ブッダは2600年前に生まれた現代人か?

※このエントリは2月7日の日記に寄せられたフルナさんのコメントへのお返事です。

フルナさん、こんばんは。「頑張って修行する必要」を感じている人は輪廻を否定しようとはしないと思います。

むしろ「ブッダは輪廻を否定したのだから、輪廻を脱出するための修行も否定した」という解釈をする人もいるのです。もちろん、清らかな生活してたが、ちょっとした精神修養くらいなもんだと。解脱どころか死ぬまで道を求め続けたマジメくんの求道者だと。

煎じ詰めれば「釈尊は輪廻(という観念)を否定した。そもそも輪廻(という観念)を信じていない現代人は、釈尊とほぼ同じところに立っている。だからべつに修行も必要ない」という事です。

要するに、釈尊は2600年前に生まれた現代人であると。オレと同じだと。

日本仏教の風土では「人間はそもそも悟っている」という本覚思想が底流にあります。「自分は本来ホトケだと気づけば成仏だ」と。この風土に本気で疑問を呈したのは、道元禅師くらいのものです。

また、近代仏教学を担った人々はおおむね、修行を全否定する浄土真宗の関係者でした。彼らは濃淡はあれ、絶対他力信仰と釈尊の教えを接続しようという志向性(嗜好性)のもとに研究をしてきました。少なくとも、知的誠実と、地金としての真宗信仰のあいだでつねに揺れ動いてきたことは事実でしょう。

そういうややこしい思想的背景が、技術・約束事としての文献学の背後に滑り込むと、輪廻も修行も悟りも否定する(否定の度合いにはグラデーションはありますが…)日本的なブッダ観(別に教えというほどのこともなかった、せいぜい現代人なら常識としてわかる「無我」説や「縁起」説を教えた知識人、としての釈尊像)がいっちょうできあがります。

日本の仏教学はその出自からして、パーリ仏典・テーラワーダ仏教を正統視する西欧の仏教研究に対抗して、漢訳仏典や大乗仏教(とりわけ日本的な変容を遂げた大乗仏教)の正統性を何が何でも証明してやる、という文化ナショナリズムというか、宗教的使命感にもとづいて情報発信をしてきました。

文献学的に掘り起こされた「ブッダの真説」が、日本仏教の志向性(嗜好性)に近ければ近いほど、日本仏教学の宗教的使命は果たされたことになるのです。

また、仏教にたまたま関心を持つインテリも、自分がただゴチャゴチャ批判的に考えてきたことにブッダのお墨付きがもらえればうれしいし、できれば自分の固定概念の範囲内に「ブッダの真説」を留めておきたいのです。ただ「輪廻という観念を知らない」くらいのことで、輪廻を信じる無知蒙昧な全世界の仏教徒を論難したつもりになれるんだから、オイシイ話ですよ。

そんないい加減なことでも「仏教」を語っていると認めてもらえることは、上述したような日本仏教の思想的伝統の賜物なのです。

そういった伝統は、まだ日本では充分に相対化されていません。なぜされないかというと、国際ルールであるところの近代人文科学の手法が、一見「技術・約束事として」導入されていることで、研究者は『自分を疑わない』からです。

「技術・約束事として」導入されている学問のルールの背後に滑り込んでいる固定概念に気づくためには、知識の多寡にかからない、それなりの「頭のよさ」が必要です。アカデミズムの世界でも、知識の豊富な人はたくさんいても、「頭のいい」人はそんなにいません。

日本では「私の般若心経」とゆーくらいにいろんな般若心経の解釈が出されています。それに倣えば「私に理解できる教えが仏教」というのが、現代日本の知識人と称する人々の仏教観、教えの正邪を判断する基準である、ということは言えるかも知れません。

「それを真に受けて、私は幸せになれるのか?」「そんな基準で私は向上できるのか?」というブッダが推薦する思考法に従うならば、「現代人の仏教観なんか、下らないからぜんぶ捨てちゃえばいい」という結論になりかねないのです。

僕もまだいちいち腹が立ってくるんで、まだまだだなぁ。どんなに『バカの壁』が高くても、立派なお仕事をされている研究者は応援していきたいという気持ちもあります。仏教は、正真正銘の「知識人の教え」ですから。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜