アメリカ大統領選挙を肴に「神」と「道徳」について語る。

(また、ちょい修正)

「ケリーは勝っていた」byグレッグ・パラスト

オハイオ州:カウントされない投票

「腐り果てた選挙」byグレッグ・パラスト

仮に話半分に割り引いたとしても、「自由と民主主義の国」にしてはあまりにもしょーもない有様だと思います。大統領選挙の期間中は特に、この暗いニュースリンク町山智浩アメリカ日記をよく読みました。

アメリカの田舎で跋扈する、福音主義者とよばれるキリスト教原理主義者のことがよく話題になってます。アメリカ人が自分で自分の国を壊したり、『聖書』の読みすぎ(っつーかテレビ説教師の演説聴きすぎ)で身を持ち崩したりするのはその人の勝手なんですが、問題は怒り憎しみで『聖書』を検索すると、殺人や戦争を肯定する「神様の言葉」がたくさん見つかってしまうことですね。

聖書をいくら読んでも、読者が「もともと並外れた善人」でない限り、人格が一方的に向上するという事はないのです。むしろ、多少なりとも人格に問題を抱えた大多数の人間は、聖書の言葉に曵かれてどんな汚い罪でも犯してしまう危険があるのです。それは合衆国ブッシュ大統領の四年間でも実証済みです。詳しくは、ケンス・スミス著/山形浩生訳の『誰も教えてくれない聖書の読み方』を読んでみて下さい。すげー面白いですよ。

誰も教えてくれない聖書の読み方

誰も教えてくれない聖書の読み方

あと、アメリカの姿勢を道徳の物差しにしている他国が「民主主義とか手続きとか、別にどーでもいいじゃん。要するに目先の国益でしょ。逆らう奴らは殴っちゃえ」というノリに感化されて恥を無くしちゃうのも困ります。我が日本のことです。

さて、ちょっと掘り下げてお喋りしましょう。日本の保守系の政治家さんとか「道徳」の話は好きですけど、上で書いたように道徳の基準を「神様」とか「神に守られた共同体」にしちゃうと、結局、道徳を語ることがそのまま人殺しの肯定になっちゃうんですね。なぜでしょう?一言でいえば、信仰というのは人間の持つ根源的な「怯え」の表現だからです。「怯え」は仏教心理学的にゆーと、「怒り」の仲間です。だから、いつもびくびく怯えてる連中ほど、いったん自分の立場が上になると残酷なことするんです。「怯え」が宗教を作ってるってことは、すなわち宗教とは「怒りの作品」ってことです。

なんか世間一般にはまだ、「信仰、特にキリスト教の信仰を持っている人は謙虚で立派な人格者(だけどちょっと付き合いたくない)」というイメージあるみたいけど、ほんとは神を信じる人は自分たちの恐怖感が作り出した凶暴な神様に怯えて生きているんですよ。その怯えが転じて、怯えを共有するもの同士の妙な連帯感となり、外部の「敵」に対する巨大な怒りとして表現される。で、仲間を大事にして、敵は誰でもぶっ殺しちゃう。ただ隣人(仲間)に親切にするだけなら、犬猫でもやってることなんだけど。

日本の保守系の政治家さんとかがしきりに言っている「道徳」に期待されている役割もそういうことです。「道徳によって(国家という)共同体を安寧に保ち、その共同体を守るために人を殺していい条件を作ってくれ」ってことなんです。でも日本では、以前のように天皇陛下を人殺しライセンス発行係にしようにも、今上天皇陛下は稀に見る平和主義者の人格者だし、他にごっつい神様もいないから困ったなぁ、ということになっている。とにかく現国神のアメリカが許してくれることなら、その範囲で理由つけてやりましょう、というくらいに落ち着いています。

道徳の基準を人間のドロドロした怯えの感情から出発した歪んだ世界認識、恐怖心の産物である「神」「擬似神格」に置いてしまうことは結構やばいんですよ。最近流行んないけど、左右の様々なイデオロギーにもまた、それぞれ固有のヤバイ「感情」によって基礎づけられ、歪められているんです。感情の縛りを離れ、一切を知り尽くすこと、「知悉(ちしつ)」ということがない限り、その道徳は不完全なものに留まるのです。

でも、道徳の基準を人間の怯えという感情を離れた、存在をとことん観察して得た「智慧」に置くならばどうでしょう?神の僥倖ではなく、思考・言葉・身体の行為の結果としてその人が引き受けなければならない幸・不幸の法則によって道徳を規定するならば、道徳を守るということは、「誰のためであれ殺さない」ことになるのです。事実を見るならば、人間に限らず、生命とは「死にたくなくて怯えている」存在だからです。そんな難しいこともちだすまでもなく、人間はみんな「仲間」だろう?ってことは知性ある人間なら簡単に分かるはずの事です。仲間を殺すってのは成り立たない話です。

しかし、「いまの人間というのは、人間さえも仲間だと思っていない原始人だから、仏教の論理は分からないでしょう」(スマナサーラ長老)というのが、残念な事実です。詳しい話は、A.スマナサーラ長老の『ブッダの智慧で答えます 生き方編』をお読みください。すげー頭がすっきりしますよ!

ブッダの智慧で答えます 生き方編

ブッダの智慧で答えます 生き方編

とにかく「智慧の宗教」という風変わりな立場を取る仏教の聖典、少なくともお釈迦さまの教えに近いパーリ仏典からは、「殺しのライセンス」を取り出すことは出来ないのです。明治維新で仏教が「お前らなんか近代国家にいらねぇ」と追い出されたのも、仏教にはなかなか「人を殺していい条件」を提出できなかったからです。「わしらは役立たずだけど、せめてキリスト教の防波堤になります」というくらいしか言えなかった。で、無理矢理戦争に協力しようとして、自爆しちゃった。

まぁじつは、キリスト教にも「血が好きで嫉妬深いどっかの山の神」には到底考え付きそうもない智慧に基づいた道徳があるんです。でも中途半端で舌足らず。神様の妄言は全部捨てて、筆まめ偏執狂の弟子の手紙も捨てて、麻薬でラリッたバカの綴った黙示録も捨てて、イエスさんの言葉だけ勉強すればそれなりに因果法則にのっとって、善い人間になれます。そうすっと人殺しはできなくなります。世間で道徳の復活を説く人が欲しがっている「道徳」の基準に合わなくなります。キリスト教の世界に、ときどき風変わりな「本当の善人」が見つかるのも、そういうわけです。

とまぁ、話が終わんなくなってきましたが、お釈迦さまは生命が、人間が、そして人間がつくりだした神々や創造主が、あまねく抱えている「怯え」の感情から解放された、人天(人と神)の次元も乗り越えた偉大な生命であるということです。一切を知り尽くしたお釈迦さまが設定した「道徳」は、その道徳を実践する生命が「怯え」をなくす道であり、生命が怯え続けなければならない根本的な原因である『無明』を滅ぼす道なのです。

そこまで頑張らんでも、お釈迦さまの言葉に耳を傾けて、その教えを少しでも実践するならば、その人は必ず善い人間になります。おいそれと悪いことはできなくなります。戦争の役には立たないかも知れないけど、社会を豊かに、平和にするための役には立ちます。すべての生命が「怯え」をなくし心の安らぎを得て楽に過ごすための役には立ちます。

〜*〜生きとし生けるものが幸せでありますように。〜*〜