ジャイナ教入門

スマナサーラ長老のかやの木会館月例講演会。『「デキる人の秘密」を解明する』9月23日講演会のあと最初の月例講演会だったこともあり、会場は超満員。僕は映写係だったがプロジェクタのケーブルを精舎に置き忘れてしまい、冷汗かいたがスマナサーラ長老が持ってきて下さり、ことなきを得た。

行き帰りの電車で読んだのが、

ジャイナ教入門

ジャイナ教入門

渡辺研二氏の『ジャイナ教入門』。豊洲ららぽーとの紀伊國屋書店で購入した。同じ著者の『ジャイナ教―非所有・非暴力・非殺生 その教義と実生活』もあって迷ったんだが、安いほうにしてしまった。(^_^; 初期仏教(パーリ仏教)を学べば学ぶほど、同時代に生まれたジャイナ教のことがすごく気になってくる。これは素晴らしい良書です(宮崎哲弥氏も絶賛した方がいいよ)。知ってるつもりで全然知らなかった仏教の「兄弟宗教」について、これだけしっかり解説している新書本は前代未聞だろう。ジャイナ教というと苦行とか全裸とか「水にも霊魂があるじょ」論とかわけわかめでとっつきにくいイメージが付きまとうが、教義によせ世界観にせよ、ものすごく仏教に近い面が多い。『スッタニパータ』などかなりの確度で内容が共通する『沙門文学』を用いていたという推測もされている。一見わかりにくいジャイナ教の個我論や業論にしても、ある程度瞑想をしたり経典を勉強したりすると「ああ、なるほど観察レベルによってはそういう見方もありえるな」と思えるのだ。やはり心を清めながら自然と自己の心身を観察した結果、構築された教理体系であることが推測できる。もちろん仏教から見ると微妙に観察が甘いとか、智慧が現れてないといった突っ込みも成り立つし、世界宗教にならなかった教理面の限界もよく見える。仏教がどこまでも『智慧の教え』であることも、ジャイナ教との比較によって浮かび上がっている。それでもジャイナ教が守ってきたスヤード・ヴァーダと呼ばれる相対主義的な態度は、後世劣化した一部の仏教とは比較にならないほど上品(ariya)だし、現代の統一インドには、国父マハトマ・ガーンディーを通じてジャイナ教のエートスが多大な影響を与えている。一時期西域を席巻したグノーシスやマニ教も、仏教というよりはむしろジャイナ教に追う要素が大きいといえるだろう。今後ジャイナ教が世界宗教化する可能性もなしとはいえないし、インドから一歩も出ずに、その思想は既に多方面で世界化しているとも言える。いまジャイナ教研究は非常に「劣勢」にあるらしく、履歴を見る限り著者も決して恵まれた境遇ではないようだが、現代日本のインド学徒として真に尊敬に値する一人ではないかしらと思う。このような人物が野に埋もれていることの勿体無さと尊さとを思った。それから、パーリ聖典では様々な箇所でジャイナ教徒が釈尊や仏弟子の論敵として登場するが、そこで紹介されているジャイナ教の教義は、ジャイナ教側から見ても非常に正確に保存されていることも指摘されている。パーリ聖典をまとめた声聞サンガがいかに上品(ariya)なインテリ集団であったかがよくわかるエピソードだ。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜