お釈迦様の仏教とはどんなものか?(スマナサーラ長老の法話より)

冥想会での質疑応答メモ 2011年11月27日名古屋・崇覚寺にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦様の仏教とはどんなものか?

争いの世界で争わずに生きる方法、怒り憎しみの世界で怒り憎しみ無しに生きる方法、それを仏教は教えているんです。「食うか食われるか」という世界で、それから離れて生きる方法を教えているんです。世の中では、「自分が食う側にいればいい」と思うかもしれません。しかし、食うか食われるかの世界で一貫して「食う側」にいられることはあり得ません。

憎しみの世界で、憎しみは嫌だなと思う人がいれば、仏教はそのための方法を教えてあげる。殴られたら殴り返すぞという人に仏教は要りません。勉強する時間もなく死にますからね。

仏教は、殴りあいの世界で殴ることから離れて生きる教えです。殴り返すことでも、もう片方の頬っぺたを差し出す事でもないんです。それでは殴ろうという気持ちが消えない。仏教は、殴ろうとする人に殴る気を無くさせる教えです。奪おうとする人に、奪う気を無くさせるような教えなんです。

いまだに人類は「目には目を」の世界に生きています。食うか食われるかの世界で、それに関わり無く穏やかに生きる方法が仏教です。そのように生きたいと願っている人がいたら、皆さんも教えてあげる。教える能力がなければ、知っている人に紹介してあげればいいでしょう。

しかし仏教は宗教として生き延びたいと思っているわけではないのです。「妄想するよりは、真理を知った方がいいいでしょ?」というだけ。べつに宗教を広げたい気持ちはないんです。信仰のために戦争でもやれ、というのが宗教です。仏教はどうしても広げたいという教えではありません。「この薬を飲んだら治りますよ」と言うが、「飲め!飲め!」と迫ることはない。お釈迦様の仏教とは、そういうものです。

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テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え

テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?(スマナサーラ長老の法話より)

冥想会での質疑応答メモ 2011年11月27日名古屋・崇覚寺にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q :「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?

A :長い間一緒に住んでいるとお互い人間同士の愛着が生まれるんです。(他者の死に悩むというのは)感情の問題です。親しい人が亡くなるとショックですが、嫌いな人は死んでも当然と思うんです。気にしません。理性に基づいてみると、親しい人が多いと危ないんです。たくさんショックを受けなくてはいけないんです。苦しみが生まれるんです。あらゆる精神的な苦しみは親しい人から生まれます。嫌な人なら無視すればいいが、親しい人は無視できないんです。たとえ勘当した子供のことでも悩みます。相手が好きであればあるほど苦しみの量が増えるんです。これは生きる事のジレンマです。 

そのような現実を理解して欲しいんです。われわれは皆と仲良くベタベタ生きていたいんですけど、その分、大変な苦しみも負ってしまう。その一つが「死に別れ」です。でも、それは苦しみの中のたった一つだけです。命は尊いとか言っても意味がありません。ただ生きているだけです。それに加えて感情の激流に飛び込んでしまう。問題を作るのはその感情なんです。

病気になって苦しんで死ぬというのも、肉体のことです。病気にならなくても、ずっと苦しんで生きています。肉体的な苦しみはそんなに気にする事ではないんです。子供が病気で苦しんで死んだとしても、生きている大人は、これまでその子と比較にならないほど苦しみを感じてきたはずです。死ぬ事も死ぬ本人にとってはどうってことないと思いますよ。ただあっさり死ぬだけのことで。もし死後に周りの様子が分かったら、「なぜそんなに悩んでいるのか?」と不思議に思うでしょう。

しかし死ぬ人も感情の激しい人だったら、死ぬことは大変苦しくなります。別れなくてはいけないんだから。わかれたくない、捨てたくない、皆のこと好きだ、と思っても何もできないんです。それが耐えられない苦しみになります。我々に必要なのは、生きる意味は何かと悩む事ではなく、他者とつくる感情的な関係が苦しみをつくる原因であると理解することです。感情の流れに流されないようにと心を育てなくてはいけないんです。

人の死をどう捉えるべきか、答えるのは難しいんです。(感情が問題の元凶なのに、)皆、感情で捉えているんですから。人は必ず死にますよ、そんなの当たり前だ、という人に、「じゃあ、あなたの息子が死んだらどうする?」と聞いたら態度が変わるんです。絶交されるかもしれません。人は死ぬと言いつつ、自分の親しい人には死んで欲しくないんです。

死んでいく人について悩む自分はとんでもない阿呆だということです。親しい人の死を冷静に見守っていられる人は、強靭な精神の持ち主なんです。冷静でいることを仏教で推薦します。冷静にいるためには、感情に打ち勝たなくてはいけないんです。あと一日でも生きて欲しいと願っても、一日生きて何になるんでしょうか?

人が死ぬことは決して楽しいことであってはならないし、決して悲しいことでもあってはならないんです。悲しいというのは余りにも執着があるんです。自然法則をなぜ認めないのでしょうか。自然法則は悲しみの原因にも喜びの原因にもなりません。風が吹いたら楽しいといったらヤバイ。なぜなら風はいつも穏やかに吹くわけではないからです。竜巻もあれば嵐もあります。自然現象は冷静に見ておくべきです。しかし雨風よりも確実なのは「人が死ぬ」ことです。何の目的もないんです。そういうふうにできている体だから。細胞が死ぬのは当たり前です。死なない細胞があったら大変なことになります。身体が石のように固まってしまう。生きるためには細胞が死んでくれないといけないんです。細胞の死によって、我々の生が成り立っているんです。だったら我々が死ぬのも当たり前だよ、ということです。

太鼓を一回ドーンと叩くと皆びっくりしますが、立て続けにリズミカルに叩くと演奏だと思って耳を傾けるでしょう。死も同じです。身内が一人死ぬと大騒ぎですが、アメリカが対テロ戦争と称して無人機で人々を殺しまくることには何も感じないんです。数を数えて「あまり効果がなかった」とか評論したりする。そういうおかしい思考で生きていますからね。一日たりとも人の死のNEWSがない日はない。死は自然の流れで、自分に関係する人の死だけ悲しいんです。親しい人の死は生きる苦しみのたった一つだけ。苦しみが我々に凡ゆる行為をしています。立つ事も座ることも呼吸さえも苦がさせています。仏教では「苦」という一語ですべてを捉えているんです。

なぜヘッドフォンで音楽聴きながらジョギングするのでしょうか? 走っている時間が退屈でたまらないからです。それを紛らわすためにカラクリするんです。いかに苦しみを相手にゲームするのか、というのが「生きる」ということです。しかし、いくら頑張ってもそのうち動けなくなるのです。泳ぎができる人を大海に放り込んだらどうなる? すぐには死にませんよ。しばらく泳いでから、死にます。人生というのは、苦という大海で死ぬまで泳ぐだけのことです。

釈尊の発見された「苦」というアプローチ以外で人生を見ることは、すべてまやかしです。幻想の世界です。人生を科学的・客観的に観察すれば、苦以外には見つからないんです。絶対に疲れない、危険でない、体が壊れない、ツケがない、そんな楽しみは何かありますか? 客観的に観察すれば、一般人にも生きるとは苦だと発見できます。海がありますよ、と発見するのが簡単なのと同じく、「生きることは苦」と発見するのは簡単です。

質問は「苦しみには何か意味がありますか?」ということ。何も意味がないんです。問題は、生きたいけれど苦しみたくない、ということ。それは相当頭がおかしいから、仏教では無知というんです。その無知の治し方を仏教で教えてあげます。それで自分で選ぶんです。それでも生き続けるのか、生きることをやめるのか。冷静に観察すれば99.9%の人は生きることをやめる道を選ぶと思います。

釈尊もそうやって生きることへの「執着」を離れて、輪廻を解脱したんです。死に対して冷静にいることです。日没に驚かないように、死にも驚かないこと。死ぬとは肉体の苦しみが終わることです。しかし生きていきたいという執着を残している限り、また他の肉体を作って輪廻を繰り返してしまう。死んだら何処に行くか分かったものではないんです。

いまの心の状態によって、次の心が出来上がってしまうんです。これがヤバイんです。心のゆらぎは感情で起こります。我々は何時でも感情に気をつけることです。理性で判断して、好き嫌いで判断しない。たまに感情が爆発しますけど、それを即座に制御する訓練をしましょう。そうやって腕をあげて、心を成長させて生きないといけないんです。

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~

安らぎを遠くに求めてはいけない・他(スマナサーラ長老の法話より)

2012/11/26 長崎県川棚町"姿斉[SHISEI]"での交流会にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q:何かをするまえに”虫の知らせ”というようなものがあって、失敗してから「そういえばあの時……」と、あとで思い出すことがあります、云々。(判断に関する質問)

A:それは、人間がものすごく気をつけた方がいいところです。人間は何か判断しないと何もできないんです。身体動かない。判断によって人生決まってしまうんです。問題は判断が合っているかどうかです。判断する時、大脳・頭で判断する時はけっこう頭で調べるんです。データ比較してみるとゴチャゴチャ考えてしまう。それで、もういいやと原始脳でドーンと決めてしまう。感情によって決めることになるんです。一般人には生きるということは難しいんです。判断する結論になかなか達しないんです。時間切れで一か八か、原始脳に負けてしまう。大脳で考えれば当たり前という事は全然問題ないんです。冷蔵庫に食材がないから買い物行かなくちゃ、という場合は判断に悩む必要ない。悩む時はどっちにすればいいかさっぱり分からない時です。高校生、大学生、人生の進路をどうしようかと、派手に悩むんです。

その場合は答えは簡単です。ポイントは選んだ道をやり遂げられるか、ゴールまで行けるか、それだけだよと。そう言えますが、日常生活ではゴチャゴチャです。どうすればいいか分からない。瞑想して智慧が現れればそれで終わりですが、人生それまで苦しむことはないんです。緊急処置として釈尊は「慈しみ」を教えています。慈しみで判断すれば判断が間違っていても酷いことにはならないんです。貪瞋痴で判断している時は慈しみがないんです。生命への心配がないんです。そうではなくて、どうしたら皆幸せになるかという風に考える。これなら家族も皆も幸せになる、と思ってやっていると、何となく幸せになるんです。周りもサポート修正してくれるんです。ややこしくて理解が難しいが、やり方は家族や皆の幸せを願うことです。皆の笑顔を願っていると、自分のブランド品はどうでもいいから、家族や皆の笑顔、安らぎ、幸福が私の財産だというふうに考えるんです。それで原始脳がけっこう騙されます。幸せになりたいと思ってるんだからいいんじゃないかなぁと、邪魔をしない。それで原始脳を睡眠状態に追い込むんです。瞑想する場合も、まず原始脳を眠らせる。その間にサーッと理性を育てる。理性が確立するともう原始脳が目を醒まさないんです。

いろいろ失敗したこと思いだして、まずかったなぁ、という事はしょっちゅうあるけど、仏教は後悔は禁止です。失敗するのは毎日のことです。どこまで後悔するかキリがないんです。慈しみでニコニコ穏やかで余計なこと考えないで明るくいることにすれば、原始脳も騙されるし、笑って生活すると大脳がすごく発達します。

質のいいお笑い芸人は頭がいい。(雑談で大竹まことを評価。爆笑問題よりレベル高いと。)いかにくだらない事を言うかと、理性で考えないといけないんです。真面目なことやろうとすると、人を動かすやり方は知っている。言い方を知っている。売れない芸人は自我を出しています。売れたい、人気者になりたい、という自我です。それでは、結果として売れないんです。作品を作りたい、という気持ちで自我を抑えることです。自分を殺さないと芸にならないんです。芸の世界はバカな世界ですけど、かなり大脳が発達するんです。

何を言いたいかというと、冗談をいうためには、笑うためには、けっこう大脳が必要ということです。原始脳では笑えないんです。原始脳にあるのは恐怖感です。恐怖感では笑えないんです。無知の笑いはよくないけど、ネタでも作って人を笑わせようとすると、大脳を使わないと。笑顔を目指して、心の明るさを目指して生活すれば、だいたい失敗はないんです。やめた方が良かったというふうにはならないんです。

 

Q:60代後半。失敗もしてきたが、いまはけっこう上手くいっています。これからもうまくいくだろうと思って生きているんですが、周りの人が常に後ろ向いてるんです。後悔や、病気の不安の話しになってしまう。ちょっと失礼、という気分になるんです。対処法をどうしましょう?

A:そんな暗い話はやめて楽しみましょう、と言うしかないです。その時間で楽しめばいい。その時その時の楽しいことをしゃべればいい。年取ると後ろ向きという事はよくあります。若い頃と比較すると惨めになるんです。でも、そこで後ろ向いてはいけない。余計に人生を苦しませる事になるんです。楽しくなると忙しいんです。

 

Q:60代前半の方(質問というより自分語りで整理がつかなかった様子。なかなかものごとを割り切れないという悩み)

A:釈尊の生きるための技、割り切る術があります。割り切らないと生きていられないんです。24時間しかないし、1時間は60分しかない。一分でできることは一つだけ。いまできるのはこれだけ、という風に生きるしかない。それしかないと割り切るしかないんです。一回には一つしかできない人生です。精神的に悩まないで割り切ることです。神社に行った時も、お祓いされても微塵もご利益あると思ってないけれど、しきたりをきちんと守って雰囲気を穏やかにさせること。割り切るのはみんなのため、平和のため、調和のため、皆がなかよくするためです。決して人々を騙すためではないんです。(バス停で宗教勧誘を笑い飛ばした労働者の話 書籍に出てくるエピソード)宗教は原始脳の恐怖感だけ育てるんです。だから信仰者はいとも簡単に人を殺すんです。(イスラム教で)アッラーの意志に反してなに一つも起きないというなら、仏教徒アッラーをクッタクタに馬鹿にするのもアッラーの意志です。割り切るというのは信じることではなく、平和・調和を目指して割り切るんです。「慈しみ」で割り切れば、悩みなく優柔不断なくビシッと生きていけます。でも、何でも割り切っていいわけではありません。断然断ります、ということもあります。動物を生贄にする儀式や、命に危険のある祭(御柱祭とか)、倒れるまで酒を飲む祭など、五戒を犯すことはダメです。

 

Q  生まれ故郷に帰りたいと願っています。大陸から終戦後に引き揚げました。行ったら、もう日本には帰れないだろうけど、生まれ故郷に散骨希望しています。

A 生活したこともない、周りも知らない人たち、そこに行って故郷に帰ったと言えるんでしょうか? 故郷とは親に好き勝手に甘えた時期です。それがホームです。特定の土地ということでもないんです。場所としての故郷は、時の流れで消えてしまいます。私はその場その場をマイホームにする。妄想をマイホームにすることはないんです。知っている人々に囲まれているところをホームにすることです。

安らぎを遠くに求めてはいけないんです。安らぎは自分で自分の足元に築いて欲しい。ここにいる皆さんも仲間でしょう。大事な寿命の中で二日間、一緒にいたのだから、仲間と言わなかったら、人生に穴ができてしまいます。「安らぎはここにある。遠くにあらず」という生き方にじわじわ変えて欲しいんです。死ぬ時間と死ぬ場所、死に方は本人に分からないものです。いつどこでどう死ぬかは分からない。本拠地とは、仲間がいるところなんです。土地ではなく、人間で決めるんです。

私もどこがホームかというと日本です。生まれた国はスリランカだけど、長く住んでいるのも、本気で仕事したのも、日本だからです。捨てることを覚悟して、捨てられる人間になってください。何の躊躇もなくすべてを捨てられる人が覚った人です。「放っておく」というのはそういうこと。執着しない。いまここの自分の足元を見る。いまOKならそれでOKです。人の道は捨てる道なんです。仏教は捨てて、捨てて、捨てて行く道。肉体は捨てたら(排泄)、次に何かを拾って(口に入れて)、維持する。それが輪廻ということです。私たちはいまも輪廻しています。なに一つ持たずに生まれてきたんです。すべて置いて、捨てて死ななくてはいけない。どうせ捨てるんだから、上手に捨てること。老いていくと、「若さを奪われた」と思ってしまう。そうではなく、無執着で上手に捨てる。そうすると若い人を見ても気持ちがいいんです。……

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執着しないこと

執着しないこと

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~ 

智慧に目覚める ~ブッダの教えとは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)

2012/11/25 長崎県川棚町"姿斉[SHISEI]"での講演『智慧に目覚める』

アルボムッレ・スマナサーラ長老

・人間って変です

人間、変ですね。何がって、ほとんどの人は、いい人間でありたいと思ってるんです。99%そう思ってるなら、世界中みないい人間になれば話は終わりです。ですが、世のなかにいい人間はまれなんです。人は自分の親と喧嘩する。鬼という。子供から見ると親は鬼に見えるんです。ほんとはいい人間ですけど子供からみれば……。世の中みんなそうなんです。嘘つきになりたくないが嘘をつく。平和に生きたいが戦争ばかり。自分たちの教えは平和の宗教だといって自爆テロをする。我々は変ではないでしょうか?

・しきたりで無理やり調和をたもつ国

日本人は世界で珍しく行儀いい平和な国ですけど、アメリカではちょっとカバン置いても盗まれる。日本は平和で生きやすい世の中ですけど、ストレス溜まって皆さんにとっては生きづらい。どこでというと、行儀作法が厳しい。お歳暮中元、冠婚葬祭、きまりがいっぱいあります。親戚関係も、年賀状も。日本で年賀状いつから始めたのでしょうか? 伝統ではなくて、郵便局にやられているだけでしょう(笑) でも何千枚も必死で年賀状をかく。いっぱいしきたりがあって、無理やり平和で調和を保ついい人間にさせている。これがストレスになっているんです。でも、これを無くしたら、たちまち変な人間に変わってしまうでしょう。平和なのは、しきたり習慣で無理に抑えているからです。

・幸福を目指して不幸になる道を歩む

人間は、嘘つきたくないがうそつく、泥棒したくないがごまかし、怒りたくないが喧嘩する。また一人で悩む。あべこべの方向に努力する。山に登りたい人が海に行くようなものです。お釈迦様はこう言っています。「生命は幸福を目指して必死で不幸になる道を探しては歩むのです。」しかも、面白いことにそれに気づかないんです。それで、失敗したら悩むんです。子育てにしても、いい人間になってほしいと思ってだらしない人間になるような育て方をする。あべこべに気づかないんです。頭に入らないんです。子供のやる気を引き起こすという仕事を親はしないんです。(長老のお母さんは成績表を見ようともしなかったが。)子育てでもやってはいけないことをやっているのに、それに気づかない。頑張って欲しいのに、怠けてしまう雰囲気を作ってしまうんです。

・期待する道と反対方向へ行く

憶えておきましょう。人間は誰でも期待する道と反対方向へ行くんです。みな幸福になりたい。それを、健康になりたい、長生きしたい、金持ちになりたい、美人になりたい、と勘違いしてます。ほんとは幸福になりたいんです。穏やかに平和に楽しく生きていきたいんです。私たちは希望を立てる時でもおかしいんですね。釈尊は生命を観察して、幸福になりたいのだと気付いたのです。独裁者たち、なぜああなりたがるのでしょうか? あまりにも勘違いです。ヒットラーも、フセインも、鼠のように隠れて死にました。はた迷惑なだけで大した結果にも達していないんです。 

・原始脳と大脳

そうなっている理由は? 脳を使って説明します。人間にも動物にも共通する原始脳があります(トカゲ脳)。どんな動物にもある脳です。ネズミにもあります。原始脳には、何も考える力はないんです。大脳が原始脳にのっかって思考しています。大脳は原始脳によって管理されているんです。原始脳には善悪判断はありません。生きていきたいだけです。でも眼耳鼻舌身を使わないといけない。それは大脳が管理しているんです。生きていきたいと思ってもそう簡単に生きていけない。獲物を取ろうと思って自分が獲物になる確率もある。世界には、生きられない条件だらけです。大脳はそのことを一応知ってます。それで原始脳はすごく怯えるんです。みな恐怖感を持って生きているんです。生きていきたい、死にたくないといいう。理由はない、理屈はなしです。それで外界を見る時、敵と味方に分けてしまうんです。みなイルカを可愛がっているでしょう? イルカは人に危害を与えないからです。そこにサメが来たら逃げる! 我々は正しくものを見て生きているのではなくて、敵味方に分けるんです。そこで見えるのは、味方の数は取るに足りません。敵ばかりです。同じ人間さえ敵ばかりです。

・「智慧に目覚める」とは原始脳に勝つこと 

我々があべこべで生きているのは、原始脳で生きているからです。敵は殺したいと思っているんです。ライバル会社は火でもつけて燃やしたいと思っているんです。大脳は善悪判断します。そこで、原始脳の命令を受けて葛藤するんです。悪いことは簡単にするが、善は考えて考えてやっとしているでしょう。この悪徳政治家を追い出したところで葛藤がなくなるんです。嘘をつけない人間になるんです。怠けられない人間になるんです。「死にたくない? そんなアホな」という(理性的な)人間になるんです。原始脳の命令はもう効かなくなるんです。我々の人生を支配していたのは原始脳です。その支配を脱すること、つまり「智慧に目覚める」というのは原始脳に勝つことです。「とにかく生きていきたい」という原始脳に勝つと、心の安らぎ落ち着きが生まれるんです。それがどんどん智慧が生まれることです。大脳をどんどん使うんです。使ってない80%を悟りを開くために使うんです。

・ 「人間を超えなさい」とブッダは言う

原始脳に乗せられた状態で知識を増やしても役に立ちません。生きるのが苦しくなるだけです。原始脳が(大脳を使って)作った知識で人生はハチャメチャになるんです。動物は余計な知識がないから必要な栄養を入れたら落ち着いています。人間は食べ過ぎで臓器も壊してしまう。釈尊は「人間を超えなさいよ」と仰るんです。人間を生き物として見ると、人間ほど残酷で理不尽な動物はいないんです。戦争する熊とかいないでしょう。魚は共食いだが自分の種類は食べないんです。取れるんだからと取れるだけ取ることしない。海の生命が枯渇するほど取るのは誰? 戦争する、大量破壊兵器つくる、親の財産めぐって兄弟で争う。人間とは何なのでしょうか?これほど醜い生命があるでしょうか?

・ブッダの教えと脳科学 

仏教は良い人間になりなさいとは言わないんです。「人間を超えなさい」と言うんです。脳で例えれば、脳をとことん開発しなさいよ、と。不幸になるプログラムを捨てて、幸福に生きられるプログラムに書き換えないといけないんです。仏教は脳科学でも何でもないのに、しかし驚くのは、釈尊の教えと最新の脳科学を比較するとピッタリ合うんです。Buddha's brain 脳を開発・成長する方法はブッダしか説かれていません。不浄瞑想には脳が入ってます。それだけです。なぜ脳に言及しなかったのでしょうか?仏教は生命学なんです。脳のない生命もいます。生きるという観点で見ると、脳はいらないんです。追加された臓器に過ぎないんです。アメーバには脳は無いがしっかり生きています。心は脳だというのは間違いです。生きていることが心なんです。

・俗世間の知識は「餌探し」の延長 

これまで世の中にない教えなんです、仏教は。一般の知識は当てにならないんです。(一般の知識とは)原始脳にやられて作ったものです。動物の「餌探し」の延長でできたものに過ぎないんです。知識はすべて汚れています。「人間だけ唯一優れた存在である」という汚れた思考から始まっているんです。「何か人間の役に立つことはないのか」という、その視点で他の動物も研究するでしょう。だから他の動物にとっては残酷なことになるんです。動物実験で動物を苦しめて薬を作っている。人間も結局それで不幸になるんです。金儲けのためです。金儲けが餌を探す手っ取り早い方法だからです。しかし、そうやって知識をためても良い人間にならないんです。性格が最悪になるだけです。これは日本だけの問題ではありません。世の中ひとつもうまく行っていないんです。政治家になってはいけない人が政治家になる、管理者としては最悪の人が管理者になる、経営者としては最悪の人が経営者になる、という具合です。職場では、人のやる気を片っ端から壊しています。世界は何とか破滅しないで済んでいるのは、一人一人が生きていきたいと思って身を守って頑張っているからです。やっぱり殺したい放題殺したら自分も生きていけないから控えているんです。それがなかったら世界は破滅です。

・人間としての特別な仕事 

釈尊は「人間を超えなさい」と言いました。脳が心ではないんです。しかし我々の肉体は臓器のパートで分かれているんだから、見たり聞いたり考えたりする場合は大脳になっています。小さくても大丈夫なのに、なぜ大きな脳があるのでしょうか? 我々は業で生まれます。人間だけ大きな脳がつけられているんです。人間としての特別な仕事は、「輪廻から解脱しなさい」ということです。犬にも、神々にもそのチャンスないんです。人間には超人になる能力があるんです。

・生きる苦しみについて 

我々は生きることは楽しいと勘違いしているんです。原始脳のカラクリで、自分に都合のいいものは可愛くて、都合の悪いものは気持ち悪い、と反応する。しかし「生きられない」条件の方が生きられる条件よりもはるかに多いんです。生きることは常に不安です。単細胞はずっと動いています。動かずにはいられない何かがあるんです。苛立ちを無くすために動くんです。単細胞は寿命が短いんです。それで死んで二つの細胞に分裂します。何かしなくては死にます。呼吸しないと死ぬんです。死ぬのはいいけど、それは苦しみになるんです。ちょっとでも呼吸を止めると、いてもたってもいられない苦しみになるんです。何かし続けないと生きていられないんです。限りなく立ったり座ったりしないといけないんです。一日中何も見ないでいることはできません。脳が勝手に幻覚つくって、超能力だと思い込んだりします。麻原彰晃や他の宗教家もそれで聖者になりあがるんです。

・宗教のお仕事 

人を騙すことが宗教の仕事です。人間は、騙して貰わないと不安で仕方が無いんです。死ぬ恐怖があるんだから。みんな勇気がないから事実に直面できないんです。なぜ全知全能の神は、精神異常者にしかコンタクトしないのでしょうか? しかし、我々は永遠の天国があるという言葉を聞きたいんです。人を騙していい気分にさせる、叶わない希望を抱かせる、というのが宗教の仕事です。それも数千年のノウハウ蓄積があるから、あらゆるマインドコントロール手段を使っている。その呪縛から抜け出すのはたいへんです。日本人も結婚式は教会でやらないとちょっと気分が落ち着かないくらいまでやられています。人間が「私に暗示をかけてください、マインドコントロールしてください、見解を汚してください、自分で物事を判断できる能力を奪ってください」と頼むのだから。

・仏教は心の科学 

仏教はそういう宗教ではなく、現代科学でもなく、心の科学、生命科学です。原始脳に打ち勝つことに、智慧というのです。理性の生き方を発見すること、それを智慧というのです。智慧とは最終的に「一切は無常である、苦である、無我である」と発見することです。それで原始脳に仕事なくなるんです。大脳にも仕事なくなるけど、人助けのために、人々の幸福のために、生命のために尽くすために使う、そういう生き方に変わるのです。

・道徳に例外はない 

仏教の道徳と、宗教の道徳は項目は似ていても違うものです。宗教の聖書ははじめから虚偽でしかありません。戦争の裏には宗教の影があるんです。「我を愛せよ」という強烈なエゴがあるんです。そして例外があります。動物は殺してもいい、信仰しない人間も殺していいんです。仏教の道徳は科学的で、自分だけ偉いという原始脳の衝動を弱めるために教えているんです。ですから、道徳に例外はありません。「殺すなかれ」と言えば、どんな生命も例外なく殺してはいけないんです。そこで[人間を超えるという]大変な世界が現れてくるのです。(おわり)

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智慧は人生の羅針盤 (お釈迦さまが教えたこと)

智慧は人生の羅針盤 (お釈迦さまが教えたこと)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~ 

誠文堂新光社からスマナサーラ長老の新刊『もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方』

なんと天文ファン御用達の理系版元・誠文堂新光社からスマナサーラ長老の新刊が12月初頭に出ます。

内容紹介

養老孟司氏(東京大学名誉教授)推薦!―

「変わりたい人は読むべきだ。
あなたはきっと変わる。
そのための知恵が詰まった本です」

進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。
岐路に立って、私たちは優柔不断になったり、捨てた選択に後悔したり。

人はなぜ選択に迷うのか? 後悔するのか?
それは、自分の中に確かな基準がないから。
「怒る」「ねたむ」という不毛な選択をしてしまうのも同じこと。
私たちは一時の「感情」に流されてしまい、
「迷わない」「捨てた選択に悩まない」「怒らない」ことがもたらす心の平穏を知らない。
だから、間違った選択をしてしまうのだ。

自我(=感情)とは錯覚であり、選択には理性だけが必要なのである。
そして理性は、世の中を知ることで誰でも蓄積していくことができる。
理性を活かせば、誰でも、最良の選択をすることができるのだ。

本書は、心穏やかに幸福に生きていくための極めて実践的なレッスンを紹介します。

天文少年だったころ大変お世話になっていた誠文堂新光社から出版企画が舞い込んだ時には、人生のピースがひとつ嵌ったような感動がジワジワと。(最近は実用書にも力を入れているそうです。)おかげさまで素敵な本に仕上がりつつあります(まだ校了まえ)。

天文年鑑2016年版

天文年鑑2016年版

 
星空ガイド2016

星空ガイド2016

 
天文ガイド 2015年 12 月号

天文ガイド 2015年 12 月号

 

天文年鑑天文ガイド藤井旭先生の本、ほんとに好きでよく眺めてたよなぁ。 

マッドマックス 怒りのデス・ロード(GRAFFICA NOVELS): COMICS & INSPIRED ARTISTS
 

マッドマックス本も同時期に出るんですね。ぜひ、あわせてポチってください。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

仏教の教育論 ~学びと性格について~(スマナサーラ長老の法話より)

2012年11月29日 新宿朝日カルチャー 智慧が現れない理由2 

教える内容が生徒の性格に合わない場合、「学び」は成立しないのです。仏教は生徒の性格を気にします。しかし、基本的に仏教の真理は誰の性格にも合わないのです。教える側が、教える内容と性格との共通するところを探して、そこから教育をスタートするのです。

・学ぶことと才能

「やればできる」という決まりは成り立たないのです。やってみてもできないこともあります。各人に「向き・不向き」があるのです。自分に向いた学問チャネルを見つけられれば幸いです。たくさんの人が向いてない事を強引にやらされて苦労しているのです。(例:医者に向かない人が医学を学んでドロップアウト)

自分の才能にあった学問であれば、みんな楽に学んで成功するのです。しかし、自分の才能にあった学問・生き方などは、まず発見できないのです。周りが勝手に自分の教育プランを作るので、学ぶ人は否応無くそれに乗らなくてはいけない、という現状です。

結果として、世界の教育現場は問題だらけです。教育世界は問題世界。非常に危険な状況です。これは、若者が他人の敷いた道を歩んでいるから起こっていることです。(親は子供を世間に賞賛される道に乗せたがるのです。)

・性格

学びを成功させるには、学人の性格を発見しなくてはならないのです。性格とは「向き・不向き」のことです。才能という言葉に、価値観を入れないでください。あれは能力のことです。性格とは能力のことなのです。

世界の教育は人を育てることを目的にしていないのです。「社会に必要な人材」を作ることを目的にしています。……昔は学問は金儲けの手段ではなく、「金持ち」がやっていたのです(ギリシャなど。イギリスも)。

・性格の金型

人間を同じ性格金型でプレスしようとするのが現代的教育です(日本でこれを見て驚きました)。でもこれは無理です。危険です。トラブルだらけです。……自殺する子供、学校で乱射事件起こす子供……、金型プレスに失敗したんですね。

共産主義政権では失敗に終わったことです。北朝鮮は金王家を崇拝させます。中国も情報統制して金型が壊れないようにする。自由と言われる国々でも「社会の成功者」という金型で人をプレスすることを実行しているのです。日本だったら、いい学校を出ていい会社にはいれば安心だと。いまそうなってないのだから、若者にとってはチャンスです。でも勇気がないんですね。アメリカン・ドリームというのも恐ろしい金型です。世界がどうなっても一人だけべらぼうに儲かればいいというのですから。

・性格とは本性

性格とは人の本性です。いまは性格金型教育の失敗によって、皆才能を発揮できないお荷物人間になってしまっています。仏教では人間がいればいるほど幸福だと言われているのに……。

人類は自分で問題を起こしておいて、問題だ問題だと泣くのです。為政者や支配層の失敗は、巧みなレトリックによって一般国民が犯人にされます。しかし、金型で洗脳されているから気づかないのです。才能を発揮して生きてきたならば、歳をとればとるほど社会の役に立つはずです。

本性は生まれつき持っているものです。本性の上に様々な生き方、価値観などを上乗せするので、複雑でわからなくなるのです。どのような生き方を教えても、その知識は自分の本性に合わせて理解するのです。

例えば、本性の良い人間が、悪人の仲間になろうとすると苦労することになります。何とか合わせても人生への疑問・不安をずっと抱えることになるのです。しかし他の道があることは分からないのです。

芸術的な本性の人が医学を学んでも大した医者にならないのです。かっこいい医療器具の開発に向かうかもしれませんが。

・性格の改良・改革は難しい

性格改良も、人の遺伝子を改良して別人にすることと同じく難しいのです。しかし「性格はこころの問題」なので、決して変えられないと言ってはなりません。人はよりよい人間になろうと努力するが、成功に達するのは難しいのです。いつ本性がバレるのか分からないのです。

何十年も良い性格を実行すること、本性に気づいて常に戒めること、強い意志・意欲があること、諦めないこと、理性を育てること、世間に対して「隠すべきもの」を持たないこと、などで性格を改良できるのです。

・本性も変化するもの

本性は無始なる過去から輪廻転生する過程でできあがるのです。今世の生き方は、過去世の生き方によって形成されます。しかし今世に合わせるためにいろんなことを学んだり実行したりするので、本性に合う生き方で過ごすことはできないのです。持って生まれた性格と、この世の中で生きていくために必要な事を学んで、(今生の)性格を作るのです。

それによって、本性は影響を受けます。変わります。死後、その影響を受けて、変わった性格になります。いくら変わっても容量があります。それも憶えておいてください!(仏教では心の容量を無量に大きくして善で満たす修行をするのです。)

・自然浄化

もしそのように本性が変わるとすれば、生まれ変わる度に人格は改良しているのではないかと疑問生じますね。それはあり得ないことです。意識的に努力しない限り、性格は良い方向へ変わらないのです。修行・実践によって浄化するのであって、また心の容量も上げなければならない(大きくしなければならない)のです。

・性格タイプ

無始なる過去から輪廻転生しているといっても、性格タイプは無数にあるわけではないのです。

・二重(多重)性格

人は自分の本性に気づかないのです。世界から入る情報について、受け入れたり、拒否したち、気に入ったりいらなかったり、ということで微妙に気づく程度です。この世で受ける躾を本性の上に乗せて、新たな実行性格を作ります。社会に合わせて複数の実行性格を持っている人は少なくないのです。

多重人格は西洋の心理学では悪いといいますが、これは普通のことです。

・教育と性格

俗世間の教育・知識・技術に対して、性格はそれほど問題にならないのです。基本的に命を守るため、生計を立てるために、できあがった知識世界です。生きていきたい、死にたくないという衝動は人間も動物も共通しています。(この基本衝動に合わせてもあらゆる知識体系が組み立てられているのです。)

それでも自分の本性に合わない知識・技術を学ぶことは難しいのです。理論的には誰でも生きていきたいという目的で学校に行くのですが、そこで性格が絡んでうまくいかないことがあります。貪瞋痴で目が霞んで自分に合わない道を歩んだり、親に引かれた道を歩んだり、色々選んでみたりして、失敗する人もいます。たまに自分の性格にあう道と出会える人もいるのです。

・(仏教)学びと性格

仏道の目的は、性格を完成する、心を完全に清らかにする、解脱に達するなど、言葉たくさんあっても同義語です。性格を変えるために学ぶのです。収入を得るためではないのです。仏教では、教える側が学ぶ人の本性を知る必要があるのです。

Personally types 

1欲、2怒、3痴、4信、5思考、6智 の6種類 ※これは良い悪いではないただの性格。

学生は仏法を自分の性格に合わせて理解するのおです。師匠は、理解を訂正して、人格完成へと導くのです。(釈尊は、あまり頭がシャープでない人には、次第説法をする。智慧者には本質をズバリ説くのです。)

1欲、2怒 :欲や怒りの影響を受けて理解・判断をする。

3痴 :学んでも理解・判断に達しない。(日本人に多い? 日本は白黒はっきりしない曖昧を尊ぶ文化なので元々シャープな人も上乗せで曖昧性格になってしまう。)

4信 :他人の判断に従う。

5思考 :理解・判断に時間がかかるか達しない。(これも日本社会でよく見られる。延々と会議して何の結論にも達しない。)

6智 :自分で判断する。(人の判断に乗らない。判断の責任は自分で持つ。)

・学ぶとは「影響を受ける」こと

天才でない限り、ひとは他人から学ぶのです。人の運命は環境と受ける影響で決まり!

・善友・法友

意味:人格完成へと導く人です。

「サーリプッタよ、善友がいることは、仏道実践のすべてであります。」善友に巡り合うことで仏道は完成するのです。八正道を実践して解脱に達するには善友は欠かせません。善友とはお釈迦さまのことです。

・法友とめぐりあう

他人の影響・指導・教えなどが人の成長に対して絶対的条件になります。(これが他力思想の元ネタですかねぇ?)善友ほどの宝はありません。

・人生を変えた人

世間でも、良い人と出会うと人生は幸福になる、成功します。逆もしかりです。人はほとんど貪瞋痴の衝動で生きていて、自我中心です。善友と巡り合うことは稀です。

・善友と友人

善友は目上のひとです。教え・導きをいただく人です。自分が影響を受けて人生を向上するのです。友人とは相互的です。よい影響ばかりと言えないのです。

・類は友を呼ぶ

すべての生命は似たもの同士で仲良くする。これは過去未来現在に通じる普遍的な法則であると釈尊は説きます。その人がどんな人か、つきあっている仲間を見ると発見できるのです。

・グループを全体的に観る

無知の人は無知の人と仲間をつくる。気づきの無い人は気づきの無い人と…… 似たもの同志集まっているのです。

・智慧を阻害する危機

皆、性格に合う仲間を探し求めているのです。自分が善性格ならとても良いが、反対は危険極まりないことです。怒りの人が似た仲間と一緒になると……。

・本性とidentity

似た仲間が見つからないとidentityを探す。本性=identityです。よい人間になりたいなら、人格向上させたいなら、たとえ居心地が悪くても優れた人々と付き合うべきです。本性は破るべき、壊すべきです。

とはいえ、性格が合わないのは苦痛です。だれでも嫌がります。だからいくら学んでも智慧が現れないのです。善友とつきあう時は、スムーズに行かないことを覚悟しなくてはならないのです。

しかし人格が向上していくと、善友が自分の本性にあった仲間になっているのです。

・本性を破る戦い

善友の影響で本性を破ったところで現れるのが「智慧」です。善友にめぐりあって本性を破るのです。破ったところで現れるのが「智慧」です。類友問題は智慧の障害です。

Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

デキる人の秘密―仏教の性格判断と能力開発法

デキる人の秘密―仏教の性格判断と能力開発法

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~ 

生きるのは苦しいのになぜ輪廻転生するのか?・他(スマナサーラ長老の法話より)

2012年10月27日(土)午前
スマナサーラ長老 幡ヶ谷・ゴータミー精舎 法話と実践会
※以下、講義中のメモから構成しました。

 

Q以前はよく、神棚とか仏壇に手を合わせていた。テーラワーダの場合、誓を立てる対象は?

A自分の悩み、自分の苦しみ、自分の悩み、自分の受けた理不尽なこと。それらを見ればすべて過去のことなのです。「いま」は問題がないでしょう。それがわかれば、問題は消えます。仏教には、何かに頼ればなんとかなるという話はないのです。

 

Q生きることは苦しいのに、人は輪廻転生を繰り返すのでしょうか?

A生きていきたいという執着があるからです。死ぬ時も悔しいから、また生きたいと思うのです。これは、認識プロセスのミスなんです。いくら苦しくてもそれを認めたくないから、何か幻覚を作って楽しいと思ってしまうのです。我々はいつでも、明るい明日があるんだよという暗示をかけて生きているのです。実際は、死ぬまで暗いみじめな人生です。だって、明るいのは「明日」ですからね。そうやって暗示をかけて、苦しみのなかで生きているのです。それは生きていきたい、生きていきたい、という執着のせいです。そんなもの放っておけ、と釈尊は説くのです。いま明るく、ニコニコといればいい。この瞬間この瞬間に充実してみればいいのです。欲がなければできますよ。でかけるために服を着る必要があれば、いまあるものを着ればいいのに、その服に満足しない。もっと他の服があればいいのに、と思うから苦しいのです。お腹が空いていて、白いご飯と沢庵しかなかったとしましょう。それしか選択ないんだから、気持よく食えばいいのです。なぜ頭の中で、過去やら未来を持って行くんでしょうか。なんでこんなものしかないのか、と考えると最悪に不幸でしょう。瞬間瞬間、充実感を感じて、選択はないと思って生きれば、いつでも穏やかに生きられるのです。「明るい明日」を目指すと、さらに輪廻転生することになるのです。

 

Q仏教は科学的、というのは分かるのですが、一点だけ、輪廻転生はよくわかりません。これは科学的なのでしょうか?ヒンドゥー教の影響なのでしょうか?

Aヒンドゥー教の影響ではありません。ヒンドゥー教の輪廻論は魂の引越し論で、初めから間違っているのです。仏教の輪廻論は、微塵もヒンドゥー教の影響ではないのです。ヒンドゥー教自体、最近できた宗教です。釈尊の時代にあったヴェーダ聖典には、輪廻の話がないのです。元々はない教えなのに、他宗教からパクって自分の教えだと言っているだけです。仏教の輪廻論はヒンドゥー教のパクリだといっている学者もいますが、それはその学者の研究が足りないだけです。固定観念の洗脳から抜けられていないのです。

輪廻転生が科学的なのか?と疑問を持つのは構いません。しかし物質を扱う科学にしても、物質の変化は止まらないのです。物質とは、変化し続けるエネルギーの流れです。現代科学では心という話はまったくしません。しかし、心は明確です。認識ですから。その認識はどうなのですかと。野球のボールは物質ですから、宇宙のサイクルと一緒に変化し続けるのです。野球ボールをつくる素粒子が綺麗サッパリ消えるということは成り立ちません。どのようにして認識機能が現れるのかとか、科学的には研究されていないのです。仏教では、認識機能も物質と同じく、無始なる過去から変化しつつ、のエネルギーだと教えています。そのエネルギーは物質エネルギーより遥かに強いのです。認識するたびに、ものすごいエネルギーが起きる。認識機能が物理法則に逆らおうとするんです。認識機能がなければ、私たちは立つことすらできません。立った時点で、地球の引力法則に逆らっています。認識のエネルギーにはスタート時点は成り立たないけど、終焉は作れますよ、というのがブッダの教えです。

たとえば過去世で犬だったとしても、その犬が死んだ時点で「犬の思考」は終わっているのです。しかし生きていきたいという衝動は「人間の思考」になっても続いています。皆さんは薪を燃やしてもそれが太陽のエネルギーだと思わないでしょう? あれは太陽がかなり前に発したエネルギーなんです。物理学から考えれば、この薪の暑さは太陽のものであると理解できます。子供に言ったら笑われますが、エネルギーの変化を理解すればわかることです。心についても、眼耳鼻舌身意 の認識レベルを超えれば観えてきます。仏教の教える輪廻転生は、みなさんが眼耳鼻舌身意 の認識レベルで想像している輪廻転生とは違うのです。

 

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小さな「悟り」を積み重ねる (集英社新書)
 

~すべての生命が幸福安穏でありますように~