通俗仏教史観への疑問

id:touryuuanさんが中山正和氏(勝間和代氏「三毒追放」の元ネタ)の仏教史理解に絡めて書かれたエントリ、

をきっかけとして、はてな界隈で仏教史や宗教語りに関する議論がほんのちょっと盛り上がっている。

あたりがブクマの多いエントリだが、これに呼応する形でid:uumin3さんが

 Brittyさんが「仏教って知られていないよね」という記事を書かれてました。この日記では今までおおよそ80日ぐらいの宗教関係記事がありますが、まあ一度書くとなかなか繰り返しはしないもので、結構その時限りになってしまってるかもしれないなあと思います。しばらくサボっていたもので、肩慣らし(になるかどうかわかりませんが)いくつかサルベージしてアップしてみたいと思います。

と前置きして「仏教の流れ(20050719)」のタイトルで大乗仏教中心の仏教史を概説している。

いかにも古い。

内容はリンク先を参照していただくとして、私は以下のようなコメントをしておいた。

こんにちは。私はこういう仏教史概説にずっと違和感を持っています。客観性を装っていますが、所詮は大乗仏教の立場で書かれていると思うからです。「小乗と表立って呼ぶのは失礼だから上座部と呼ぼうね(中身は小乗だけど)」という感情が透けて見えるからです。私の立場がどうというより、学問やる人がそういうフェアじゃないモノイイでいいのか?というモヤモヤがあるのです。大乗仏教の主張について「小乗」サイドはどう捉えているかということを付記しなければ、公平な仏教史概説とは到底いえないと考えますがいかがでしょうか?

一例を挙げれば、「自利利他」という教えは既に初期経典(パーリ・ニカーヤ)に説かれており、伝統的な仏教徒の基本的な生き方です。大乗では「絶対利他」という風に利他主義を観念的に肥大化させていきますが、「自利利他」を説いた伝統仏教を「自利主義」と貶めるのは大乗側の偏見でしかなく、それをコピペするのはフェアではありません。

参考文献に挙げられている1980年代頃までの文献は、書いている研究者にもその辺の自覚が乏しいです。批判的に使わないと宗派的偏見やウソのコピペ再生になります。(大乗仏教の相対思想自慢ではなく)仏教全体を相対的に位置づける立場の研究は、最近になってようやく概説書レベルに降りてきました。それにしても、古い見方をコピペする怠惰な本と混じっていますので、全体のレベルが上がるまでにはまだ時間がかかると思います。

あくまで上座仏教サイドからの批判ですが、以下のエントリを参照にしていただければ幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20050104/p1
小乗仏教というモノイイについて
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20060517/p1
阿羅漢をめぐる大誤解
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081216
大乗仏教在家起源説という白日夢/仏教理解の逆さメガネ

これまでも繰り返し書いたような内容だが、「三毒追放」がそうであったように、コピペで浸透していく俗説に対しては、正す側もそれなりにマメにコツコツ情報発信を繰り返していかないと間違った意見が浸透してしまう。一回決め打ちで言えばそれで完了ということはないのだなと実感したもので。

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)

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日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

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わかる仏教史

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大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史

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