生きるのは苦しいのになぜ輪廻転生するのか?・他(スマナサーラ長老の法話より)

2012年10月27日(土)午前
スマナサーラ長老 幡ヶ谷・ゴータミー精舎 法話と実践会
※以下、講義中のメモから構成しました。

 

Q以前はよく、神棚とか仏壇に手を合わせていた。テーラワーダの場合、誓を立てる対象は?

A自分の悩み、自分の苦しみ、自分の悩み、自分の受けた理不尽なこと。それらを見ればすべて過去のことなのです。「いま」は問題がないでしょう。それがわかれば、問題は消えます。仏教には、何かに頼ればなんとかなるという話はないのです。

 

Q生きることは苦しいのに、人は輪廻転生を繰り返すのでしょうか?

A生きていきたいという執着があるからです。死ぬ時も悔しいから、また生きたいと思うのです。これは、認識プロセスのミスなんです。いくら苦しくてもそれを認めたくないから、何か幻覚を作って楽しいと思ってしまうのです。我々はいつでも、明るい明日があるんだよという暗示をかけて生きているのです。実際は、死ぬまで暗いみじめな人生です。だって、明るいのは「明日」ですからね。そうやって暗示をかけて、苦しみのなかで生きているのです。それは生きていきたい、生きていきたい、という執着のせいです。そんなもの放っておけ、と釈尊は説くのです。いま明るく、ニコニコといればいい。この瞬間この瞬間に充実してみればいいのです。欲がなければできますよ。でかけるために服を着る必要があれば、いまあるものを着ればいいのに、その服に満足しない。もっと他の服があればいいのに、と思うから苦しいのです。お腹が空いていて、白いご飯と沢庵しかなかったとしましょう。それしか選択ないんだから、気持よく食えばいいのです。なぜ頭の中で、過去やら未来を持って行くんでしょうか。なんでこんなものしかないのか、と考えると最悪に不幸でしょう。瞬間瞬間、充実感を感じて、選択はないと思って生きれば、いつでも穏やかに生きられるのです。「明るい明日」を目指すと、さらに輪廻転生することになるのです。

 

Q仏教は科学的、というのは分かるのですが、一点だけ、輪廻転生はよくわかりません。これは科学的なのでしょうか?ヒンドゥー教の影響なのでしょうか?

Aヒンドゥー教の影響ではありません。ヒンドゥー教の輪廻論は魂の引越し論で、初めから間違っているのです。仏教の輪廻論は、微塵もヒンドゥー教の影響ではないのです。ヒンドゥー教自体、最近できた宗教です。釈尊の時代にあったヴェーダ聖典には、輪廻の話がないのです。元々はない教えなのに、他宗教からパクって自分の教えだと言っているだけです。仏教の輪廻論はヒンドゥー教のパクリだといっている学者もいますが、それはその学者の研究が足りないだけです。固定観念の洗脳から抜けられていないのです。

輪廻転生が科学的なのか?と疑問を持つのは構いません。しかし物質を扱う科学にしても、物質の変化は止まらないのです。物質とは、変化し続けるエネルギーの流れです。現代科学では心という話はまったくしません。しかし、心は明確です。認識ですから。その認識はどうなのですかと。野球のボールは物質ですから、宇宙のサイクルと一緒に変化し続けるのです。野球ボールをつくる素粒子が綺麗サッパリ消えるということは成り立ちません。どのようにして認識機能が現れるのかとか、科学的には研究されていないのです。仏教では、認識機能も物質と同じく、無始なる過去から変化しつつ、のエネルギーだと教えています。そのエネルギーは物質エネルギーより遥かに強いのです。認識するたびに、ものすごいエネルギーが起きる。認識機能が物理法則に逆らおうとするんです。認識機能がなければ、私たちは立つことすらできません。立った時点で、地球の引力法則に逆らっています。認識のエネルギーにはスタート時点は成り立たないけど、終焉は作れますよ、というのがブッダの教えです。

たとえば過去世で犬だったとしても、その犬が死んだ時点で「犬の思考」は終わっているのです。しかし生きていきたいという衝動は「人間の思考」になっても続いています。皆さんは薪を燃やしてもそれが太陽のエネルギーだと思わないでしょう? あれは太陽がかなり前に発したエネルギーなんです。物理学から考えれば、この薪の暑さは太陽のものであると理解できます。子供に言ったら笑われますが、エネルギーの変化を理解すればわかることです。心についても、眼耳鼻舌身意 の認識レベルを超えれば観えてきます。仏教の教える輪廻転生は、みなさんが眼耳鼻舌身意 の認識レベルで想像している輪廻転生とは違うのです。

 

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