴力的」という映画のメッセージを自ら証明してしまったことです。

 

ユダヤ教キリスト教イスラム教、歴史上、お互いに争ってたくさん人を殺してきました。仏教的に冗談をいうと、ちょっと侮辱された位でけがされる教えだとしたら、それはひ弱な教えということではないでしょうか? 全知全能の神を批判しても、神がびくともしないはずなのに。批判者は神から見たら虫ケラでしょう。気にするはずがないのです。なぜ烈火のごとく怒って暴れるのでしょうか。そういう常識的なものの見方も信仰によって崩れてしまっているのです。

 

世の中の争いに使われるのは、決まって宗教なんですね。何が唯一絶対神の教えかを巡って人々は殺しあっていますが、地球が丸いということを巡って争いが起きることはないのです。見たことは無くても誰も疑わないのです。誰かが地球は平らだと言っても「殺すぞ」とはなりません。ニコッと笑って終わりです。

 

イスラム教の人が、キリスト教はサタンの教えだと言ったとしても、病気になったらキリスト教の医者に看てもらうでしょう。ポイントは理論的で、仏教徒だって病気になったら医者に「貴方は何教?」とは訊かないんです。

 

私たちは、喧嘩する時は喧嘩する、殺し合いする時は殺し合いする。病気を治すためにどの呪文が正しいかについて宗教家が議論したら、つかみ合いの喧嘩になるでしょう。しかし医者が治療のメニューをいくつか出す場合は、冷静に議論できるのです。

 

事実について、我々は喧嘩しないのです。

 

何が事実か曖昧な時、我々は困る。争いが起きるのです。はっきり明確な時は困らない。争わないで落ちついているのです。事実の世界、真理の世界(医療もある分野での真理)が現れてくると、人間が安らぎを感じるんです。

 

呪術師が祈祷してそれでも病気が治らなかったら、言い訳をするのです。あなたは神の怒りをかったのだ、祈祷ではどうにもと。医療ミスがあったら、言い訳訊かないで医者を訴えます。祈祷師は訴えないのに。

 

医学が発達すると、我々の不安が消えていくのです。本当のことを発見することは、人々に不安を無くして安らぎを与えることなんです。

 

実社会でもそうです。尖閣諸島の領有権について、日中のどちらかに確固たる証拠があれば、今のような争いにならなかった。結果は、不安でたまらないのです。中国であれだけ社会が発展していたのに、全部ぶち壊す猿たちが現れてしまった。いくら中国人が文化人を気取っても、あれでは……。

 

なぜ突然、こんなヤバイ状態になったかというと、曖昧な不安状態があるからです。今日にでも明らかな証拠が見つかったら、平和になるのです。

 

真理を知ったら安らぎです。真理を知らないと危険です。これを仏教が最初から言っているんです。究極の幸福・安穏にいたりたければ、真理を知りなさい。真理を喜ぶというのは、これはほんとうかな?と真理を探求する気持ちのことです。

 

私たちは真理を知らなくても、「真理を喜ぶ」気持ちを持たないといけないのですまだ真理を知らないけれど、真理を求めて自ら調べて新しいデータを得ることに、良かった良かったと喜ぶことです。

 

噂に乗らないことが大切です。日本の週刊誌は噂でできています。それに皆乗ってしまう。人の噂に乗って好き勝手な話をして喜んでいます。それは「真理を喜ぶ」態度ではない。人の心を曖昧な不安状態に陥れることなのです。

 

我々は真理を喜ぶ生き方からどんどん遠ざかっています。それで、悩み苦しみが増しているのです。インターネットのおかげで世界の情報を即時に知ることできるのに。それは私たちが「真理を喜ぶ」ことをしないで、噂を喜んでいるからです。そのせいで、私たちは心の安らぎを失ってしまうのです。

 

「ここだけの話」は危険です。ジャータカ物語で、秘密は誰に言うべきかと議論になったことがある。菩薩は「秘密だったら誰にも言うな」と答えるのです。一人にしゃべった時点で、それは秘密でも何でもないのだと。皆さんは聴きたくない答えでしょう?

 

秘密とは、決まって悪いことなんです。秘密があるなら、誰にも話さないでください。秘密にしないといけないようなことはやらないことです。

 

真理を喜ぶことです。ブッダの教えを細胞単位にでも分解して徹底研究してみてください。僅かにでもブッダの教えに間違いがないかと、調べてみてください。仏教はオープンチャレンジです。真夏の太陽のように、ブッダの説かれた真理は堂々と輝いていますよと。それだけ自信をもって語っていることです。

 

他の宗教には、そんな自信はない。その代わりに必ず脅しが入っているのです。唯一絶対神と言いながら、他の神を拝むなよ、地獄に堕とすぞと脅しているのです。「唯一の神なら、他に誰もいるわけないだろうに。こいつは何を言っているのか」と、私は子供の頃に聖書を読んで笑ってしまったのです。

 

「あなたの他に、覚りに達している仏弟子は一人でもいるのか?」とあるバラモンに訊かれて、釈尊は「比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、それぞれ何百人でも、もっと幾らでもいますよ」と答えました。それで相手は黙ってしまったのです。

 

真理とは何でしょうか?

 

生きることは大変です。苦労して頑張って、やっとのことで生きています。命は惨めである、というのは別に嘘じゃないでしょう。日本の総理大臣は日本のトップですが、好きなように生きているわけじゃないんです。皆さんよりも極限に惨めですよ。ちょっとした軽口も叩けないんです。

 

会社でも平社員で入って昇進するほど、責任がのしかかって苦しみが増えるのです。これが紛れもない事実です。自分で地獄をつくるようなものです。毎日、身体が弱くなるばかりです。金があっても遊ぶ暇がないのです。ご飯を食べる暇も、家族と団欒する時間もないのです。

 

生きるとは、年取って身体が弱くなるわ、病気になるわ、嫌な人と付き合わなくちゃいけないわ、愛する人と別れなくちゃいけないわ、……それは現実に私たちが直面していることです。

 

渇愛に駆られて、物に執着して、面子に拘って、足を引っ張りあって、憎しみあって、争っているのです。ただでさえ生きるのは苦しいのに、自分たちでさらに苦しみを増やしているのです。

 

私たちは、ものに執着しています。しかし生まれた時には何も持っていなかったのです。身体も母からもらったものです。陰部を隠すハンカチ一枚も持ってこなかったのです。すべて借り物なのに。借りたものは丁寧に使って返してください。返さないぞと思ってしがみついても無駄です。返さないといけません。死ぬ時は何も持っていけませんから。だったら先に返せばいいでしょう。それができないのは、執着しているからです。

 

私の家、私の服、私の臓器、さえも成り立たないんです。髪の毛一本さえも自分の思い通りにならないんです。

 

我々は何も持たずに生まれてきたのです。肉体だけは借りて生まれたけれど、維持管理は大変です。苦労してメンテしても、レンタル期限が来たら返さないといけません。返したくないと抵抗しても無駄。余計に苦しみが増すだけです。

 

だからお釈迦様は、借りたものは必要な分だけ、大切に使うことを教えたんです。食べる時は身体を維持する必要な分だけ食べてくださいと。一切生命が幸福でありますように、と願っていただくことです。それが王子様的な、立派な生き方なんです。

 

それぞれの人々が、それぞれの違った能力を発揮して生きることが必要なんです。子供がみんなタレントになりたいと思ってタレントになったら、社会が成り立ちません。バラバラで多様性があるから社会が成り立っているんです。障害を持って生まれてくる子供も、社会に必要な存在なんです。なのに「あいつは変だ」と言って虐める。変わっているから虐めるというのは、頭がおかしい! 一人ひとりが変でなければ、社会が成り立たないんですから。親も子供に、そう教えないといけないんです。

 

「一期一会」というのは、同じものごとは一つとしてもない、一切は無常ということです。私も講演の前と後では別人です。ずーっと変化し続けています。一人のひとの右目と左目も同じではないんです。無常で変化し続けている、一つも同じものはない一切生命を「変だ」と差別するのではなく、生きとし生けるものに、慈しみを持って接することです。

 

生きることは大変なのことだ、なにひとつ「自分のもの」は成り立たないのだ、と理解して、執着せずに、お互いを心配しあって慈しみをもって生きること。それが「真理を喜ぶ」生き方なのです。(終わり)

 

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 〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜