以前から気になっていたことですが、日本の知識人の間では、専門外であるにも関わらず、「仏教はオレがいじった方がもっとよくなる」といわんばかりに勝手に教義まで改変した「オレ仏教」を発明して、得意げに語るという伝統芸が継承されているようです。それって仏教を語っているように見えて、仏教という意匠を「俺様」の俗情をキラキラ飾るためのアクセサリーとして用いているだけだと思うのですが……。そんな微笑ましいインテリ自我増長踊りの好サンプルとして、最近刊行された本書を挙げたいと思います。
《ゴータマ・ブッダが、輪廻や解脱をまともに信じていたという証拠はどこにもない。》(74p)《ゴータマ・ブッダの教えをひと言で言えば、「勇気をもって、人間として正しく生きていきましょう」。ベタですけれど、仏教の主張はこうだと思うのです。》(76p)などと自説を述べる橋爪氏に対して、大澤氏はこう応じます。《橋爪さんの解釈は、魅力的ですね。ゴータマの思想の解釈として正しいかどうかとか、仏教思想の解釈として正しいかということとは独立に、橋爪さんが今の解釈の中に示されている思想は、生に対して肯定的で、とてもすてきだと思いました。》(82p)。「仏教思想の解釈として正しいか」云々よりも、「生に対して肯定的」であることが賞賛される。これこそ、日本において仏教がどこように消費されているかを端的に示す「ゆかいな」やりとりだと思います。
まともに読むのもアホらしい本書ですが、とりあえず次のくだりは失笑ものです。《無常とか輪廻とか苦とか、仏教を修飾しているいろいろな基本概念とされるものは、[仏教にとって付随的なものにすぎないので]取り外してしまえると私は思う。何故かと言えば、仏教はドグマでできていないからです。》(115p)だったら、どんなデタラメだって「仏教」として語れますよね? じっさい、
橋爪大三郎氏は
キリスト教を扱った『
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)』では、聖書のみに準拠して
キリスト教を語ったことで各方面から激しく批判されました。『ゆかいな仏教』では仏典には一切準拠せず、「自分がブッダになって新たな仏教を語る」という奇策によって、関係者の批判を回避しようとしたのかもしれません。
本書を読んだある書店員さんは「今の「仏教」は、随分と誤解されている」と述べていましたが、そうではなくて、《今の「仏教」は誤解の産物》というのが橋爪
仏陀の主張なのです。つまり、ブッダを理解するために仏教は不要というわけです。ここまで来るともう
大川隆法の「霊言」と何が違うのか分かりません。
『ゆかいな仏教』に戯画的な形であらわれたような、仏教の本筋からずれまくった珍妙な言説を懲りもせず育んでしまう近代日本の思想風土について、拙著『
日本「再仏教化」宣言!』で分析・批判を試みています。このレビューを読んでモヤモヤした方は、お読みいただければ幸いです。