子供たちの祝福/ダンマパダ講義

午前中はK会長とYさんご両家合同で、お孫さんたちの祝福法要。夫婦ともどもご相伴に与った。子供たちの声が精舎に響いて、何とも気持ちのいい法事だった。お坊様方へのお布施の後、岡山でおめでたい席に出されるという「まつりずし」と、スリランカ料理を一緒にいただいた。寺猫ナミも嫌がらずに子供たちの相手をしてくれた。

14:00より、スマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義。
今日は第70偈(愚者編)。例によって僕の鳥頭フィルターを通したメモ。行(ぎょう)と道徳(人格向上)との関係について詳しく述べられています。

maase maase kusaggena baalo
bhuJjetha bhojanaM na
so saMkhatadhammaanaM
kalaM naagghati soLasiM(Dh.70)

愚者が毎月一回だけ草の葉先につけて食べ物をとったとしても(極限的な苦行をしても)
彼は悟った人(法を体得した人)の16分の1にも及ばない(何の価値もない)。(Dh.70)

  • saMkhatadhamma:無常を自分で悟った人。人間は滝のように止まるものではない。瞬間も自分というもの成り立たない、と心底理解する(最低、預流果にでも達している)こと。
  • インドの表現:ちょっとでも価値ある場合は4分の1、16分の1は何の価値もない、ということ。(「二束三文」というくらい?)
  • 極限的な苦行よりも、修行さえいらず、法を聴いて理解すれば達せる預流果の方が比較にならないほど優れている。
  • 行と道徳
  • 何万回題目・念仏唱えても、人格的に立派な人間にならない。行と道徳は一緒にならない。行をしても道徳的な成長に繋がらない。
  • 行にしがみつくと心が変わらなくなる。行・しきたり・儀式が優先になる。行にこだわって、心にアクセスすることを拒否する。性格が悪くなる。直らない。
  • なぜ人間は「行・しきたり・儀式」が好きなのか? それは自分が「痛くない」から。自分を治すことがないから。自分を治すこと(こころを治すこと)はけっこう痛いプロセスです。それを回避できる。
  • 自分を治すのはそんなに楽ではない。そんな苦しいことしたくない。だから自分を放っておいて、カレンダーどおりに儀式をやった方が楽なのです。
  • 行と道徳は一緒にならない。しかし理性ある人には、行を性格を治すために使うことが出来る。
  • 理性が入らない「行」、形而上学的な「行」には何の意味もない。
  • 質問:たとえば「毎朝一時間坐禅する」というのはどうか?
  • 答え:坐禅は心を育てるためにやっている。理性が入っている。時間を決めると行にはなるが、理性に基づいた行は人格向上に使える。ただ行だけやっても道徳に影響ない。
  • 例えば……自分が怠け者である、三日坊主。何とかしたい。それをやめるために毎日早朝に決めて何か「行」をやる。その場合、自分の怠け癖を治すためだから、道徳の世界に入ることです。
  • そういうことで、「行」をする場合も何を「行」するかと選ばないといけない。どんな行でも人格向上するわけではない。
  • 毎日10万回呪文を唱える。そこには何の意味もない。その代わり、10万回「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えることには意味がある。一切生命の幸福を念じることは、生命の法則にのっとった理性的な行為。だから、実践すれば人格を完成する。10万回唱えるなら何を唱えるか選ばないといけない。「天にまします我らの神よ」と唱えても意味がない。そんな神などどこにもいないのだから。
  • 仏教は苦行に反対だが、その仏教にいろいろ「行」があるの。
  • それは世の中に無数にある「行」のなかから、理性的な「行」、人格向上のために直接影響ある「行」だけを選んだもの。
  • 例えば昨日解説した13頭陀行、14身念住など。しかし墓場で死体を観る瞑想など、現代ではできない。(現代はお墓は見栄の世界。葬式もただ「行」だけで、悲しみを演じる世界になっている。)
  • 仏教伝統のなかのいくつかの行は実践出来なくなっているが、新しい行も作れる。
  • テーラワーダ仏教では消えた古い行の代わりに新しい行を作っている。
  • たとえば、数十万人規模で集まって、一斉に「慈悲の瞑想」をする「行」もある。テーラワーダではどんどん時代に対応して、人々が参加できるような新しい行をつくっている。向こう(スリランカ)の仏教の「行」は五年ごとに変わる。効き目がなくなったら新しいものを考えてやる。ブッダの教えはしっかりしているから、「行」の目的はあくまで「こころ清らかにすること」「人格向上すること」です。でも人々はなかなかそれを実践してくれないから何とか工夫しようと、試してみる。
  • 決して、「行・しきたり・儀式」はひとり立ちさせない。土台に仏陀の教えがあるから。「行」は賞味期限が切れたら崩れるものです。
  • 「行・しきたり・儀式」は「道具」です。道具は拝むものではない。道具として使えなくなったら捨てればいい。包丁などの道具が切れなくなったら捨てるのと同じです。
  • 何か行・規則を決めても、うまくいかなかったら変えればいい。しかし世間では、宗教的儀式・行は変えられない。
  • 例えば、密教のお寺が「護摩供養やめてください」と言われて止められますか? 止められない。護摩供養で人格向上することが目的なら、代わりのものを提案できる。しかし、そうじゃないから、決まった儀式を止められない。儀式を止めたら何も残らなくなってしまう。
  • 日本のお坊さんもお寺で何か新しいことしようとするが、土台に教えがないから、一般人がやるように「じゃあ、お寺でロックコンサートでもやるか」ということになる。そうすると音楽の方に入り込んでしまって目的を失う。ただ一般人も、音楽を聴きにお寺に来るだけで終わる。
  • 現代的な「行」は日本のお寺でも考えているが、伝統的儀式にも、新しく作るものにも、(教えという)中身がないのが現状。
  • やはりしっかりとして、人格的向上に繋がる教え、真理が必要。それがないと何をやっても無意味・無駄。
  • 例えば4月8日の「花祭り」をお祝いするのはいいけど、ただ花御堂を作って誕生佛に甘茶かけるだけだったら、ただのくだらない儀式・儀礼になる。そうではなくて、「花祭り」を通して、お釈迦さまのメッセージを伝えるように、学べるように工夫をしないといけない。お釈迦さまの教えが伴っていないと、道徳(人格向上)とは何の関係もなくなってしまう。(^_^;
  • 真理は「行・しきたり・儀式」がなくても成り立つ。真理は真理、事実ですから。仏教は中正(majjha)的立場をとる。特別なことをする時間がなくても、教えを理解して自分の身体で経験するのは可能。普通に暮らしている釈尊の在家信者さんは預流果に悟っている。それに比べて苦行には何の意味もないのだ(ご苦労さんだけど、ゼロに等しい)と、この偈で教えているのです。
  • 第70偈の因縁話:人々の尊敬を集めていた糞食裸形外道(アージーヴィカ教団も破門された男)を釈尊が阿羅漢果に悟らしめた話。彼の前世はカッサパ仏の時代に誹謗阿羅漢で地獄に落ちた比丘だった。ものすごい皮肉がこめられた物語です。
  • 質疑応答より
  • Q:悟るまで「道徳を守る私」は必要では? A:「私」という概念が生じるのは脳の欠陥。概念として組み立てたとしても確固たる実態としての「私」がいるわけではない。
  • Q:亡くなった父への供養をどうすべきか? A:仏教の先祖供養は「ワイルドカードの原則」で行います。誰かと限定せずに、検索キーワード「先祖」で引っかかった人々は、すべて廻向の対象にする。

昨日のかやの木講演、21日の「こころの開発・宗教・地球市民」講演と併せて考えると、なんだか現代日本仏教への指針とも言うべき、壮大な世界が浮かび上がってくる気がする。「花祭り」の話は去年までのこと振り返るとギクッとさせられた。(追伸:意味が通りづらいところ、ちょっと直しました)

講義は17:00頃に終了。休憩を挟んでヴィパッサナー瞑想会。初心者指導を受ける方々だけで、本堂がいっぱいになった。一階から三階まで、ゴータミー精舎のスペースをフル活用してみな瞑想修行に励んだ。会の終わりにA君が協会「青年部」の再起動を呼びかけ。反響が楽しみだな。

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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜