人生の判断基準/地獄に生きる現代人

午後からスマナサーラ長老のM社単行本関連のインタビューに同席。夜はパティパダー原稿作成の続き。収録中、長老の次のお話が印象に残った。簡単なメモから思いだしたので細部はかなり怪しいが、大意はこんな感じだった。

  • 人生の判断基準

人は若いころから、道徳的な生き方に慣れることが必要です。(若者は未熟だから)目上の人の話をよく聞くことのできる、「柔軟性」のある性格を育てることが大切になります。でも、人の話をうのみにしてはだめなんです。世の中では、人の話に安易に乗ったらひどい目に遭う場合もあります。そこで、判断基準というものが出てくるんですね。それは「罪を犯さない」ということ。いつも真面目にしろ、遊ぶなよ、という堅苦しい話ではないんです。罪だけは犯すなよ、ということです。

何をする場合でも、罪を犯すはめになるものからは離れる、ということを判断基準にしておけば、自己破壊にならずに成長することができます。「この人の話はすごく面白いけど、乗ってしまったら自分は罪を犯してしまう。そこは気をつけよう」と。それで自分が守られます。

そうやって若者が成長して、社会に出る段階で自分に適した仕事を探すのです。選ぶ判断基準は、やりたい仕事、ではなくて、自分に適した仕事です。仕事というのは、社会がその人の適性を見て、「ではこれをやってください」と決めるものです。いくらその人が「やりたい」からといって、能力もない人が仕事をすることになったら、社会の迷惑です。

仕事を決める場合にも、もう一つ判断基準があります。それは、その仕事が道に外れていないこと、です。収入で仕事を選ぶものではないのです。いくら高収入でも、道に外れた、犯罪の片棒を担いだり、詐欺や不正にかかわったり、そういう道に外れた仕事で収入を得てはいけないのです。そうやって、正しい仕事で収入を得て、配偶者や家族を養うこと、両親の面倒を見ること、それが社会人の正しい生き方なのです。

  • 地獄に生きる現代人

現代社会は親の思考も、子供の思考も矛盾だらけです。

子供の成長というのは親にとって喜びのはずでしょう。でも、いまの日本では、子供がある年齢になると、親は子供に脅えるんですね。下手なことを言ったりしたら殺されるんじゃないかと。地獄に堕ちることを心配しなくても、私たちはもうとっくに「地獄」に生きているのです。

昔の人々が想像で描いた地獄絵図があるでしょう? あそこで地獄の住民を苛めているの鬼たちは他人ですからね。いま私たちが生きている日本では、子供が親を殺したり、親が子供を殺したりしています。赤の他人の鬼に殴られたり殺されたりすることと、自分がお腹を痛めて、苦労して大切に育ててきた子供に暴力をふるわれたり、殺されたりすることと、どっちが辛いでしょうかね?

家庭内暴力で母親に重傷を負わせた息子を、寝ている間にバットで殴り殺した父親の話を聞いたことがあります。昼間荒れ狂って母親に重傷を負わせた息子を殺そうと、バットを持って寝室にあがって、でもすやすや寝ている息子の顔を見たら、愛情が湧いてきて、もう殺意なんか消えてしまったんだと。でも、私はそれでも息子にバットを振り下ろしたんだと。突然襲ってきた赤の他人の暴漢をやむなく殺してしまった人の心と、愛する自分の息子を殺すことになってしまった親の心と、どちらの悲しみ苦しみが深いでしょうか?

現代の私たちは、昔「地獄絵図」を描いた人々が想像もできなかった恐ろしい地獄を、人間の世界に作り出してしまっているんです。それもすべて、アベコベで矛盾だらけの思考から生まれた苦しみの世界なんです。

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