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スマナサーラ長老 名古屋「花祭り」法話より

去る4月18日に名古屋市笠寺の日本ガイシフォーラムで開催された名古屋初期仏教デー「花祭り」のスマナサーラ長老ご法話メモです。twitter実況をもとにちょこちょこ直しました。長老が語る「お釈迦様の誕生をお祝いする意味」とは?



※東海ダンマサークルのGさんが写真を送ってくれたので、差し替えました。長老の笑顔が素敵デス。


スリランカでは西洋のバレンタインや母の日をからかう歌があります。好きになったら勝手にくっつけ。一年中、家族を慈しんでいる母親を一年に一回だけ感謝するなんて、人間らしくない。お前らは猿かと。西洋のものは何でも有難がる日本とは違ってちょっと辛口なんです。


人間は意味のあるお祭りだったら忘れてしまう。花祭りはお釈迦様の誕生を祝うお祭り。それをすっかり忘れてクリスマス祝うってどういう事ですか?いまはお寺でもクリスマスをやっていますからね。人間とはいかに阿呆らしい存在かと。


祭りの特色は、意味がないほどいい、ということです。意味がないと妄信でどこまでもできる。意味のある事はやる気がでない。スリランカのウェーサーカでも、仏教と意味のない尾鰭の仏教と無関係のないオマケをどんどん付け加えて、お釈迦様が消えてしまったのです。


昔はウェーサーカはお寺で八戒律を受けて修行する気持ちいい日でした。いまは若者が音楽大会を開いて恋の歌を絶叫する。いまはウェーサーカはお寺にいく日ではなく、仏教と無関係な事だけをする日になっています。


そういう社会現象には裏があります。無意味な事、迷信的な事なら人は病み付きになるのです。表面的、物質的には社会は進歩しているようだけど、精神的には人間は退化していくのです。それは余談なのでおいときましょう。


釈尊が誕生された時、世界が喜びに包まれたのです。動物たちも心にある死の恐怖心がなくなったのです。梵天、神々も喜びました。そういう伝承があるから、ブッダの誕生日は争いを止めて皆が仲直りをしよう、喧嘩は忘れて、人間は和合して仲良くお祭りしましょう、という日になっています。


これは「宗教の祭り」ではないのです。キリスト教のクリスマスは家族が一緒になる日です。イスラム教ラマダンでは、イスラム教徒以外は追い出します。聖地メッカも異教徒立ち入り禁止です。いわゆる宗教には、人類皆で和合しようという発想はないのです。他人から自分を隔離して排他組合作ろうという思考でいるのです。


日本でやっている先祖供養も「自分の先祖」だけが対象です。神社のお祭りも西洋人なら喜んで受け入れるけど、あれは宣伝のためです。祭り自体を開いた訳ではなく、なおさら隔離しているのです。


仏教はそういう隔離思考を破ろうと挑戦した。でも、意味があることを言っているのだから、仏教は嫌われますね。


釈尊が生まれた時は、人間も神々も動物も安らぎを感じたのです。注釈書では、地獄の炎までしばらく止まったと書いています。なぜそこまで言うのでしょうか? 人間が和合して仲良く生きることが、人としてあるべき生き方だからです。


他人に少しでも良くないことをしたら、それがどんな結果を出すか分かりません。因果法則で雪だるま式に悪い結果をもたらすのです。その危険から人間を守ってあげるために(人間のあるべき姿を思い出させるために)、ブッダの誕生をお祝いするのです。


人間は輪を広げるためのきっかけを作らなければいけない。俗世間の祭りは「仲間の輪」を固めて他者との壁を高くしようという発想ですが、仏教は逆なのです。スリランカでも、ウェーサーカになると社会の壁がなくなるんです。他宗教の方々も参加する。宗教を押し受けることは一切ありませんから。


よく考えれば、釈尊の誕生以外に人類こぞってお祝いするべき人はいないんですね。お釈迦様ほどの方というのは、人類に一人としていないのです。釈尊のお祭りする事で、お釈迦様の教えの意味が蘇ってくるんです。人間のあるべき姿、お釈迦様の偉大さということが。


お釈迦様は生まれた時から「変人」でした。変人というと現代では良くないイメージですが、世の中を変えるのは変人なんです。従順な人は何一つ社会に貢献しません。壁に囲まれた社会に変人が現れて、壁を崩して、澱んで溜まった水を流してあげるんです。


釈尊は生まれた時に一人で立ったという伝説があります。その「意味」は何でしょうか? それは、人は誰かに頼って「立たせてもらう」もののではない。「一人で立ちなさい、自立しなさい」という意味なのです。釈尊が生れてすぐに七歩あるいたという方向は北です、インドの言葉ではウッタラ。これは「清らか、聖なる、超越、進んでいる」という意味なのです。


去年も言いましたが、釈尊は立って歩いただけではなく、喋ったとされています。有名な天上天下唯我独尊というくだりですね。その続きに、「これが最後の生まれだよ、もう二度と生まれ変わりません」ということも述べています。


天上天下唯我独尊」というのは、決して傲慢な態度ではありません。これは、釈尊の「しまった!」という気持ちのあらわれなのです。生命のトップとして生れてしまったのだから、自分が生命みんなの面倒みてあげないといけない。責任重大です。釈尊には、助けを求める人を誰一人も見捨てられない。これは常人に背負える重荷ではないのです。


釈尊がいかにすごい責任を背負って生まれてきたかと。しかし、その責任を果たしましたからね、しっかり。それも私たちへのメッセージなんです、自分の責任をしっかり果たして生きろという。責任果たすのは楽じゃないんです。でも、それを果たすことが人間の生き方なんです。


責任を果たす生き方というのは、お釈迦様が仏教徒に最初から求めていることなんです。釈尊の父王はどうしても釈尊に王様になって欲しかったんですね。いくらでも贅沢させた。でも権力があっても金があっても、生命の苦しみは無くせませんから。これは私がやらなくては誰がやるんだと。


「変人」だった釈尊は全てを捨てて、自分にしか果たせない責任を果たすことにしたのです。釈尊の生き方に「常識」というのは無かった。あれだけ大胆な説法をしたならば、社会から反発されて潰されるでしょう、殺されるでしょう。でも誰もお釈迦様に手を出せなかった。


それは釈尊の奇跡なんです。奇跡といっても本当は不思議なことではない。真理の力なんです。人間ブッダを調べても、たまげたなぁ、この人は、ということになるのです。


学べば学ぶほどブッダにはビックリさせられます。釈尊の事を念じただけで心清らかになります。自分も捨てたもんじゃないと思えます。釈尊は 「自分で立ちなさい、成長へと歩みなさい」と我々を励まして下さるのです。(おわり)

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