餓鬼道の苦しみは『妄想』の苦しみ

アルボムッレ・スマナサーラ長老の4月14日ダンマパダ講義(ゴータミー精舎)のメモより。餓鬼道と妄想についての興味深いお話。

人間は、人間のまま「餓鬼道」の世界を作ることがあります。
妄想の世界でループをつくって抜けられなくなるのです。
本人はものすごい苦しみです。
例えば、「身体を虫がむしばんでいる」という妄想にとらわれた人は、身体中が痛くてたまらなくります。
そういった妄想が無数に起こるのです。
人間は、いつ、どんな妄想に閉じ込められるか、わかったものではないのです。
幻聴が聴こえたり、幻覚が見えたり、周りの人が鬼が見えたり、ずーっと後ろから誰かがついてきて自分を監視していると怯えたり、いろいろです。
それはあきらかに妄想ですが、妄想から生まれる苦しみは本物です。
だから本人にとってはものすごく苦しいのです。
妄想のない人が、どうやってそれを助けてあげられるのでしょうか。
怒られるだけです。だからいちばんいいのは、笑っちゃうこと。
「そうですねぇ、苦しいですね。私たちは妄想がなくてほんとによかったなぁ」と思うしかない。
だからです、経典のなかで目連尊者が、苦しむ餓鬼の姿を見てニコッと微笑むのは。
「こいつは自分の妄想で苦しんでいるんだなぁ」と微笑むのです。
餓鬼道に堕ちたら、その境地はもう変えられません。
生まれた境地で、寿命が尽きるまで生きていくしかありません。
いったん餓鬼道に堕ちたら、そちらの寿命は解らない。
途方もなく長い時間、妄想の回転がずーっと続くのです。
やがて妄想で苦しみ飽きたところで、ゆっくり治ります。
業の問題だから、餓鬼を救うのは難しいのです。
実際に包丁に刺されたら痛いけど、刺されるのは一回です。
傷跡が残るかもしれないけど、やがて治ります。
しかし、妄想だったら、たいへんです。
妄想によって幻覚が起きたとき、受ける苦しみも恐怖心も実際刺されたときと同じです。
自分が刺されると思って逃げようとしても、幻覚だから逃げられないのです。
妄想で何度刺されても、実際には傷跡はないのですが、刺されるという恐怖は止まりません。
刺されたら本人は死なないといけないけれど、妄想だから死なないのです。
恐怖感で倒れて、眼が覚めたらまた同じこと繰り返します。
その苦しみと比べたら、実際に包丁で刺される苦しみなんて、どうってことないのです。
妄想の攻撃はキリがありません。
面白いのは、妄想は本物ではないが苦しみは本物だということです。
肉体の痛みもこころの働きです。
肉体はただの物質だから、こころは苦しみを感じる機械なんです。
こころは妄想しちゃうといくらでも苦しみを感じます。
餓鬼道はその極端な境地です。
人間も妄想の苦しみをつくれるけど、業で餓鬼道に生まれたら、そんなものでは済まない。
業で身体をつくったら、その世界で生きるしかないのです。
なぜ人間は妄想してしまうのでしょうか。
止めなさいといっているのに止めないのです。
「妄想を止めなさい」と教える人に向かって、病人がえらそうに説教するんですから。
なぜ精神的にいかれた人に、何の問題もない人が説教されないといけないのでしょうか。
いったい何を知っていて、精神的に健康な人にあれこれ言ってくるのか。
そこにあるのは、「こちらの言うことは絶対に聴かないぞ」という我の強さなんです。
それで、本人がどん底に落ちるんです。
おぼれていて、浮き輪あるけど、そんなものいやだ、迷惑だと拒むようなものです。
こちらは浮き輪のロープ持っていてもどうしようもない。
あるいは浮き輪を投げてやっても、怒る。
そんなもんです。
実際におぼれている人はそうしませんが、妄想の人はそういうことをします。
アドバイスを否定するのです。
「だったら最初から来るなよ」と言いたい。
妄想で苦しむ精神病の人がカウンセラーのところに行くのは、自慢するためだったりしますね。
「カウンセラーにも自分の偉大なる能力を教えてやる」という気分なんです。
それでは治りませんね。
カウンセラーは仕事だから、そういう患者の話を親切に聞いてあげます。
しかし、私のところに来たらダメです。
こっちは仕事じゃないし、お金も貰わないし、愚か者の妄想を親切に聴いてあげる義務もない。
(話は聞いてあげません。
かわりに、私の話を聞きなさい、妄想を止めなさい、とはっきり言うんです。)

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