阿羅漢をめぐる大誤解

以下のような言説がよく見受けられる。
「部派仏教」のところが「小乗仏教」だったり「上座部仏教」だったりするが、判で押したような同じ文章に出会うことが多い。

部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。従って、修行者が到達できる境地も阿羅漢(アラカン)止まりで、如来(仏=仏陀)にはなれないと考えられた。

『ゴータマ・ブッダ考』の並川某氏もそうなんだけど、これって大乗仏教思想の先入見の入った研究者が陥りやすい誤解じゃないだろうか。テーラワーダの伝承でも、ブッダは第一に「阿羅漢」(如来十号の一)なので、阿羅漢になれば悟りのレベルはブッダと同格とみなされる。しかし教えの創始者に敬意を表して、経典が伝承されるうちに、ゴータマ・ブッダのみをブッダと呼び、ブッダの教法によって悟った(ブッダ)聖者を阿羅漢と呼ぶように用語が整理された。

経典自体、ゴータマ・ブッダという卓越した指導者の言説を後に伝える目的で編纂されたのだから、この言葉の使い分けは極めて自然で合理的な流れではないか。その後、ブッダにしかない能力といった項目が注釈書などでゴチャゴチャと論じられてゆくが、それは菩薩としての年季の問題であって、悟りの境地の高低ではありえない。ブッダの教えによって悟った聖者が阿羅漢、ということに何らの自己卑下も向上心の放棄もない。

「部派の修行をいくら積んでも、阿羅漢止まりで、ブッダに成ること(成仏)はできない」という言説は、大乗仏教サイドが部派時代の仏教を批判した揚げ足取りのレトリックに過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。如来の教法によって修行を完成した阿羅漢を誹謗することは、ブッダの教法そのものを誹謗することであり、その時点で仏教徒とはいえない。

そのような論理の筋道を無視した謗法を自称「仏教徒」が大真面目にしていたとすれば、仏教の基本的な理解を(知らずか故意かは別にして)踏み外してしまうほどにメインストリームから離れた、混沌とした環境に彼らが置かれていたと推測するしかない。つまり大乗仏教が勃興した時代と地域が浮き彫りになってくる。

日本の多くの仏教研究者は大乗仏教的な発想を前提として思考するので、単なる用語の整理(のちに尾ひれはつくが)程度に過ぎない、ブッダと阿羅漢の使い分けに、過剰な意味づけをしてしまう。ある時空関係のなかで成立した、「大乗仏教のものの見方」に癒着して同化して、それが客観的・学問的だと錯覚してしまうのだ。まわりを見渡しても宗派は違えどみな大乗ばかり、そんな他者不在の環境におかれて研究してきたのだから、無理もないことだが……。

テーラワーダ仏教を「正統」とする言説には確かに価値判断が入っている。しかし、日本の(多くの)仏教者・仏教研究者は、自らの思考の前提となって居る価値判断にあまりにも無自覚という意味でたちが悪いと、個人的には思っている。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜