『ゴータマ・ブッダ考』は不味かった

アスギリヤ大寺法王猊下ご一行は5月1日に離日。怒涛の日々は表の日記で散々書いた。4日は調布からバスに乘って深大寺にお参り。東京都下では一番好きなお寺。妻は初めてだと。新緑と湧き水とかやぶきのお堂を眺めて、ほっとする。帰りに立ち寄った井の頭公園では楳図かずお先生に遭遇。

ゴータマ・ブッダ考

ゴータマ・ブッダ考

以前から気になっていた『ゴータマ・ブッダ考』吉祥寺の駅ビルで購入。読み始めるが…うーん、宮崎哲弥さん、いくら自説を補強したいからって、これを朝日新聞の書評で薦めちゃうのはかなりマズイかも。こんな專門書、一般の読者にはわけわかめでコケオドシ効果にしかならんもんなぁ…。売れてる割にamazon.co.jp などにろくな書評が挙がってないのもむべなるかな。

内容的には、読書の備忘録/『ゴータマ・ブッダ考』をめぐって - ひじる日々(東京寺男日記) 脱原発!でoさんが仰っていた通り、かなり問題ありだ。とゆーか、ひどい。並川氏の「大胆」な仮説とやらは、本書あとがきにどさくさまぎれに延べられている。

仏教はもともと多くのブッダが存在した教団で、開祖とされるゴータマ・ブッダさえも、その中の一人のブッダに過ぎなかったものが、彼の滅後、アーナンダおよびその弟子たちの主導の教団運営によって、唯一のブッダが誕生することになる。当然のこと、ゴータマ・ブッダの晩年20年以上仕えたアーナンダが法(経)をまとめたということは、言ってみればアーナンダが見た視点からゴータマ・ブッダの教えをまとめたに他ならず、そしてそのアーナンダがブッダの滅後、教団の中核を担い、アーナンダ中心の運営が行われたことは、アーナンダの立場から教団組織が構築されていくことが必然であることを意味している。この状況下で唯一の固有なるブッダが誕生したのである。その結果、そのブッダはさらに偉大化される過程で、そのための理論武装とも言うべきさまざまな教理がつくり上げられていくことになる。

おいおい、なんじゃそりゃ(苦笑)。

本書のハイライトは第4章ゴータマ・ブッダ伝承の非史実性 と、第5章ゴータマ・ブッダ滅後の教団とアーナンダ にあるようだが、せっかく第3章までは経典の最古層・古層とかこだわって分析してたのに、第4章と第5章では、自分の推測を補強するためあやふやにもほどがある仏伝資料を総動員して、下衆の勘ぐりのような推論を暴走させている。とまれ、「仏教はもともと多くのブッダが存在した教団で、開祖とされるゴータマ・ブッダさえも、その中の一人のブッダに過ぎなかった」という大胆な仮説を押し通すためには、かなり無理矢理な陰謀史観?を展開するしかない、とゆーことはよく解った。

だいたい第一結集で他の阿羅漢たち環視のもと経典を誦出したのはアーナンダ尊者なのである。釈尊教団で悟った人々が「ブッダ」と呼ばれようが呼ばれまいが、経典をまとめるという作業自体が釈尊(ゴータマ・ブッダ)の死という経緯をもって初めてなされたことなのだ。

また、それ(経典結集)が全教団の同意の上で行われたことも疑いようがない。経典結集という事業をするに足る大聖者がゴータマ・ブッダのみである、ということは、ゴータマ・ブッダのもとで悟った(ブッダ)人々共通の認識であった。

ゆえに、経典が伝承されるうちに、ゴータマ・ブッダのみをブッダと呼び、ブッダの教法によって悟った(ブッダ!)聖者を阿羅漢と呼ぶように用語が整理されたことは極めて自然な流れである。経典が編纂されたそもそもの意図に合致する編集的配慮でしかない。はい、これで第1章と第2章はゴミ箱行き。第3章は読書の備忘録/『ゴータマ・ブッダ考』をめぐって - ひじる日々(東京寺男日記) 脱原発!を参照すれば、読まなくても逝ってよし。

結局、並川氏の「仏教はもともと多くのブッダが存在した教団」という指摘は、釈尊滅後はるか後世に勃興し、「ブッダになる」ことに過剰な宗教的な意味づけをした大乗仏教の問題設定(なぜ釈尊のみがブッダと呼ばれるのか。なぜ他の修行者は阿羅漢どまりでブッダになれないのか?…とゆートンチンカンな設問)に引きずられたものであり、研究者本人の思考の背後に滑り込んでいる固定概念にまったく無頓着な、日本の仏教学者にありがちな落とし穴に嵌った凡作・駄作、とゆー評価をせざるを得ない。

多くの人文書読みに無駄な買い物をさせた宮崎哲弥は反省せよ!(笑)

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜