なぜ『仏陀再誕』という言説が成り立つのか(法身思想と日本宗教)


▼再誕しない仏陀が再誕してしまう日本の理由


前回エントリ「2009-09-09 仏陀は再誕しない」のなかで、巷で宣伝されているような『仏陀再誕』は仏教的に見てあり得ない、という話をしました。仏教教学の常識に基づけば、そういう結論にしかなり得ないからです。


私が書いたような「常識としての仏陀観」は、初期仏教〜テーラワーダ仏教という伝統の中で培われてきたものですが、大乗仏教の影響が強い日本でも(少なくとも釈迦牟尼仏陀に関しては)それなりに共有されています。お釈迦さまが生まれ変わる、と聞けば「なにバカなこと言ってんの?」とくさしたくなるのはもっともな反応だと、我ながら思います。


しかし歴史上の仏陀である釈尊(釈迦牟尼仏陀)とその教えを捨象して、釈尊滅後500年ほどしてから現れはじめた大乗仏教とりわけ密教の教えだけに立脚して「仏陀(ブッダ)」を論じようとするならば、釈迦牟尼仏陀をかたって『仏陀再誕』を宣言することも、じつは不可能ではないのです。今回はその話をします。


▼大乗仏教の「法身」思想


大乗仏教の仏陀観に、「法身(ほっしん,Dharma-kaaya,Dhamma-kaaya)」という概念があります。仏身論といわれる「仏陀の身体*1」をめぐる錯綜した形而上学の中心に置かれている概念です。


要約すると、法身とはクシナーラで入滅された釈迦牟尼佛陀は色身の仏陀(現象として現れた仏陀)に過ぎず、法身の仏陀(法身仏)は永遠不滅であるというアイデアです。のちに法身・報身・応身を説く三身論などに発達し、釈迦牟尼仏陀ではなく、法身仏たる大日如来から授かったとされる密教の登場によっていよいよ完成します。


この法身仏陀の思想が広まった背景を雑にまとめて言えば、インドで主流派宗教(いわゆるバラモン教、のちのヒンドゥー教)と競合関係にあった仏教が、バラモン教の最高神であるブラフマン(梵天)を蹴落として、その地位に「法身仏」をねじ込む新たな神話体系をつくりあげた、ということになります。


しかし、法身仏=大日如来を中心にすえた密教的な曼荼羅世界において、釈尊は「大日如来がインドの一時期の衆生の機根(人々のレベル)にあわせて現れた応身仏」に過ぎない存在として、曼荼羅の末端に据えられることになるのです。


事実としては、仏教がバラモン教を乗っ取るどころか、「無常・無我」を説くはずの仏教が「永遠不滅の実体」たるブラフマンを奉じるバラモン教と限りなく重なる、「法身仏」を中心とした妄想体系に乗っとられてしまった、といったほうが客観的でしょう。


▼釈尊が説かれた「法身」の意味するもの


ちなみに初期仏教経典にも一か所だけ(長部27 aggaJJa-sutta 世起経)「法身」という単語が使われている例があります。生れによる身分差別を喧伝するバラモンに対して、釈尊が「如来(ブッダ)は法(真理)を身とするゆえに如来である。仏弟子は生まれという身ではなく、法(真理)という身(法身)を拠り所にすべきである」(大意)と平等思想を説かれたくだりです。


「生まれではなく真理をアイデンティティにせよ」という釈尊の「法身」の教えは、大乗仏教における「法身」とほとんど無関係ですが、より普遍的でラディカルな概念だと私は思います。仏教に限っていえば、時代を経ることで教えが進化したとは言えないのが悩ましいところです。



▼日本宗教のスタンダードとなった密教的「法身」思想


さて。釈尊の説かれた「法身」はともかく、「永遠不滅の法身から現象としての色身が現れる」という大乗仏教の考え方は、現代ヒンドゥー教やチベット仏教の化身思想に脈々と受け継がれています。でもこれって、真言密教などを通じて、けっこう現代の日本人にもなじみの深い考え方になっているのです。


法身と呼ばれる永遠不滅の聖なる存在から、その一部の属性が衆生の機根(人々のレベル)に合わせて現世に現れる。


このシンプルで融通無碍な思想は真言密教*2を揺りかごとして、その日本的展開である神仏習合教を作り上げ、実は現在のさまざまな新興宗教の教学をも背後で支えているのです。


▼仏教思想の歴史と重層性(釈尊の化け物化を回避する)


この法身思想を用いれば、色身としては入滅した仏陀が、ふたたび法身からの流出として再誕するということは言えなくもないのです。言えなくもないのですが、大乗仏教も釈尊が説かれた原始仏典の教えを一部継承してきた面もあるので、法身思想や三身論による「仏陀の化け物化」から、お釈迦さまだけは半ば除外されてきたのです。*3


ただし密教においては、先述したように釈尊は曼荼羅の隅っこに「大日如来がインドの一時期の衆生の機根(人々のレベル)にあわせて現れた応身仏」に過ぎない存在として置かれます。


思想の首尾一貫性ということから言えば、釈迦牟尼仏陀が法身仏から流出して、また法身仏に回収されて、また機会を見て法身仏から流出して……という絵を描けないこともない。しかし、それは釈迦牟尼仏陀のもとの教えと完全に矛盾するので、仏教思想の展開過程と重層性をよく勉強していた大乗仏教の学僧たちは、釈尊の教えと法身思想の矛盾はそのまま措いておいたのです。


ブッダの権威を利用したがる新宗教の教祖たちは、そういう仏教思想史に関する知識を持ちあわせていません。知識がないと、人は大胆に行動ができるものです。彼らは臆面もなく、法身・色身という思想の基本フレームだけパクって独自の教えを作ったのです。


▼『聖☆おにいさん』と「法身」思想


上記の法身思想は仏教の枠を超えて、サブカルチャーのレベルでも共有されている、日本人の基本的な宗教観あるいは宗教性(スピリチュアリティ)と言ってもいいでしょう。ブッダとイエスが立川で同棲中とゆー設定が人気を博しているギャグマンガ『聖☆おにいさん』(中村光/講談社)が成立するのも、法身というアイデアの賜物であると、私は思っています。


聖☆おにいさん(3) (モーニングKC)

聖☆おにいさん(3) (モーニングKC)


以前、エキュメニカル・ニュース・インターナショナルというスイスのキリスト教メディアから『聖☆おにいさん』に関して取材を受けた際に、以下のように答えたことがあります。質問は、「このマンガについて、日本の仏教徒の方々の間で、実際にどのような反応があるのか?」というものでした。以下、私の返信を再掲します。

エキュメニカル・ニュース・インターナショナル ****様


お役に立つか分かりませんが、お答えします。


「仏教徒の反応」というと聞いて回ったわけではないのでよく分かりません。ただ、日本の仏教は一種の空気のようなもので、一部の新興教団や知識人以外、あまり自覚的に信仰している人はいないと思います。


チベットで仏教徒がいじめられたりすると、急に「仏教徒意識」が覚醒したりもしますが、自ら積極的に「仏教徒」というアイデンティティを誇示しているわけではありません。自分たちが祖先から受け継いだ伝統文化として、風景として親しんでいる、といったところでしょうか。


また日本の仏教はほとんどが大乗仏教のため、上座部仏教のタイやスリランカと違って、歴史的存在としてのお釈迦様(仏陀)に対する信仰・尊敬はそれほど強くありません。大乗仏教の経典のなかでも、お釈迦様は聞き役だったり、ストーリーのまとめ役だったりして、実際に活躍する他の菩薩や如来たちに比べると存在感が希薄です。


お釈迦様は多くの日本人にとって、「よく知らないけど仏教を始めた人」「花祭り(仏陀の誕生日)にお釈迦様の子供時代の像に甘茶をかける」くらいの存在です。むしろ、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、といった祖師(宗派の祖)の方が宗教的権威をもっています。


もし仮に、マンガで日蓮をパロディにしたら、マンガの企画自体が通らないと思います。

創価学会はじめ、日蓮を崇める熱心な教団がたくさんありますから。)


そもそも日本でもっとも普及しているお釈迦様の伝記は、手塚治虫のマンガ『ブッダ』(潮出版)です。苦悩する「人間ブッダ」として描かれた手塚版ブッダは日本人のマンガ読者に広く浸透していますから、『聖☆おにいさん』のブッダ像もあまり抵抗なく受け入れられるのではないかと思います。


もう少しうがった見方をすれば、多くの日本人にとって聖なる存在とは人格的存在ではなくもっと抽象的なシステム(ゆるやかな道徳律を内包した自然)のようなものだと思われます。イエスにせよ、お釈迦様にせよ、そのシステムから生じてたまたま人格的な形をとった聖人、というとらえ方で、対立せず仲良く共存できると思っているのではないでしょうか?


このようなとらえ方は、おそらくキリスト教と相いれないところがあるでしょうが、外来宗教を受け入れるにあたっての日本人なりの咀嚼法だと思います。『聖☆おにいさん』はそのような日本人の思考に沿ったマンガなので、広く受け入れられているということも言えるでしょう。


以上です。*4


太字にした箇所は、『聖☆おにいさん』の世界観が日本人に違和感を持たれない理由を分析したところです。


▼日本人多数派の宗教性(スピリチュアリティ)


「聖なる存在とは人格的存在ではなくもっと抽象的なシステム(ゆるやかな道徳律を内包した自然)*5のようなもの」と書いています。日本人の多数派は決して宗教性(スピリチュアリティ)への関心は薄くないのに、なぜ現実の組織宗教を忌避する傾向が強いのか、というヒントがこの言葉にあると思います。


つまり「自然じゃない」からです。排他的に他の宗教を攻撃したり、特定のライフスタイルを押しつけたりする教義に対しては、多数派の日本人はおそらく「自然じゃない」と感じるのです。「イエスにせよ、お釈迦様にせよ、そのシステムから生じてたまたま人格的な形をとった聖人」なので、その則を超えて自己主張する組織宗教にたいしては、「それ、ちょっと違くね?」という違和感がふつふつとしてしまうのです。


「不自然」な人々には宗教性(スピリチュアリティ)を感じない。日本人の多数派はそんな敬虔な宗教性を持っているからこそ、(自分たちがイメージする)宗教性の欠如した組織宗教を毛嫌いするのです。


▼「自然」という価値基準


つまり、日本人の宗教嫌いは、日本人の宗教性の現れなのです。これは、テーラワーダ仏教という微妙な立ち位置を半ば内面化している、私なりの印象批評です。


多くの日本人にとって、教えが「自然」というキーワードに適うかどうかは、「法身」から流出した色身の聖者・神格であるかどうかの価値基準になっているのではないでしょうか。もちろん「自然」という言葉で示されるものの内実は、時代によって変化しているはずです*6。でも主観的には一貫した概念です。そう思われているから宗教性(スピリチュアリティ)として機能するのです。


ということで、ひとつ結論を導き出せます。


仏教がサブカルチャー化して社会的権威を失った現代社会において、日本人の宗教性(スピリチュアリティ)をそのままダラダラ敷衍させると『仏陀再誕』をかたる人が現れることは充分にあり得ます。しかしその宗教の教えが日本人の宗教性に適っていると認められるかどうかは、また別の話になります。


仏教徒としてのみならず、私のなかの「日本的霊性」もまた、それを決して認めないでしょうけどね。


【追記】20090917本文の一部を修正し、注釈、見出しを追加しました。20090918本文を加筆(斜線部)しました。


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*1:「身(kaaya)」にはシステムという訳もある。仏身論は「ブッダというシステム」に関する論議と言い換えることも可能だ

*2:この法身仏たる大日如来が説法するかしないかという問題は、中世において真言宗を分裂させるほどの大きな争点になった。法身仏が説法するとなると唯一絶対神に限りなく近づくことになる

*3:数少ない例外の一つは久遠実成本師釈迦牟尼仏を報じる法華経系の宗派で、ここでは釈尊は無敵の絶対神のような扱い。これが「菩薩の受記(どこかの時代の仏陀が志願者に「お前さんはいついつどこどこで何たらとゆー仏陀になるから、頑張れ」と印可すること)」というツールを使って、下々の衆生の隅から隅まで網の目のようにご縁を作って一乗成仏道を請け合ってゆくというのが、法華経の壮大な形而上学である

*4:http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081011

*5:先述のようにシステムとは「身(kaaya)」の訳語でもある

*6:そもそも論でいえば、自然(じねん)は仏教語である。物事の本性、実相という訳もされている