月例講演会『ブッダの「ユーモア」活性術〜「笑い」は苦しみの即効薬〜』

14:00からスマナサーラ長老月例講演会のPC操作助手。会場はオリンピック記念青少年総合センターのセンター棟4階にあるセミナーホール。定員が300名と多かったため、入りが心配されたが、ほぼ満席。AV設備も整っていて申し分のない会場だった。競争率高そうだけど今後も使えればいいと思う。


以下、W-ZERO3 esでタイプしたものに加筆したメモです。参考まで。

『ブッダの「ユーモア」活性術〜「笑い」は苦しみの即効薬〜』
アルボムッレ・スマナサーラ長老


今日取り上げるテーマは仏教の世界ではほとんど扱われなかったものです。
仏教が悲観的で暗いというのは偏見です。
「生きることは苦」というのは事実です。
人生は誰にとっても、楽なものではありません。
なぜその事実を否定するのか、といえば、「無知だから」です。
ブッダは「無知を破ってありのままの物事を語りましょう」という態度だったのです。
ブッダは真理を面白く語っていたから、人気があったのです。
難しい話をなぜ大勢の人が理解したのでしょうか?
お釈迦様の気楽さに秘密があるのです。


世間のユーモアはほぼ無駄話

世間のユーモアは、役に立ちません。
しかし、社会、人生の問題などをネタにして笑い取る才能ある人の場合は、一概に無駄話と言えないのです。
そのまま言うと面白くない、誰も興味持たない事柄でも、プレゼン技術で笑いを取りながら面白く学べる。
腹が立つことであって、怒り憎しみなく、ニコニコと問題を理解できる。
そのように、生きる上で役立つ(苦しみ和らげる、問題解決する)笑いは無駄ではないのです。
無駄話は危険。不幸になります。あらゆることから学べる頭よい人以外は、有意義に時間使えるように気をつけるべきです。

品格ない言葉をうまく使用することで笑いを取る人もいます。下ネタなどありますね。
常識はずれであることにみんな笑うが、役には立たないのです。


仏教で見られるユーモア

仏教が語る内容は一般的に人が考えない、発見しない、常識範囲超えた真理です。
柔らかく、順を追って、丁寧に言わないと聞く人が付いていけない。
伝えるための語り方(teaching method)があるのです。
仏教から教育学的に学べることはたくさんあると思います。
ブッダ自身、最高の師であると自認していました。
仏教のあらゆる神通、よりも素晴らしい能力は「教える能力」であると。
また、学ぶと同時に楽しみ、喜び、充実感がないと脳は開発されないのです。
喜びがないと脳が成長しないのです。
だからでしょうか?俗世間では、教育もスポーツも地獄の世界を作っています。
ひとかけらも楽しみがない、能力を退化させる要素のみ詰め込んでいる。
それでいて、仏教に悪口を言うのですね。

面白くてたまらない、という風にならないと脳は成長しないのです。
物事を理解するために覚えておくために、楽しみという要素が必要です。

さらに、「役に立つ」と解ると学びたくなるのです。
プロになるとその分野について楽しく学ぶ。
役に立つと解れば、誰でもやるのです。
子供にとって数学は役に立つか解らないから、面白くないのです。
だから時々、数学の選手権・試合をしたりして、強引にでも役に立つ場面を作らないといけない。


笑いは狙いではない

仏教では、笑いを取ることは目的にしません。人を育てることが狙いです。
「仏教は、笑いを狙っている、論理・理屈広めようとしている、饒舌であることを知らせている、論争を好んでいる」などと言われると、それはブッダとその教えに対する根拠ない非難だとしたのです。侮辱、冒涜であると。

(AN IIIより 引用)
「比丘達よ、聖なる戒めにおいては、歌は鳴き声のようなもの、踊りは狂気になったようなもの、長い時間音をたてて、歯を見せて笑うことは幼稚になったようなものです。従って、君たちは歌を止めなさい、踊りを止めなさい。真理を理解することで起こる微笑みだけで十分です。」
※ここで、笑いを止めろとは言っていないでしょう?歌や踊りは止められますが、笑うことは止められません。それを知っているから、ブッダは「品格持って笑いなさい」と教えるのです。


ほほえみは絶えない

悩んだり、苦しんだり、怒ったり、攻撃したくなったり、落ち込んだりするべき理由が仏道の人には存在しない。
一切は無常であると知っているからです。
善いものも悪いものも一時的で瞬間に変わる、消えると知っているのです。
だから気楽に生きています。微笑みと明るさだけが残るのです。
世の中のことは喜ぶにも泣くにも値しない、と知っているのです。
無常を発見したのはブッダだけです。
他宗教の人は「永遠」という邪見にとりつかれています。
永遠の地獄におびえています。
永遠などあり得ないのに。


無常たる現象に執着しない

仏教は、「執着は不可能」と知っているのです。
現象に執着することは、シャボン玉を持って帰って家の置物にしようとするようなものです。
執着しないで瞬間瞬間を楽しめばいいことです。
世の中を見ると、一時的なものに永遠のごとく執着して苦しんでいます。
この愚かさと自分たちの精神的安らぎを比較すると、微笑みが自ずから現れるのです。
仏教から世の中見ると、金がかからずに笑えます。


経典に見られるユーモア
ブッダは優しく楽しく面白く語る。


誹謗中傷されたとき

braahmaNa saMyutta, akkosaka sutta
あるバラモンが(仲間が出家したために腹を立てて)釈尊に言いたいだけ非難、侮辱、誹謗中傷した。
彼が疲れ切るまで沈黙守った釈尊がこのように語ります。

ブッダ「貴方はどう思いますか?貴方の家を親戚か客が訪ねたとしましょう。あなたはごちそう作って接待しますか?」
バラモン「はい、そのようにします。」
ブッダ「もし来る予定の客が現れなかったらあの食事をどうしますか?」
バラモン「ごちそうなので、私と家内、子供で食べます。」
ブッダ「いま貴方は誹謗中傷…などの接待をしたが、私は残念ながら受け取らないので、みなさんで食べてください。」
※これはただのユーモアではなく、自分の言った呪詛の言葉をバラモンがそのまま受けたことになるのです。

怒りに怒りで、…返したならば、それが接待を受けたことになる。
だからこれらの非難はあなたのものになるのですよ、と。

怒りに怒りで返したならばその方が罪は重いのです。
怒りに怒りで返さなければ両者の役にたつことをしているのです。

結局、このバラモンも本人が出家して終わったのです。


業について

どんな経典にもユーモアあるので選ぶのたいへんです。

ジャイナ教徒のgaaminiiにブッダが聞く。
ブッダ「あなたの教祖様はどのように信徒たちを躾しているのですか?」
ガーミニー「教祖様はこのように説きます。もし人が殺生…(などの罪)を犯すならば、必ずみな地獄に堕ちる。なぜならば人はたくさん習慣的に行う行為によって導かれるからです、と。」
ブッダ「たくさん行う行為によって導かれるとする言葉が正しければ誰も地獄に堕ちませんよ。誰かが昼か夜か…殺生するとして、殺生する時間としない時間と一日の中でどちらが長いですか?」
ガーミニー「殺生しない時間がながいっす。」
ブッダ「だったら、彼はたくさん殺生しないでいるのだから地獄に堕ちないよ。」

※長くする行為によって地獄に堕ちるという理屈を崩してしまった。ニガンタ(ジャイナ教)は道徳を教えたいのだが、逆のことを言ってしまっている。邪見者である。

つまりこういうことです。
間違った意見はずっと持っているものです。行為はその時その時に行うものです。人は自分の「意見」を24時間持っているのです。
多数の行為が結果を出すという教えは、正しいのです。生命は瞬間瞬間、行為して結果を出しているのです。
しかし肉体の行為としての殺生は瞬間です。その悪行為のバックグラウンドでずっとはたらいている見解が重要なのです。
ジャイナ教はそれを解っていなかった。
ブッダは、「邪見を持つ人は直行で地獄か畜生に生まれる」と言っています。
それは間違った意見を捨てない限り、(邪見を持ち続けた心のエネルギーによって)地獄に墜ちるということです。

それからブッダは、ガーミニーさんに、悪をなくす方法を教えてあげます。
まず悪いこと止めて、慈悲の瞑想するのです。
それは無量の善行為です。
それまでの「有量」の悪は、「無量」の善行為によって無効になってしまう。
そのように聞くならば、理性あるならば、人は善行為の道を歩むのです。
地獄に堕ちるぞと脅す宗教はかっこわるいのです。


反論された時

同じくガーミニーさんが聞きます。
ガーミニー「釈尊は一切生命に憐れみを持っているのでは?」
ブッダ「はい。」
ガーミニー「ではなぜある人々に詳細に説法するが、ある人々に省略するのですか?」
ブッダ「上等な畑、中レベルの畑、農耕難しい畑、耕す人はどちらを丁寧に耕しますか?」
ガーミニー「上等の畑ですよ」とガーミニーが自分で答える。
ブッダは、仏道に命懸けている出家に最初に説法します。
次にブッダを信じて頼る在家者に説法する。
邪教の人々にもたまたま話す。ブッダの話を聞いて、微塵でも心清らかになるだろうという慈しみで。
そういう結果を見て、優先順位をつけるのです。


お笑い芸人の質問
芸人「嘘でも、本当のことでも、何でも語って、踊って、舞台で人を笑わせることは尊い行為です。ですから笑い芸人は笑起天(pahaasa)に生まれ変わると師匠たちに教わりました。」
ブッダは回答を断ってことわって、三度目にやっと答えた。
ブッダ「そんな天国ありやしません。人の心を喜怒哀楽で汚すと「笑われる(pahaasa)」という地獄に堕ちます。」


全知全能の神
人が経験する一切の感覚、苦であれ楽であれ、不苦不楽であれ、すべては神の創造より生じるのだと説く人がいます。
それなら、殺生も盗みも…邪見も神の創造でしょう。創造論を言っただけでも、一切の道徳はなくなります。創造論を信じると、人は努力する必要がなくなる。大乗仏教の一部で、念仏唱えれば浄土に行くとか、お題目唱えれば云々、というのも同類です。
邪見を持った人がどこに行くかは、私に訊かないでください。お釈迦様に聞いてください。
一切の創造論否定したところで、一切の創造論紛いも否定されているのです。


哲学者に
あるバラモンが、私は人に自由意志はあると思わない。また他の意志で生きているとも思わない。(生命に対する自作、他作論の否定)と釈尊に告げる。
ブッダ「あんた、自分で歩きながら、座りながら、何を言っているのですかね?」


在家も負けません
nakula夫妻 仲良し。夫が病で倒れた。妻いわく、「あなたは未練を残したまま死んではならない。そのような生き方では不幸になるとブッダは忠告している。心配しなくても、私は一人で生計をたてられます。梵行しているから再婚もしないし。あんたがいなければ、なおさらブッダに、サンガに会いに行きますよ。………」こう言われると、夫の病気がたちまち治ってしまう。
なにごとも執着するべきものはないと解ると、急激に心が清らかになって心のエネルギーが高まるのです。
妻の言葉でナクラさんもそれに気づきました。
「よくできた奥さんでしょう」と、釈尊も賞賛するのです。


神々に頼る人々へ
神々の王たる帝釈天が出かけるため車に乗る前に四方八方に礼をする。
運転手の神が、「神々の王たる貴方が礼しているのはどんな威徳ある方か?」と聞く。
「在家で善行為する道徳守る、また如法に家族を養う人々。私はその人々に合掌するのだ」と答える。
※神に頼るなかれ、ということです。道徳的な生き方して心清らかにして、清らかな心の波動を出して、神々を助けてあげないといけない。
そうすると、神よりも威力があるのは誰でしょうか?


息子に捨てられた父に
財産をもらった四人の息子たちに、父親が捨てられた。
乞食になった老人が、ブッダに悩みを明かした。
ブッダは老人に乞食用の歌を作ってあげた。
「杖は凶暴な犬も牛も追い払ってくれるよ。自分が愛情を注ぎながら育てた人間に隠れた息子たちより役に立つよ」という歌詞でした。
公で物乞いするとき、その歌を歌うようにアドバイスした。
息子たちの性格が皆にばれてしまった。
社会の批判を浴びては生きられないので、息子たちは父の面倒を見たのです。


内心は明るく
生きるのは大変です。成功より失敗は多い。
客観的に見ると何でも面白い。
人の尊厳、プライドを大事にするならば、何が起こっても笑って生活できるのです。
仏教は、笑いに溢れた、品格ある世界なのです。
はい、今日はここまで。


Q&Aより
心が汚れる一番の危険は意見にしがみつくこと。
人間だからいろいろ意見持っている。
どんな意見も無常だから、しがみつくものではない。
心清らかにしなければならないというのは、「意見」ではなく経験で解ることです。


チベット危機に関する平和的全面解決を求める日本政府に対する公開書簡への賛同者を募っています。立派な提言だと思います。私も呼びかけ人に加わりました。ぜひご協力を!

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜