「身を守る」ということ(スマナサーラ長老の法話より)

「身を守る」ということについてお話しします。

いかにして身を守るべきか? 日本にはお守り文化があります。世界中に神に守ってくださいと祈る文化がありますが、ああやって沢山お守りをぶら下げる文化は日本独特です。

釈尊ご自身の立場からは、そういうモノはまずは認めません。いろんなモノに頼るなよ、と説かれています。そう言っても、人は頼ってしまいます。お地蔵様とか立てて拝むのです。人間は何かに守って欲しい。釈尊は、「結局、それって怯えだよ」と仰いました。

怯えが無かったらどうなるでしょうか。すごくラクになるんです。

世界中に迷信があります。西洋人も迷信的なことをガンとして信じています。怯えているのは先が見えないからです。先は読めない。知るのは不可能。でも知りたがるんです。無理なことをしようとするから不安や怯えが生まれます。新幹線の電光掲示板、企業PR、明るい未来を築こうと、うそばかりです。実際はいま必要なものを作って売って必死に生きているのです。未来に向けて頑張るのは嘘です。今売れるものを作って売りたいだけです。人々も今欲しいものを買っている。ですから、未来はいらないでしょう。今の問題を解決すれば、それで人生は解決です。

私はローン会社を使うことにはには反対です。自分の人生設計をしっかりしないと。「将来」という言葉は危険です。現実化になっていないんだから。14歳の女の子の最初の子が男か女かなんて知るはずがない。調子に乗ってあれこれ決めて後から撤回するのは情けないことです。将来を知ろうというのは、試験問題をあらかじめ知ろうとするのと同じです。将来について放っておいて下さい。とても気が楽になります。

歴史上、一度たりともお守りが守ってくれた試しはないのです。スリランカには鉄砲に撃たれても当たらないというお守りがあります。たいへん高価なお守りですが、自分で試してみる人はいないのですw 効果ゼロなのに、信仰だけはある。

人間は阿呆だから先を読もうとするのです。今日は悔しくない生き方するぞ、今日は悩まない生き方するぞ、今日は失敗しない生き方するぞ、と決めれば明るく活発になってビシビシ生きられます。でも[そういうブッダの話には、]なかなか乗ってくれないんです。

[お守りを]お客さんが欲しがるっていうのはインチキで、本当は「自分が儲かってる」っていうことです。[それを隠す]偽善的なことばです。お守りを無料で配ってるところはないです。

お釈迦様の時代、ブッダの弟子はお守りを持っていませんでした。何も持ってなかったんです。私も日本に来て、お数珠を貰ったことがあります。でも、ある有名なお坊さんが、「私は数珠を持っているとすごく落ち着くんです」と言ったのを聴いて、こんなのを持つのはかっこ悪いんだ、これからは持たないぞと思って捨てたんです。落ち着きはお数珠の問題ではなく、自分の心の問題ですから。

お守りを持たないで、私たちがどうやって我々は身を守るのでしょうか? 五戒が身を守る唯一の手段です。五戒を守っていると、ぜんぜん攻撃を受けないんです。攻撃しようとした人が協力してくれるはめになります。私たちがこの世界で身を守る手段が戒律なんです。

私は戒律を別な言葉で入れ替えたいんです。「バレたらやばいことはしない」と。必ず五つの項目でなくても構わないですよ。あるお坊さんが、戒律が複雑すぎて守れません、とお釈迦様の相談されたのです。お釈迦様は、「心汚れないようにしてください。それだけ守ってください」と仰った。そのお坊さんは、釈尊が自分のために特別に教えてくれたんだと、喜んで実践して、24時間、心が汚れないようにと実践して、あっという間に覚ったのです。

それは在家には現実的に無理です。商売したり、家族の面倒見ても心は汚れますから。だから五戒になっています。酒を飲むなかれ、という項目がなぜ入ってるのか? それは心が汚れるからです。大人しく酒を飲んでいてもジワジワと心が汚れていくんです。不飲酒戒は、破ったらいちばんヤバイ戒律です。酒を飲むと判断力がなくなるのです。

酒は日本の文化だと言っても、仏教は文化に価値を入れないんです。文化は毎日変化するものです。文化のために命かける必要はないんです。文化はたいしたことありません。人間の便利に合わせて変えればいいものです。日本では神に酒捧げていますが、酔っ払っているから願いを聞いてくれませんよ。

お釈迦様の仏教に、お守りはないですが、守ってくれないわけではないんです。きちっと守ってくれます。それは証拠いらないほど確実です。「ばれたらヤバイことしない、今日から」と決めるだけです。それで何の問題もないんです。

今日からだから、これまでの分でやられるんじゃないかと[心配になるかもしれません]。それにも方法があります。素直に認めること。隠さない。それで周りは何もできなくなるんです。いままで自分がおかしいことをやったなら、「はいそうです、そうでした」と言えば解決です。仏教に懺悔の文化があるのはそのためです。昔の事について気にしなくていいんです。隠す事がかえって罪です。さらに、死後まで心配するなら「慈悲の瞑想」すれば、それで何の問題も無くなるのです。

(2012年1月22日名古屋市笠寺ニホンガイシフォーラムでの法話メモ)

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