慈悲の「瞑想」なんだから

14:00より、ゴータミー精舎でスマナサーラ長老指導のヴィパッサナー瞑想会(初心者指導あり)。本日も盛況。前からずーっと気になってるんだけど、慈悲の瞑想のとき、やたら声を張り上げる人が多いのは何故だろうか?

大勢で言葉を唱えているとき、「耳から」自分の声を聞こうとしたら、そりゃ他を圧する大声が必要だろう。でも自分の声は、自分の身体が震えるのを感じれば、別に大声出さなくてもふつうに聞こえるのだ。

瞑想会初心者はともかく、何度も来ている常連さんが大声を張り上げているのを見ると少々困惑してしまう(まぁ、僕もそうしていた時期があるかもしれないが……)。また導師(スマナサーラ長老)が唱える調子を変えているのに、自分だけが頑として同じパターンで、導師を圧するような大音量で「い〜き〜と〜し〜」とやっている人もいて、やれやれと思う。オレがオレが、という頑固な慢の波動がビンビン伝わってくるからねぇ。

「自分が衆生を幸せにしてやる」と勘違いして意気込んでいるのかもしれないし、慢とゆー煩悩は預流果になったくらいでは消えないそうだから、忍耐堪忍でやり過ごすことにする。しかし、そこに気づき(sati)がないことだけは確かだね。


〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜