木村泰賢全集三

『木村泰賢全集』第三巻原始仏教思想論(大法輪閣S43)を斜め読み。
巻頭に三十七歳頃の写真が載っているが、外見が僕とすこぶる似てる。前生か?(ヲイヲイ)一見してちょっとハズしてるなぁ、という処もあるけど、なかなかいい事も言っている。

仏教から輪廻論を排斥しようとする人は、仏教は無我論を主張しながら、いかにして輪廻を調和的に認め得る余地あるかの一本槍で進もうとするけれども、これは仏教における無我の意義に徹底せぬところから来るものである。仏教の排斥する我は経験我(仮我)ではなく本体我で、しかもそれは常一主催の属性を有するものである。常住の存在で、自ら自己を随意に規定し得る精神的原理の認定を拒否しようとするものである。このことは五蘊の一々について無我を論じたり、無常なるものは無我なり、無我なるは苦なり、といえるがごとき説明法に徴しても明らかではないか。したがって仏教の無我とはかかる統一原理を認めないまでで、いい得るならば、自然的経過の一現象として、種々の関係によって規定されながら、絶えず流れる生命的現象は、やはり、認めるところである。いな、認めざるを得ぬようになっているのである。しかもこれは無我論に抵触せぬばかりではなく、仏教は輪廻を脱しようとしたのも、吾らの本質はかかる不随意的経過的存在であればこそという意味を予想したものと解し得べきであろう。私は業観輪廻説が仏教に来て初めて真の哲学的意義を帯びることになった(「原始仏教思想論」一五八頁)といったのも、所詮この理由に外ならぬ。けだしウパニシャッドや教論のごとくに、自我(ルビ:アートマン)が本来常に自由の存在ならば、厭うべき輪廻に入る理由なきに反し、仏教のごとく、凡ては流れる経過の現象と解する時、そこにこの経過の一として輪廻を認め得べき充分な理論的根拠があるからである。(「原始仏教における縁起観の開展」『木村泰賢全集』第三巻443-444p)

そんでもって、木村泰賢の「無明」解釈が妥当か否かは別にして、上で述べていることは至極当たり前の仏教理解のイロハのイである。このイロハのイを踏み外したところから、日本の近代仏教学と「仏教系知識人」の言説とそれを受け売りする仏教の現場は、奈落の底に開展してゆくのである。「原始仏教の縁起観は近代論理主義の要求を顧慮して立てられたものではなく、自ら独自の立場に基づいたもの」(『木村泰賢全集』第三巻377p)という正論は無視され続けてきた。明治初年の「廃仏毀釈」を内面化して完成したのは、実は「輪廻否定」に代表される日本の仏教者のずさんな言説だったのではないか(もちろん、声の大きな邪見に惑わされず、仏教の正道を守り続けてきた人々もいたが)。

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