日本仏教の多様性とは?


現在の日本仏教を擁護する人々は、口癖のように云う。


仏教が日本の文化や風土のなかで変化して現在の形になったことを是認しなければならないと。


日本仏教の独自性は、それ自体肯定されるべきであると。


「教えの正統性」云々を言い立てて日本仏教を批判すること自体がおかしいと。


このような言説は、最近日本で活発化している上座仏教(テーラワーダ仏教)を意識したものだろう。


テーラワーダ仏教は、釈尊の教えを忠実に守ってきたという「教えの正統性」を自負しているからだ。


しかし、日本仏教の独自性や多様性を擁護しようとする彼らは肝心なことを忘れている。


それは、現在の日本仏教の独自性と多様性が、まさにその「教えの正統性」をめぐる侃々諤々*1の論争によって形作られてきたということだ。


既存の仏教に対して「教えの正統性」をめぐって堂々と議論することは、それ自体が日本仏教という大河の流れをただしく継承する営みなのである。


日本仏教の独自性と多様性は、「日本仏教の正統性」を不断に問い続ける運動によってのみ保たれ得るのだ。


そういう見方に立てば、現代日本のテーラワーダ仏教は「結果としての多様性」にしがみつく伝統宗派よりもはるかに、「運動としての日本仏教」の本流に位置していると云っても過言ではないだろう。

*1:四文字熟語の誤用を直した。×喧々諤々→○侃々諤々