人類のゆくえ(スマナサーラ長老の法話より)

2012年10月27日(土)午前
スマナサーラ長老 幡ヶ谷・ゴータミー精舎 法話と実践会
※以下、講義中のメモから構成しました。

 

Q:これまで、競争こそが人間を成長させる道だと思っていました。先生の著作に、人間社会が、人類が共存から競争へと変わった途端に人間破滅の幕が開いてしまったと。仏教はその破滅を一日でも先送りするために頑張っている、とありました。お釈迦様は人類の行き先をどう語っているか。自分は競争、競争の生き方を変えていきたいと考えています。

 

釈尊は人間社会を心配していた

A:お釈迦様の過去世=ジャータカ物語を読むと、お釈迦様がずっと人間社会を心配していたと読み取れるのです。釈尊が悟る前の認識は、「生きることは苦しいことで大変である。しかし苦しみを忘れて、悩みを押さえて、幸福になろうとしている。誰もそうなっていないのではないか?」というものでした。これはお釈迦様を含めて、という意味です。人々は、幸福になろうとして幸福になれない。ちっぽけな幸福のために多大な苦労をしないといけない。

生まれることからトラブルです 

生きるとは、どう頑張ってもあらゆる現象が生まれてくる。「生まれる」ということがトラブルです。子供が生まれたら楽しみはわずか。大変な苦しみが待ち構えている。責任感とか。誰でも人間なら、子供かわいいし、見たらニコッと笑ってしまうけど、責任感ってどれほど大変か。子供のためにどれほど悩んでいるか、苦しんでいるか、失望感に落ち込むか。それでも親は頑張り続ける。自分に暗示をかけながら、踏ん張って頑張っている。それでも大変。

「これから楽」にはなりません 

あらゆる現象が起こる。子供が生まれたとか、結婚したとか、幸福だという現象があるんだけど、結婚にたどり着いて幸せだ、おめでとうございます。本当ですか?結婚した途端大変な苦労が待ち構えている。これから楽です、という世界は生まれませんよ。地方議員になって、国会議員になって、総理大臣。最高の地位に達しましたね。楽?日本人一幸福でしょう。人間トップの地位。喜ぶべき。違いますね。そこから地獄待っている。釈尊は分かりやすく「生まれることは苦である。生は苦である」。津波も生なんです、生まれること。生まれたら死ぬまで生きて行かないといけない。逃げられない。子供を世界一幸せにしたいと思うのは親だけ。生まれたものが頑張らないといけない。

わたしたちは日々、老いていく 

それから、老いること。結婚は楽しいんだけど、その気持ちは日々、老いていくんです。これはどうにもならないこと。私たちは日々、老いていく。だから将来は怖い。明るい未来というのはとんでもないうそ。誰にも明るい未来が待ち構えているわけではない。日々、老いて、老いて、苦しみが増えていく。老いることは苦である。老は苦である。どうしようもない真理。

病気からは逃げられない 

病気になること。病院にかかるような病気にならずに80歳まで生きることはできる。しかし、病気からは逃げられません。仏教の定義では、身体そのものが病によって成り立つ。生きるということは、壊れていく身体を修復すること。病が生きること。病こそが生きることなんです。みな観察能力がないから、医者のところに行く時だけ病気だという。本当はいつでも調子が悪い。それを修復している。呼吸も病気なんです。呼吸は修復作業です。やめたら、たちまち死にます。御飯食べること、用をたすこと、やめたら死にます。世間は観察能力が乏しいから、おいしいご飯を食べて生きていて良かったというでしょう。私は怖気がたちます。なんと無知な人々でしょうかと。何か食っただけで、日本人に生まれてよかったと。そこまで感動するほど苦労したのかいと。人生でろくなものを食べていない。だから、あの感動なんです。

苦しみを誤魔化して生きている 

我々は生きることは苦しみだから、誤魔化すんです。家族団らんは幸せですとか、化粧して作品作って世間だましたら幸せですとか。心のなかでごまかししているんです。化粧に騙される男も馬鹿で、騙している女もバカで、お互いごまかし遭っている。それでゴマ櫂アイで、ああ幸せだというのは、本当の幸せですかね。そういうことに人間は必死なんです。10階建てのデパートがあったら、8階までは女性服。そこまでごまかしている。騙し騙され。なぜか。そこまでしないと人生は生きていられない。そのくらい大変なことなんです。騙しがないとどうにもならない。音楽がなければ、映画ドラマがなければ、現代ではゲームがなければ、生きられませんよ。苦しいんです。ですから、ゲームをやる人は自分を騙しているんです、ああ楽しいと。病イコール命です、病とは生きることなんです。血液がさらさら流れないと死んでしまう。流れるためにはあれこれしないと。命は病で成り立っている。やばいもの。ちょっと油断すると死んでしまいます。

生老病死の問題をどう解決するのか? 

でも必ず死ぬ。死なない人はいません。釈尊は、この「生・老・病・死」に人生を見事にまとめてみたんです。そこで、あわれみという、心配の気持ちが生まれたんですね。これは汝らを憐れむぞという偉そうな気持ちではない。そうではなく、「生きとし生けるもの」が苦しんでいるんだと。「生きとし生けるもの」には、お釈迦様自身も入っています。汝ではなく、生きとし生けるものを心配する。そこで生老病死をどうするか? 釈尊は、家を捨てて出家して、八正道を発見して覚ったんです。生老病死を解脱したんです。それから、解脱に達する方法を誰にも隠すことなく教えてあげたのです。これは一般的な思考とはかなり違う立場。ただ慈しみがあるだけで、主語はないんです。心配する。それだけ。主語はないんです。「我は」はない。これはけっこう理解難しいと思います。

認識過程に問題がある 

それからお釈迦様は原因を探すんですよ。なぜ命が病になったのか。生まれること自体がそうとう怖いものになったのかと。認識する過程で問題があるのです。認識する過程、プロセスに何か問題がある。われわれは騙し騙されの世界を喜んでいる。本当ならばデパートに行ったら腹をたてて出ていくべきでしょう。歌の世界というのも嘘ばかり。十五六歳の女の子たちが偉そうに恋の歌、別れの歌を歌ってもいい加減にしろと。まだ男の子の友達もいないでしょうに。あれも訓練させて、だましの世界のプロになる。それで人々は喜んで騙される。そういうことを見ても、我々の認識過程には何か問題がある。つねに騙し、現実をごまかしということを発見する。

執着を捨てれば問題は消える

そこで、生きることへの執着を捨てたところで、問題が消える。病気になって慌てるのも、執着があるから。子供が死んでものすごく悲しいのも、執着なんです。私の子供ではなく、人間である。生まれたものは必ず死にますよ、と思っちゃえばその執着は綺麗に消えます。金が無くなったらすごい苦しいでしょう。それも執着。執着さえなければ、ものすごく穏やかな心でいられます。それは目の前で経験できます。死後も、この恐ろしい「存在」というものを作らないんです。

「我はいる」という心の汚れ 

心のトラブルについて釈尊は様々な例を出して語る。心のトラブル惹き起こすものは煩悩という。原文は「汚れ」です。心の汚れ。リストアップして、これこれを捨てなさいと。それだけだと。リストはその都度いろいろありますけど、すべてまとめると三つなんです。貪瞋痴。生命は騙しの世界にいるんだから、真理の世界に生活しない。嘘の世界、幻覚の世界に生きている。一つの心の汚れというのは「自我」ですね。「我はいる」という考え。これは幻覚なんです。あなたが我という場合は何を指していますかと。大雑把で中途半端で明確な定義もなく、単語を使っていますね。「私は」「我は」しかし単語生まれたということは何かを指しているはずなんです。それは何かと調べなさいよと。すると、それは幻覚だったと発見する。それだけで煩悩が終わります。

病気の心がつくる宗教の世界 

解脱に達する方法はいろいろありますが、ひとつは、「我とは何か?」と調べてみることです。すると我とは成り立たない、大雑把で非論理的に使われてきた単語に過ぎないと分かるのです。「我」とは、ただの一般人が作った単語です。それにおかしいのは、知識人たちが「これこそが我である」と大まじめに論じること。知識人の幻覚は、皆さん一般人の幻覚よりも、とんでもない幻覚なんです。私の魂は、私の霊魂は、とかいうと治らない幻覚です。詐欺師のマインドコントロールです。詐欺師が自分の商売のためにつくったマインドコントロール以外の何ものでもない。権力欲支配欲など病気の心で作られた宗教の世界なんです。

どうして私は生きているのか? 

そこで、競争について話します。健康になりたい、と思うのは健康でない人々。痩せたいと思うのは痩せていない人。生きていきたいと思うならば、生きるとはどうやって成り立っているのか、それを無視したら結果を得られない。痩せたい人が、なぜ体重増えるのかと調べないとダメでしょう。それはどうでもいい、私は痩せたいだけ、と思ったら痩せるわけがない。同じく生きていきたいと思うならば、どうやって私は生きているのかと調べなくてはいけない。調べていない。

共存しているからこそ私は生きている 

そこの答えは、「他の生命がいなければ、自分は生きていられない」です。たちまち死にます。砂漠では生きていられませんよ。他の生命がいて、生きているんです。この身体のなかで、細胞の数よりもはるかに、数えられないくらいの他の生命が生きているんです。これらの生命の排泄物で、自分の身体が成り立っていますよ。腸内細菌の排泄物をビタミンだのなんだの言って、元気に生きている。皮膚がこれだけ厳しい環境で元気なのは、皮膚の上にたくさん菌がいきている。なのに日本社会はいつでも抗菌抗菌。それで金をはらって身体にあれこれ塗りたくっている。自然の中で生きている人々は年取っても身体がつやつやしてますよ。あれは抗菌ではないんだから。

共存に気づかない無知 

私たちは他の生命がいないと生きていられないということを知らない。他の生命に対して一欠片も親切ではない。ある日、子供を連れて品川水族館に行きました。中学生がたくさんいてうるさかったのです。水族館では生命の生き方を学ぶところでしょうに。それなのに彼らは、カニを見ても「これが美味しい」と。同じ生命だという気持ちがまったくない。獣とおなじです。しかし、獣は腹が減った時に食べるだけ。空腹でないライオンの前をガゼルが通っても、相手にしません。獣だってそうなのに、水族館に遊びに行って、生命が食い物にしか見えないというのはどういうことか。

生きる歓びを感じるために 

我々はエゴイストになって、他の生命に残酷な態度を取る。他の生命に残酷な態度を取ると、自分は生きていられないんです。ただでさえ生きることは苦しいのに、エゴイストで残酷な生き方をする人は恐ろしい生き方をその上に味わってしまうのです。ですから穏やかで、安全で、気持よく、明るく生きたければ、生命に対して慈しみを育てなさいよと、慈しみを教えるんです。それが法則だよと。他の生命がいないとあなたは生きていられないでしょうと。他の生命に慈しみを感じなさいと。それでたちまちあなたは安らぎを感じますよ、生きる歓びを感じますよと。

競争は根深い問題 

競争というのは、根が深い問題です。日本の社会は競争社会といっても、その問題はもっと根深いんです。たとえば水の中で生きている生命というのは、あらゆる他の生命に食われますね。他の魚、鳥、いちばん恐ろしいのは人間ですね。大量に捕る。みなさまがたは、例えばタイという魚を食べたくなる。タイ一匹が、どうぞ私を食べてください、と出てきますか?生命は食べられたくない。そこで競争が始まるんです。人間はあれこれ工夫して、魚を取ろうとする。競争に負けた時点で、命までなくなってしまう。我々が生きているということは、強者であること、残酷な生き方をしているということ。

人間という凶暴な生命 

人間はあらゆる生命のなかでもっとも凶暴です。自分が生きていたいがために地球まで破壊するんです。競争というのは根深い、根本的なところ。森に入ったら、クマに出会うと、そこで、競争が始まる。お互い怖いんだから。クマは人間を見ると恐ろしくていてもたってもいられなくなる。自分のいのちを守るために攻撃しないといけない。どちらが勝つかというと強者が勝つ。人間が手ぶらだったらクマが勝つ。猟銃でももっていたら、クマが死にます。それでわれわれ人間が、人間の社会を作る。一人ひとりが、自分が生きていたいために社会を作る。自我、エゴイスト。自分が生きていきたいためにあらゆるシステムを作る。人間には教育というものがある。教育のなかで、我は生きていくために、あんたはどうでもいいや、という気持ちでやっているから、競争が出てきます。ただ必要なことを学べばいいのに、敵と味方に分かれて競争するのです。それで、教育はとことん苦しい世界になっている。商品の交換が経済で、別に大したことはない。経済学という大げさな学問にするほどのものではない。しかしこれが、我々に耐え難い競争になっている。

人類が破滅に向かう理由 

結果として、他の生命を攻撃すると自分には生きていけない状況になる。私たちは、幸福に生きたい、楽しく生きていきたいと思うんだけど、方法を知らないのです。競争すると幸福になるのかと。なれません。民主党が政権を取ってすぐに、自民党が徹底攻撃。仕事させない。それで良い国ができますかね? 国民のためになりませんよ。この世の中で何ひとつもうまく言っていないんです。あらゆる組織が無数にありますけど、すべて競争という原理に変わっていまう。なぜ人類が破滅に向かってまっしぐらで走っているか。これ、競争のためでしょう。一つの国が経済的に豊かになると、他の国がガタガタに壊れてしまう。中国が世界一の経済大国になったら、どうなるかわからない。これまではアメリカが世界一の経済大国で、世界中に迷惑をかけまくっていた。

競争原理で不幸になる 

人が経済的に豊かになるのはいっこうにかまわないが、競争の原理で成り立っているから、大勢の人々を不幸に落としているんです。100人を踏みつけて、自分が美味しいご馳走を贅沢に食べている。それに万々歳素晴らしいことというべき?

競争ではなく共存が繁栄を呼ぶ 

そこでお釈迦様が、競争ではないんだと。生きていきたければ共存だよと。生かして生きる。生命を生かしてあげると、生命も自分を生かしてくれます。レストランでも、先に自分が客に、喜び・充実感・安らぎを与えるならば、自動的に繁栄するんです。これ実行が難しくなっているのは、人類が全体的に競争になっていて、根深い問題だから。鶏を食いたいけど、鶏は食われるために生まれていない。だから鶏の自由を奪って、身体を動かせないようにして、機械で餌をあげて、そこにいろんな成長ホルモンなどを入れて、毒にして、殺して皆さんに売っているんです。自分さえよければいいという恐ろしい世界が広がっているんです。

赤ちゃんさえ、先に与えている 

慈しみで生きていると、まるっきり想像できない社会が成り立つんです。私がGive & take という言葉を少し、give & receive と言っているのです。先にgiveなんです。先に何かしなさいと。赤ちゃんだって、先にお母さんを見て笑うんです。それで母親は喜んでおっぱいをあげる。赤ちゃんがまるっきり笑わないで恐ろしく泣き叫ぶだけだと、親も育児ストレスが溜まって子供を捨ててしまいますよ。赤ちゃんが先にニコッと笑うと、問題が起きない。児童虐待をやっているお母さんもやりたくてやっているわけではない。どうにもならなくてやっている。(赤ちゃんもお母さんも)どちらもエゴイストですからね。

貪瞋痴の心にあう教えが拡がる 

ブッダの教えが世界に広がればまったく問題ないんですけど、世界に広まっているのはイスラム教の教えですからね……。キリスト教ならまだ「汝の隣人を愛しなさい」くらいの教えはありますけど、彼らには、それすらない。それでも広まっているのは、貪瞋痴で成り立っている私たちの心に合っているからなんです。

正しい教えは個人で実行するもの 

ブッダが教える正しい教えは個人でやらないといけない。競争の世界で私は競争なしに穏やかに生きる。怒りに狂っているこの世の中で私は怒りなく生きますと。憎しみ争いの世の中で私は私は……、競争の世の中で私は共存の気持ちで穏やかに生きています、と自分で先延ばしにしても、どうにもならない。存在というのは維持しようとしても壊れるもの。人類がいくら頑張って生きていても、自然の条件が変われば、消えてしまいます。しかし我々は頑張れば目の前で破壊が起こることは先延ばしに出来ます。とはいえ、これは個人で実行するしかないんです。自分は怒りに狂った世の中で怒らないようにしますよ、とすれば、周りの人々もそれを学ぶんです。

自分がまず何を与えるのか? 

夫婦関係でも、自分がしてもらうことばかり考える。それでハチャメチャになる。結婚したら、自分が相手に何をしてあげればいいのかと考えれば、仲良く年取れます。「自分がまず何を与えるのか?」という生き方をすることで、幸福に生きられるのです。

 

Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

仏教の「無価値」論がAmazonkindle無料ランキング1位に

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無料だからとりあえずDLという人も多いでしょうけど、総合1位とはびっくりです。

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~

師茂樹『『大乗五蘊論』を読む』など

 久々に、本の話題です。

『大乗五蘊論』を読む (新・興福寺仏教文化講座)

『大乗五蘊論』を読む (新・興福寺仏教文化講座)

 

師茂樹『『大乗五蘊論』を読む』(春秋社)唯識哲学を大成したヴァスバンドゥ(世親菩薩)が伝統仏教の五蘊・十二処・十八界という枠組みを使って唯識アビダルマをコンパクトにまとめた論書の現代語訳と解説です。著者の師(もろ)先生は大著『論理と歴史 東アジア仏教論理学の形成と展開』(ナカニシヤ出版)が話題の仏教学者。自身も禅を実践されているだけあって、アビダルマが冥想実践のなかから発展してきたことを踏まえた解説がされているのが特徴です。北と南、大乗とテーラワーダ、同じアビダルマ(アビダンマ)と言っても随分色彩が違います(特に念・satiの解釈にはかなり隔たりがあります)が、スマナサーラ長老・藤本晃『ブッダの実践心理学』シリーズを齧った方なら、混乱せず読み通せるでしょう。「阿頼耶識」概念と滅尽定の関係など、興味深い論点がたくさん提示されています。

論理と歴史―東アジア仏教論理学の形成と展開

論理と歴史―東アジア仏教論理学の形成と展開

 

そして、大著のほうも読了…というかページに空気を通すのがやっと、という感じでした。『『大乗五蘊論』を読む』で本書の内容がチラリと紹介されていたので、先に読んどいてよかったかも。僕のボキャブラリで無理やりまとめるならば、仏教論理学をめぐる史劇という体の『TRAIN-TRAIN』が鳴り響く本でありました。冒頭の中村元「比較思想」批判や、本朝での論争史を投影した三国仏教史観へのツッコミなど、僕にもほんのり分かる面白い論点がザックザックしている雰囲気は味わえました。ほんとに仏教もとい仏教学は広大無辺すぎるわ。下敷きとなった博士論文に含まれていて、本書では割愛したという「明治期を中心とした近代における因明研究史や、仏教文献に対する人文情報学的な分析についての章」もぜひムキムキ増強版を拝読したいと思いました。 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

大分講演会「あなたの人生がウマくいかないのにはワケがある~ブッダに教わる人生で大切なことと捨てるもの~」(スマナサーラ長老の法話より)

2012年10月21日(日) スマナサーラ長老 大分講演会&初心者冥想指導

『あなたの人生がウマくいかないのにはワケがある
 ~ブッダに教わる人生で大切なことと捨てるもの~』

主催:明西寺 場所:アクロスホール

以下、講義中のメモから構成しました。

人生の基本プログラム

……私たちは、「どのように生きていくべきか?」という基本プログラムをしっかりしてから、他のことに取り組んだ方がいいのです。社会は発展してるといいつつ、生きることだけは大変です。ネットの発達で、面と向かってコミュニケーション取れないようになっている。テキストのやり取りだけで感情むき出しに動物のようにいがみ合って、かえって人間らしさを失ってしまっています。

ものごとは多面的に見るべき

果たして人類は、発展しているのか、退化しているのか、墓穴掘っているのかよく分からなくなっている。発展といって、命の基礎である自然を壊しています。ご飯をかける前に、塩と一緒に細菌や青酸カリをかけているようなもの。生きることの苦労は昔からあったけど、一向に人間の生き方は改良・改善していないとも言える。現象は見方次第で変わるのです。昔と違って、毎日うなぎ食べられるからいいんじゃないか、社会は発展している、とも言えますが、代わりに自然からうなぎが消えているのです。食っているのはほとんど養殖(それも養殖できない稚魚は絶滅状態)。ものごとは一方向で捉えずに、いろんな方面から観たほうがいいのです。

笑って生きていられますか?

皆さん自問自答してみてください。穏やかに生きていますか? 満足して生きていますか? 笑って生きていられますか? 実際は、毎日、不安なんですよ。個人個人が不安だらけで、ストレスだらけで、イライラして生きている。その時点で一向に、我々は穏やかに楽しく生きるということにまだまだ成功していないのです。お釈迦様は、人間に幸福になる方法を教えている。科学的に論理的に教えています。お釈迦様が教える幸福は決して揺らがない幸福です。火事、地震、災害、倒産、事故、貧困などなど、何があっても揺らがない幸福を教えるのです。

幸せとは何でしょう

では、穏やかに、落ち込むことなく、揺らがない安定した気持ちで幸せに生きるためにはどうすればいいのでしょうか? 幸せというのは、興奮することじゃないのです。自分の子供が試験に合格すると興奮するでしょ? しかし、合格したらすぐ別の課題が現れてきます。それに取りかからないと。幸せ気分に酔っていたら大変な事になります。何があっても、いつでも微笑んでいられる、あまりものごとに興奮したりびっくりしたりしない、冷静でいられることが幸福なのです。

他人を攻撃するわけ

私たちは自分の人生がうまくいかないと、他人を攻撃するのです。他人のせいにしようとするのです。それでうまくいくはずはありません。人生がうまくいかないと悪循環にはまってしまいます。うまくいっていると、また、うまく行って調子に乗ってドカンとおちる。転がって傷だらけになりながら落ちるか、ドカンと落ちるか、人生はどちらか。同じ結果です。こういう生き方はどう考えてもまずいのです。

脳が作る怪しい世界

私たちは、脳の20%しか使っていないと言われます。20%の脳が現在の怪しい世界をつくったのです。(仏教では脳ではなく、心と言いますが、)我々の心が、無知で、欲で、わがままで、怒りで、嫉妬で動いているのです。大脳は状況は観察して、分析して、どうしたらいいかと分かっています。しかしそれをやるときに、怒りや無知、欲などの感情でやってしまう。それで結果はどうでしょうか?

運命的な矛盾

原発がよい例です。日本では、高速増殖炉が完成すればプルトニウムをどんどん増やして永久的にエネルギー資源に困らないようになると謳っていた。しかし原発が開発されて何十年も時間たっているが、いまだに放射性廃棄物をどう処理すればいいかという技術はゼロです。研究もしないようですね。あまりにも傲慢な感情に動かされて、原子力開発を続けてしまった。自然をいじるのは構わないが、しかし自然をバカにしてはいけない。帰ってくる結果は取り返しがつかない。100円儲かるために10万円使うようなものです。原発はそういうシロモノになっています。原発だけにかぎらず、人間が作り出す発展には、運命的に矛盾がつきまとうのです。

感情で脳を使うと破滅に至る

なぜそうなったのでしょうか? 脳の20%しか使わないけど、それもエゴでわがままで、怒り、憎しみ、嫉妬、傲慢、恐ろしい感情で脳を使っている。だから20%以上使えない。そのリミットを超えると自己破壊になって、人類の終わりになる。これ以上脳を使ったら、人類の破滅が加速することになるでしょう。

脳の使い方に問題があります

生命の進化は必要だから起こるのです。大脳も人類にとって必要だから進化したのです。しかし、どうもうまく使えない。20%以上は手が伸びなくて、残りは使えない。なぜでしょうか? 使い方に問題があります。

向上・進化のために脳を使う

ふつうの紙袋に20キロも荷物を入れたら、底が抜けて壊れてしまいますね。怒り、嫉妬、憎しみ、感情、傲慢のエネルギーでは、20キロしか運べない。壊れてしまいます。人間は向上・進化するために生まれたのです。ブッダは、怒り、嫉妬、憎しみなどを無くして脳を使う方法を教えています。智慧を開発して、揺らがない幸福に達するのです。人間の限界を乗り越えるのです。

釈尊はぎりぎりまで働いた

お釈迦様は、年老いてボロボロになって、余命三ヶ月だと宣言していました。しかし、最後の一分二分まで仕事をしたのです。沙羅双樹の下で倒れて横たわっても、話を聞きたいという人にしゃべって、覚りに導いて、「それでは皆さんこれからも怠ることなく修行をがんばってください」と言い残して亡くなった。それにくらべて我々はどうでしょうか? 仕事をしたくても、仕事がない。仕事といっても、そんなに必要とされていないのです。

人類に欠かせない仕事

人類にとって欠かせない仕事といえば、農業と医療程度です。それが無くなったら困ります。それにしても、ほどほどにしないと迷惑です。それほど必要とされていない仕事をすると、無理をすることになる。派手にアピールしないといけない(ファッションなど)。「ネイルアートは人類に欠かせない」と言ったら、それは嘘になります。気持ちの上では誰でも、「あなたの仕事は大事ですよ」と言って欲しいでしょう。でもぜんぜん大事じゃないんです。大事なのは家の奥さんがご飯作ることなんです。それにしても、心が穏やかでなければ、心ができていなかったら、台無しになってしまいます。

ブッダの仕事

ブッダの仕事は、私たちの幸福の基盤になる、心を育てかたを教えることです。この上ない、大切な仕事なのです。ブッダは、人々に慈しみで生きることを教えています。怒り・憎しみを無くして、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちで生きると、脳の残りの80%が使えるようになります。もう危険ではないのだから。生命のことを心配しているから、智慧が現れてくるのです。

生命は心で通じ合う

本当に優しい人が、暴れている動物に「あなた落ち着いたらどうですかねぇ」というと、それで落ち着くんです。動物が言うことを聞いてくれます。日本語で喋りかければ、それでけっこうです。自我を捨てて生命は平等であると見ると、自分の周りは奇跡ばかりになります。動物も昆虫も言うことを聞くんです。ゴキブリは耳で人間の言葉をきいているわけではない。しかし、心は通じるんです。心に耳はいりません。

「オウン・ゴール」人生を乗り越える

生まれて、やがて死ぬ時、私たちは何の成長もしていないのです。怒り憎しみで死んでしまうのです。生まれた時は何もできない赤ちゃんですけど、死ぬときには人間を越えて、清々しい心で、智慧を開発して、進化して最後を迎えますと、励んで欲しいのです。大成功を納めて、生きることのゴールに達してから死にますと。しかし、私たちは「オウン・ゴール」人生です。そういう、すぐ死にたくなるような生き方をしている。お釈迦様は、「進化しましょう。人間を乗り越えましょう。そこに揺らがない幸福があります」と説かれているのです。

人生の操縦桿を握る

人生はうまくいったり、うまくいかなかったりです。全体的にどういうものか? といっても、どうってことないものです。大切なのは、正しく人生の操縦桿を握ることです。無常で、うまくいかない世界で、それでも人生を運転しなくてはいけない。道路にはカーブがあってはいけないとか、上り坂下り坂があってはいけないとか、信号あってはいけませんとか、他の車は走ってはいけませんとか、野生の動物がいきなり道路に飛び込んではいけませんとか、言えたものではないでしょう? 道は危険だらけですが、だからといって、自分に事故を起こす権利はないんです。

仏教は人生の免許を取るための教習所

赤ちゃんの時は母がつきっきりですけど、だんだん一緒にいる時間は減っていきます。やがて、お母さんの手を離れて、自分の責任で生きないといけない。一人ひとりが、ちゃんと人生を操縦して、事故を起こさないで生きることが欠かせないのです。しかし、人生には免許制度はない。仏教とは何なのか? それは人生の免許を取るための教習所です。生きることの免許を取るための教習所です。だから皆さん、仏教が嫌いでしょう。できれば、無免許で運転したいんだから。しかし人生は、きちんと免許証を取って運転したほうがうまく行きますよ。

「神様お願い」というエゴイズム

私たちは人生がうまく行って欲しいと願う。神様お願い、とまで願う。そこにエゴが入るのです。「人生がうまく行ってもいかなくても、知ったことではないのだ。自分がやるべきことを淡々とやるのだ」と、放っておくべきことを放っておくことができない。年取るのは自然法則で避けられない。これが嫌だと思うと一生不幸でしょう? 頭のおかしい期待・希望は捨てるべきです。歳とっても若々しくいたいとか、そういう人は、精神病院に行ったほうがいいのです。

あり得ないことは起きません

人生は淡々と変化していくものです。世の中はすべて自然現象で起こるんです。不自然なことは起きません。大地震津波も自然現象であって、決して異常現象ではありません。私たちには、出来事を冷静に受け入れる能力が必要です。楽しいことも冷静に受け入れる。悲しいことも冷静に受け入れる。そのためには、「あり得ないことは起きませんよ」という理解が必要です。「こんなのあり得ない」ということはあり得ないのです。起きる出来事はすべてあり得ることです。仏教の言葉では、これに因果法則と言うのです。不思議は起こりません。奇跡は起こりません。すべて因果法則によって成り立つんです。

夢が叶う条件

夢があっても叶うと思ってはいけません。夢が現実的で、それに向かって正しく頑張るならば叶うのです。でないとひどい結果になります。落ち込む結果になります。希望が現実的で、それを実現するために必要な仕事をしていれば叶いますが、奇跡的に叶うことはあり得ないのです。

倒れたら自分で立ち上がれ

それから、誰かが私を助けてくれることはあり得ません。誰かが助けてくれる、というのは、傲慢で、汚い感情です。自分がすごく偉いと思っている証拠です。神様、観音様、ほとけ様が私を助けてくれますよ、だなんて、調子に乗りすぎです。そこまで傲慢を張るのかと。自分がこけたら、自分で立ち上がることが自然でしょう。穴に落ちたら、落ちたまま何もしないで、「誰か助けてくれないのか!」と怒るのです。

すべての出来事には理由がある

われわれは冷静に受け入れる能力を育てること。そのためには、「世の中は因果法則である。奇跡はない。すべてあり得るから起きるのだ」と理解すること。突然、火山が爆発しても、突然、大雪が降っても、調べたら理由があるでしょう。自分が診断して病気だとわかっても、驚かなくても、それはそれなりの理由があってそうなっているんです。たとえ、子供が障害を持って生まれても、「別に……」という感じで対応すればいいのに、むやみに大騒ぎする。カーテンが燃えていたら、火事だ!と叫びながらそのカーテンを部屋の中に放り込むようなものです。

無常に逆らうと不幸になる

生きることは無常です。我々は一秒一秒変わっていくのです。変わるのは、悪い方に変わっていくのです。元気だった身体はどんどん老いて衰えていくのです。可愛かった子供は反抗的になって出ていってしまうのです。人生はそんなものです。日々、変化していく。どこかで、それを受け入れたくないという気持ちがあって、その気持ちにやられてしまう。それで不幸になるのです。

変わり続ける世界をハンドリングする

ですから、冷静に受け入れて対応する能力を育てましょう。世の中のことは、うまくいかないのです。学校に入ったら、自動的に勉強できるわけではない。自分がベストを尽くして、うまく自分の人生を操縦するぞと頑張らないと。変わっていく世界を、少しでもよい方向に変えてみようとチャレンジするのです。曲がっていく道路にあわせて、その都度、ハンドルを適切に操作する。年をとって、身体の動かない老人になったら、みんなに喜びを与えるような、素晴らしい人格を持った年寄りになったら、その人の人生は勝ちでしょう。

智慧を開発するブッダの方法

脳(ではなくて、心)を開発して、智慧が現れるようにするためには、ヴィパッサナー瞑想を教えます。それがなくても、いつでも一切生命を慈しむことです。差別しないことです。みな同じ仲間だと。小さな昆虫、小さな微生物から巨大な生命まで、みなただ生命であると。だれが特別偉いわけでもなく、神が特別偉いわけでもないんだと。皆にそれぞれの問題があります。子供の頃に聖書を読んで、そこに記されている全知全能の神にも、私なんかより相当、問題があると分かったんです。神はいつも怒ってイライラしているし、計画は何一つうまくいかない。神なのにね。それは仏教で言う、だれでも平等だということです。神であっても、神には神なりの悩み苦しみがあるのです。猫には猫なりの悩み苦しみがあります。ですから、「幸せでありますように、皆それぞれ」という気持ちで生きてみてください。みるみる智慧が開発されます。安定した幸福が感じられるようになります。

※以下、質疑応答より抜粋

Q:睡眠欲を克服するためにはどうすればよいでしょうか?

睡眠の機能を理解する

A:睡眠というのは、身体の機能を修復するために、ちょっと停止するというくらいのことです。実際には、肉体は寝ていないのです。心臓が「ちょっと一休み」したらどうなりますか? 「疲れたので、ちょっと呼吸をやめて寝ます」なんてあり得ないでしょう? 現代人は睡眠がすごく大事だと思っているのですが、睡眠ってなんですかね? 細胞は寝てないのに。ただゴチャゴチャものごと考えたり喋ったり、走ったりという派手な働きをストップするだけ。しかし身体は生きています。その間に、身体のダメージをいくらか修復するのです。だいたい、人間の睡眠時間は3時間で充分だそうです。しかし、体内時計にあわせて寝ないと意味無いですけど。山手線の終電(AM1時付近)から4時か5時の始発の間にすべてメンテナンスするようなものです。

睡眠欲が出てくるわけ

睡眠からでてくる問題は、私たちが身体を修復する時間にあわせて寝ないことが原因です。だからいくら寝ても身体が修復しない。壊れたままで次の日も次の日も生きないといけない。寝るのはいくらでも寝られるけど、ポイントは身体が修復するかどうかです。それが充分でないと、睡眠欲というものが出てくる。正しい時間に寝て、正しい時間に起きるなら、睡眠欲は出てこないのです。たとえば、食べて眠くなるのは睡眠欲ではありません。食物という「異物」を身体に入れたから、それを消化するためにエネルギーが必要なんです。緊急事態のときは落ち着いていなさいという、命令です。その時ちょっと寝ても10分15分で起きます。睡眠欲というのは、身体の疲れが無くなってないから現れます。夜中まで起きているので、身体にダメージを治す機会を与えてない。人間は進化したといっても体内時計は原始時代のままなんですから。

心を活発に保ちましょう

次に、くだらないことを妄想しないこと。それでどうしても妄想が割り込んでくるなら、面白いものを読んだり、豆知識になるものを読んだり。面白さが現れるものを読んだり見たりして、脳(心)を明るい状態に保つことです。脳が明るければ、修復に時間がかからないのです。つねに心が明るい人には、寝ないでも生活できます。煩悩なく悩むことなく生きているなら、寝る必要はなくなっているのです。お釈迦様もほとんど寝ないで活動されたそうです。心がつねに活発だから、身体はつねに自動修復したのです。それは私たちには無理ですから、一定の時間は寝ないといけない。それでも、心がつねに明るく活発になるように努めれば、睡眠欲の問題は無くなります。

 

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執着の捨て方

執着の捨て方

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

摩天楼法話会「真理を喜ぶ者は安らぎを得る」(スマナサーラ長老の法話より)

20120925(お彼岸最後の日)

新宿・日蓮宗 常圓寺祖師堂

摩天楼法話会「真理を喜ぶ者は安らぎを得る」

講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

ブッダの話は父親の話を聴くような感じで聴いて欲しいのです。異論があったら出して欲しい。お互い仲良く話し合って真理を学んで成長していくのが仏教の世界です。宗派は発展していったが、元の姿も知っておいた方がいいのです。

 

お寺の住職さんに旦那さん奥さんの愚痴を話してもいいのです。ちゃんと聴いてくれます。いま檀家さんとお寺が疎遠になって葬儀くらいしか関係がなくなっています。それは寂しいことです。

一般の方とお寺が仲良くなって安心できる社会を作らないといけないのです。いまは人の生き方が自己破壊になっています。仕事することが毒を飲むような、火であぶられているような事になっています。それを変えて生きる事を楽しく安らぎを得られるようにすることは、お寺にしかできないと思います。

 

お寺が置かれている状況も、社会の状況も大変ですが、それでも私たちは穏やかな気持ちで生きていることができます。しかし、そのためには一工夫しないといけないのです。では、これから私の話に入ります。

 

*********************************

 

アメリカで撮られたムハンマド侮辱映画に抗議して、暴動やテロが起きています。滑稽なのは、イスラム教の人々が自らの行動によって、「イスラム教は野蛮で暴力的」という映画のメッセージを自ら証明してしまったことです。

 

ユダヤ教キリスト教イスラム教、歴史上、お互いに争ってたくさん人を殺してきました。仏教的に冗談をいうと、ちょっと侮辱された位でけがされる教えだとしたら、それはひ弱な教えということではないでしょうか? 全知全能の神を批判しても、神がびくともしないはずなのに。批判者は神から見たら虫ケラでしょう。気にするはずがないのです。なぜ烈火のごとく怒って暴れるのでしょうか。そういう常識的なものの見方も信仰によって崩れてしまっているのです。

 

世の中の争いに使われるのは、決まって宗教なんですね。何が唯一絶対神の教えかを巡って人々は殺しあっていますが、地球が丸いということを巡って争いが起きることはないのです。見たことは無くても誰も疑わないのです。誰かが地球は平らだと言っても「殺すぞ」とはなりません。ニコッと笑って終わりです。

 

イスラム教の人が、キリスト教はサタンの教えだと言ったとしても、病気になったらキリスト教の医者に看てもらうでしょう。ポイントは理論的で、仏教徒だって病気になったら医者に「貴方は何教?」とは訊かないんです。

 

私たちは、喧嘩する時は喧嘩する、殺し合いする時は殺し合いする。病気を治すためにどの呪文が正しいかについて宗教家が議論したら、つかみ合いの喧嘩になるでしょう。しかし医者が治療のメニューをいくつか出す場合は、冷静に議論できるのです。

 

事実について、我々は喧嘩しないのです。

 

何が事実か曖昧な時、我々は困る。争いが起きるのです。はっきり明確な時は困らない。争わないで落ちついているのです。事実の世界、真理の世界(医療もある分野での真理)が現れてくると、人間が安らぎを感じるんです。

 

呪術師が祈祷してそれでも病気が治らなかったら、言い訳をするのです。あなたは神の怒りをかったのだ、祈祷ではどうにもと。医療ミスがあったら、言い訳訊かないで医者を訴えます。祈祷師は訴えないのに。

 

医学が発達すると、我々の不安が消えていくのです。本当のことを発見することは、人々に不安を無くして安らぎを与えることなんです。

 

実社会でもそうです。尖閣諸島の領有権について、日中のどちらかに確固たる証拠があれば、今のような争いにならなかった。結果は、不安でたまらないのです。中国であれだけ社会が発展していたのに、全部ぶち壊す猿たちが現れてしまった。いくら中国人が文化人を気取っても、あれでは……。

 

なぜ突然、こんなヤバイ状態になったかというと、曖昧な不安状態があるからです。今日にでも明らかな証拠が見つかったら、平和になるのです。

 

真理を知ったら安らぎです。真理を知らないと危険です。これを仏教が最初から言っているんです。究極の幸福・安穏にいたりたければ、真理を知りなさい。真理を喜ぶというのは、これはほんとうかな?と真理を探求する気持ちのことです。

 

私たちは真理を知らなくても、「真理を喜ぶ」気持ちを持たないといけないのですまだ真理を知らないけれど、真理を求めて自ら調べて新しいデータを得ることに、良かった良かったと喜ぶことです。

 

噂に乗らないことが大切です。日本の週刊誌は噂でできています。それに皆乗ってしまう。人の噂に乗って好き勝手な話をして喜んでいます。それは「真理を喜ぶ」態度ではない。人の心を曖昧な不安状態に陥れることなのです。

 

我々は真理を喜ぶ生き方からどんどん遠ざかっています。それで、悩み苦しみが増しているのです。インターネットのおかげで世界の情報を即時に知ることできるのに。それは私たちが「真理を喜ぶ」ことをしないで、噂を喜んでいるからです。そのせいで、私たちは心の安らぎを失ってしまうのです。

 

「ここだけの話」は危険です。ジャータカ物語で、秘密は誰に言うべきかと議論になったことがある。菩薩は「秘密だったら誰にも言うな」と答えるのです。一人にしゃべった時点で、それは秘密でも何でもないのだと。皆さんは聴きたくない答えでしょう?

 

秘密とは、決まって悪いことなんです。秘密があるなら、誰にも話さないでください。秘密にしないといけないようなことはやらないことです。

 

真理を喜ぶことです。ブッダの教えを細胞単位にでも分解して徹底研究してみてください。僅かにでもブッダの教えに間違いがないかと、調べてみてください。仏教はオープンチャレンジです。真夏の太陽のように、ブッダの説かれた真理は堂々と輝いていますよと。それだけ自信をもって語っていることです。

 

他の宗教には、そんな自信はない。その代わりに必ず脅しが入っているのです。唯一絶対神と言いながら、他の神を拝むなよ、地獄に堕とすぞと脅しているのです。「唯一の神なら、他に誰もいるわけないだろうに。こいつは何を言っているのか」と、私は子供の頃に聖書を読んで笑ってしまったのです。

 

「あなたの他に、覚りに達している仏弟子は一人でもいるのか?」とあるバラモンに訊かれて、釈尊は「比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、それぞれ何百人でも、もっと幾らでもいますよ」と答えました。それで相手は黙ってしまったのです。

 

真理とは何でしょうか?

 

生きることは大変です。苦労して頑張って、やっとのことで生きています。命は惨めである、というのは別に嘘じゃないでしょう。日本の総理大臣は日本のトップですが、好きなように生きているわけじゃないんです。皆さんよりも極限に惨めですよ。ちょっとした軽口も叩けないんです。

 

会社でも平社員で入って昇進するほど、責任がのしかかって苦しみが増えるのです。これが紛れもない事実です。自分で地獄をつくるようなものです。毎日、身体が弱くなるばかりです。金があっても遊ぶ暇がないのです。ご飯を食べる暇も、家族と団欒する時間もないのです。

 

生きるとは、年取って身体が弱くなるわ、病気になるわ、嫌な人と付き合わなくちゃいけないわ、愛する人と別れなくちゃいけないわ、……それは現実に私たちが直面していることです。

 

渇愛に駆られて、物に執着して、面子に拘って、足を引っ張りあって、憎しみあって、争っているのです。ただでさえ生きるのは苦しいのに、自分たちでさらに苦しみを増やしているのです。

 

私たちは、ものに執着しています。しかし生まれた時には何も持っていなかったのです。身体も母からもらったものです。陰部を隠すハンカチ一枚も持ってこなかったのです。すべて借り物なのに。借りたものは丁寧に使って返してください。返さないぞと思ってしがみついても無駄です。返さないといけません。死ぬ時は何も持っていけませんから。だったら先に返せばいいでしょう。それができないのは、執着しているからです。

 

私の家、私の服、私の臓器、さえも成り立たないんです。髪の毛一本さえも自分の思い通りにならないんです。

 

我々は何も持たずに生まれてきたのです。肉体だけは借りて生まれたけれど、維持管理は大変です。苦労してメンテしても、レンタル期限が来たら返さないといけません。返したくないと抵抗しても無駄。余計に苦しみが増すだけです。

 

だからお釈迦様は、借りたものは必要な分だけ、大切に使うことを教えたんです。食べる時は身体を維持する必要な分だけ食べてくださいと。一切生命が幸福でありますように、と願っていただくことです。それが王子様的な、立派な生き方なんです。

 

それぞれの人々が、それぞれの違った能力を発揮して生きることが必要なんです。子供がみんなタレントになりたいと思ってタレントになったら、社会が成り立ちません。バラバラで多様性があるから社会が成り立っているんです。障害を持って生まれてくる子供も、社会に必要な存在なんです。なのに「あいつは変だ」と言って虐める。変わっているから虐めるというのは、頭がおかしい! 一人ひとりが変でなければ、社会が成り立たないんですから。親も子供に、そう教えないといけないんです。

 

「一期一会」というのは、同じものごとは一つとしてもない、一切は無常ということです。私も講演の前と後では別人です。ずーっと変化し続けています。一人のひとの右目と左目も同じではないんです。無常で変化し続けている、一つも同じものはない一切生命を「変だ」と差別するのではなく、生きとし生けるものに、慈しみを持って接することです。

 

生きることは大変なのことだ、なにひとつ「自分のもの」は成り立たないのだ、と理解して、執着せずに、お互いを心配しあって慈しみをもって生きること。それが「真理を喜ぶ」生き方なのです。(終わり)

 

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仏教は心の科学  (宝島社文庫)

仏教は心の科学 (宝島社文庫)

 

 〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

魔とその克服法~自分にとっての魔とは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)

『魔とその克服法 自分にとっての魔とは何か?』

 

日時:2012年9月23日午前 

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

主催:F.E.ヨガライフ協会

 

マーラ、悪魔、悪しき者などなど、世界中で「魔」という言葉を使います。日本語にも「魔が差した」 という言葉があります。これは、かっこいい用法だと思いますよ。普段なら自分はやらないだろうこと、なぜやってしまったか分からないことについて、「魔がさした」と言うのです。

 

宗教の世界では、神がいると必ず悪魔もいるのです。神は人間を慈しんで守るはずですが、その約束を守らないのです。神に守られているはずの世の中はすごく生き苦しい。身体はいくら面倒を見ても壊れてしまう。生命のなかでも、食べるものを見つけるのが難しいのは人間です。朝から晩まで働いているのも、結局は食べるため。私たちは、(神の恩寵ではなく)弱肉強食の社会に生きています。

 

人間は、やるべきでないことは喜んでやる、やるべきことは脅さないとやらない、のです。

世の中に悪いこと起きるたびに、なんでも悪魔のせいにすればいいから楽です。たまさかいい事があると神を讃える。不況になると世界経済状況のせい。好況になるとアメリカのおかげです。自分で責任取りたくないからだれかのせいにする。自分の努力・行為の結果とは言わないのです。

 

バチカンには悪魔学まである。イエスもエクソシストだった。私はそういう悪魔の話は真っ赤な嘘だと断言的にいうのです。「他人を指差したい」という悪い性格のために世界中に大量に悪魔の観念が生まれている。また、悪魔にも民族性があるようです。

 

悪魔とは、客観的に見ると誰にでもある「人のせい」にしたがる性格の産物なのです。

 

人間は誰でも失敗するのです。そこで「人のせい」にしないで、素直に謝ればいいのに。懺悔するという習慣があります。仏典では懺悔を厳しく言うのです。(他宗教は見えない神に懺悔する。それで性格が更正するのか。私は、人間が失敗したら造物主の神の責任でしょう?なんで人間が神にあやまるのか?と文句を言います。)仏教では短い法要文句にも懺悔が入っている。誰でも失敗するのですから、懺悔してまた前に進むことです。

 

……(ここのあたり眠気が出たので不正確^^;)

 

悪魔の十軍(スッタニパータ3章) 悪魔とは、やるべき事をやらないで不幸になる原因です。自分の精神的な弱味を指すのです。

 

仏典には神霊の悪魔も出てくるが、釈尊の邪魔(いたずら)する程度。

 

経典で釈尊と対話する悪魔は、俗世間の価値観を正当化する立場を代表しています(例:相応部マーラ相応など)。

 

釈尊は人生の表だけでなく裏を見なさいと言っている。現代的にいえば、原発が電気作って便利な事は否定しない。しかし事故起こしたらどうするの?廃棄物はどうするの?と。悪魔は人生の表だけを見て正当化しようとする。

 

ほんとうの悪魔は、私たち一人ひとりが持っている。ヤバイことしたら隠したくなること。喧嘩したらあいつが悪いと思う、「自分が正しい」と思う。それも相当、悪魔にやられてることです。人のせいにしたくなったら、自分の魔にやられてるのです。

 

自分の弱みを発見できないようにする心の働きが「悪魔」です。

 

世界一優秀な先生が教えても、子供が学ばなければ勉強できない。自分の弱みを発見することが学びです。「自分にはこれができない」と、自分の弱みを見つけて何とかしようと思うところから、「これをできるようにならなければ」と思うところからが学びの始まり。

 

人間にとって大切なことは、自分の弱みに気づくことです。人間はそれを却下するのです。我は正しいと思うのです。それに釈尊は「魔」という。「それで人生は終わりだよ。成長はそこでストップして、みるみる壊れて行くんだよ」と。

 

仏教ではすべては変化し続けるといいます(無常)。変化は二種類。向上か、堕落か、です。残念ながら現状維持はないのです。進むか後退するかしかない。なぜ、あえて後退する道を選ぶのか。それが魔です。皆さんは家族の誰よりも魔と仲良く生きている。だから脅さないと善いことをしないでしょう?

 

では、魔の克服法は? それは「つねに自分の弱みの気づきましょう」ということです。気づいたとたん、何とかしましょうという気持ちが起こる。

 

時々、「しょうがない」と思うでしょう?「しょうがない」というのは(自分の)魔が言っていることなんです。自分の性格に関しては、決して「しょうがない」と言ってはいけない。魔がはっきり「あんたは成長しなくていいんだよ」と唆しているのですから。

 

私たちは魔に負けっぱなしです。

 

でかい大脳あるのに、人間はそれをほとんど使ってない。人間にとって大脳が無用なら退化するはずです。人間の大脳が大きいのはそれが人間にとって必要だからなのです。

 

大脳に覆われた原始脳には考える能力がない。生きていきたいという衝動のみです。それで大脳にあれこれ感情を引き起こします。「生きていきたい」という渇愛と、それに反する(生きていけないという)情報への恐れ。生命はこの二つに支配されて生きているのです。私たちは対象を認識する時、まず対象を「敵か、味方か」と判断します。原始脳に理屈はない、データを処理する能力がないのです。頭がいい人間も、そうでない人間も、原始脳に支配されて生きています。だから、優秀な知識人も大量破壊兵器を開発するのです。ただ「敵を潰す」という原始脳の衝動で生きているのです。

 

核兵器も、「私は持ちますけど、貴方は持ってはいけません」という態度(核不拡散条約体制)。

 

原始脳は魔が住んでいる場所です。だから人間は何をやっても矛盾で終わるのです。根本的に、魔に支配されて、魔の支配下に生きているのです。ですから私たちは、渇愛に打ち勝たなければいけない。恐怖感に打ち勝たないといけない。「どうせ壊れる身体だ」と、肉体への執着を捨てるのです。原始脳の命令を聞かないことにするのです。

 

(*ヨーガをする人たちに向けて)「健康な身体はのために健康な心を」というのはアベコベです。なによりも健康な心をつくらなくてはいけない。身体のことは放っておくこと。どうせ壊れるものだよと。我々はビニール袋が欲しくて買い物するわけではないでしょう? やっていることが変ですよ。

 

美味しいもの贅沢を探し求めて寿命が縮む、病気になる。原始脳は理性がないから、刺激を求めて自己破壊してしまう。身体は機械・道具だと理解して、肉体への執着を捨てれば、身体は植物だから寿命までスムーズに使えるのです。

 

仏教の瞑想法は脳科学と一緒にしてはいけないのです。仏教は心というもっと大きな世界を扱っています。しかし、分かりやすくするためにあえて脳の構造で説明すれば、それは「原始脳の言うことを聞かないようにすること」です。そうすれば失敗しない。(瞑想で)悪魔を潰すんです。悪魔を折伏すれば理性がすべてを担うようになります。瞑想に成功した人の心には、欲・怒り・嫉妬は入らない。その代わりに慈しみが入るのです。生命に対して心配する気持ち、協力する気持ちが起こる。物事を貫いて見られる、ものすごい智慧が生まれるのです。

 

感情でやったことは99.9%まちがっています。比丘は何のために食べるのかと、よく理解して食べる。決して欲で食べない。そうすると一日一食でもからだを維持できるのです。

 

我々はなぜ、食べることで病気になるのか。そこには心の問題があるんです。心が悪魔に占領されているんだから、身体を維持するためではなく欲で刺激を求めて食べているから、食べ物によって病気になるのです。心を落ち着けて、悪魔に負けないようにすることです。自然の食べ物は、身体が受け入れます。悪魔が割り込むから、マズイと思ってしまう。子供はちゃんと自然のものも美味しさを見分けます。

 

(講演おわり。以下質疑応答より。助手をしたので、メモ断片的です。)

 

Q 日常生活の気持ちの変化とどう付き合えばいいのか? ある時点の気持ちの状態と一体化して、なかなか離れられない。

 

私たちは、ずっと楽しい気持ちでいたいと思っていますが、気持ちには波があるんです。嫌な気持ちになるのは嫌だけど、なってしまう。一生いい気分でいようというのは答えじゃないんです。そうではなく、気持ちの波は放っておいて、リラックスしましょう。変化し続ける気持ちを相手にすると、どうなるか分からない。感情が足枷にならないようにして、自分の気持ちはどうでもいいから、これをやりますと。やるべきことをやるのだと、自分を戒めることです。感情は自分で育てない限り、さっさと死にます。暗い気持ちになっても、「ちょっと待て」と放っておくと、その感情は死にます。

 

……

 

(依存症の恐ろしさについて)

 

私たちは、善悪の間で揺れる優柔不断によって助かっています。生き方が曖昧なうちは、まだ治療可能性があるんです。依存症の人はやりたいけどこれはマズいなぁ、と気持ちが揺らがない。悪いことに開きなおったような状態です。何があっても気にせずに、悪い方向に進んでしまう。その人は、人格向上のチャンスを失ったということです。悩んでいるうちは見込みがあるんです。

 

……

 

(時間配分について)

 

時間よりも大事なのは「優先順位」です。優先順位をつけたやることリストを作っても、時間がなくて一生やらない事があるかもしれない。それでーもOK。いますべき事をやっていれば、魔に支配されていないのです。人生は時計に操られるのではなく、優先順位に操られるべきです。

 

……

 

(人を判断するなかれ)

 

自分で相手のことをあれこれ判断する。それも魔の仕業です。基準は自分なんです。それで気持ち悪くなったり怒ったり嫌な気分になったりする。マナー違反の人を見ても、「自分の基準からしたらとんでもないことしてるけど、この人にもそれなりの理由があるんでしょう」と落ち着く。注意する場合も、判断して腹を立てるのではなく、相手の振る舞いを冗談・漫才にしてみることです。そうすると、相手の頭にも注意されてる内容が入るのです。感情で人を貶さないことはすごく大事です。他人は放っておいてください。嫌だったら、自分が避ければいい。人を判断するのは良くないのです。

 

(質疑応答 終わり)

 

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心を整える8つの脳開発プログラム

心を整える8つの脳開発プログラム

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

嫌いな人々の願い事が叶ってもいいのか/誰でも覚れるブッダの教え(スマナサーラ長老の法話より)

Q:慈悲の冥想に関して、私の嫌いな人々のところでひっかかる。嫌いな人々の願い事が叶えられますように、というと悪い奴らの願い事が叶ってもいいのかと……

A:もっと冥想続けると、生命をみる見方が変わってくると思います。そこで疑問が消えると思います。願い事が、というのはすべての生命が幸福に生きていきたいと思っている、その願いです。道を間違っているのはその生命の間違いであって、虫だろうが人間だろうが、幸せに生きていきたいと願っているのです。それが叶って欲しいのです。でないと死んでしまう。悪いことをしてしあわせになろうとしているのは勘違い。「こいつは嫌なやつだけど……」という気持ちで、「(この人の)願いごとが叶いますように」と念じるのは、この人が幸せの道を歩んでほしいということ。殺人計画をしている他人に「願い事が叶えられますように」と願うことは、「殺人が成功しますように」という意味ではない。その人は、殺人を犯すところまで苦しんでいるんです。その人が幸福の道を歩んでくれますようにと、慈悲の気持ちで観ると、嫌いな人も可愛いと思えてしまうし、心配する気持ちも生まれるのです。

殺人をしたいひとにとっての願いごとは、他人を殺すことではないんです。生命が本来願うべきことが叶えられますように。どうしても気になるならば、「嫌いな人々も、本来願うべきことが叶えられますように」と変えてもいいんです。でも慈悲の冥想は完璧な冥想だから、そのままやっても何の問題も起きません。生命が本来願うべきことというのは、たとえば、お腹が空いたらご飯を期待する。人間はただではご飯得られません。それは得て欲しいと。住む処、薬、着物など……生命が生きるために必要なものが得られますようにと。悪人はそれを得たくて、間違った道を歩んでいるのです。幼稚園の男の子が、友達にしたい女の子をいじめてしまうようなもの。正しい方法がわからないんです。人間は時々、目的に達しようとして、それと反対の行動をしてしまうんです。

生命が生きていくためには、基本的な願いごとが叶えられなくてはいけない。お腹が空いてご飯がなかったら、たいへんなことです。病気で倒れたのに治療を受けられないのは大変なこと。どんな生命でも、その基本的なことは揃って欲しい。そうやって大きなスケールで、「生命の願いごとが叶えられますように」と念じるべきなんです。

 

Q:「穏やかな気持ちで生きたい」と思っている。なぜか周りに宗教関係の友達が多い。「杯にうつった月」ではなくて、「本物の月」を観たいと思った。そこで初期仏教にであったが、本を閉じると実行できないジレンマ。心の安らぎを得るにはどうしたらいいか。出家しないといけないのか?

A:お釈迦さまはどちらかというと科学者、生命の科学者なんです。完全なる。釈尊は生命という尺度で見ている。(例:ヴァーセッタ経 人間は平等。ホモサピエンスの一種類)。人間の場合は行為だよと。人のものを盗む人は盗人であって、バラモンではない。煩悩なくなったら聖者だよと。男とか女とか出家とか在家とか関係ない。瞑想する人は人間であればOKなんです。でないと仏教は科学的にならない。私は年寄りだから、とかあり得ない。子供でもできますから。これは人間に語っている。医学の薬、日本人だけに効く、ということはあり得ない。人間なら誰にでも効く。ブッダの冥想も同じ。実践すれば成功するに決まっている。本人のやる気次第。やる気はおのおのの問題。出家とか形を取ったからといって何の特権もない。形を誇るのは科学ではない。ブッダは科学者がものごとも観るように、「あなたは人間だろう」という教えです。瞑想は厳しい世界。しかし車の運転は本で学ぶんでしょうか? 教習所で怒られながら学ぶしかない。泳ぎたければ泳ぎのプロから学ぶしかない。

欲をなくそう、怒りなくそう、渇愛なくそう、とか成り立たない。そこはプログラムがあります。思考妄想をなくす。精密なことは理解能力それほどないから、教えられない。悟った人は原始脳に負けないから、がんこ。アリ一匹でも殺せない。だったら私を殺して下さいと。それくらい頑固に道徳的な人間になる。心の回転を帰る。ちょっと無理をしないと成り立たない。

脳で説明する場合でも、成長には順番がある。こころの成長にも順番がある。それは当然のこと。怒りだけ無くしたいとか、欲だけ置いておきたいとか成り立たない。順番がある。まず、自我、私がいるんだ、という実感にヒビを入れないと。そこからさらに瞑想して、感情が無くなっていく。自我を破ることは自分で踏ん張ってやらないといけない。自我は脳がつくる錯覚。生存欲を維持するために必要な錯覚。釈尊がおっしゃっているのは、その錯覚を破るプログラムです。智慧が現れれば、あとは自然に煩悩が消えていきます。ぶつかってくる人は早い。

修行できない「いいわけ」も、渇愛がつくるんです。悟れるんだ、幸福になれるんだという希望だけは捨ててはいけない。できないはずはないんだと。(長老、スリランカで瞑想道場にこもっている僧侶から訊かれた。日本のような環境で何もできないでしょうと。)仏教はパンダやトキみたいな存在になってはいけない。保護された特殊な環境でしか実践できないということはない。ブッダというのはそんなちっぽけ教えですかね?

釈尊初転法輪のあとで、比丘はすべての人間の幸福のために歩けと命じられたのです。それがどうして「道場に篭れ」ということになるのかと。(例:プンナさんへの教え。仏教の伝道者への心構え。なんの執着も持たない自分は布教に行った先で殺されたとしても幸せだと……)

あれだからできない、これだからできない、というのは言い訳なんです。世の中にはそういうものもあります。アメリカ行ったほうが英語は身につきますが、科学はそうではない。生命科学はそうではない。自分が生きているんだから、それで充分です。

誰でも覚れるというのは、ブッダの教えにのっとった答えです。覚れない人は、実践しない人です。または、自分の迷信・思考にしがみついている人(邪見者)です。自分の固定観念、自分の思考は、ありのままを観察する仏教の修行には大きなハンディです。ですから、いつでも思考をペンディングにしてください。新しいデータが入ったら、自分の思考は改良しますと決めて、最終結論にだけは達しないでください。それで邪見の問題は解決です。それぞれ自分の考えがある。ペンディングにしてください。それで瞑想実践は大丈夫です。瞑想でそれまでの思考はひとつひとつ捨てることになります。あとは、親殺したひととか、ブッダを傷つけるとか、経典で「今生で覚れない」とされているのは、ふつうはあり得ないようなケースだけなのです。

(2012年5月5日 ゴータミー精舎法話と実践会Q&Aメモより)

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不 安 を 鎮 め る ブ ッ ダ の 言 葉
 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~