戦争参加・戦争協力の罪(倶舎論より)

阿毘達磨倶舎論をパラパラ読んでいたら、戦争など集団による殺生の罪について論じられていた。こーゆー「なんでも説明」系は有部が強いね。最近は日本仏教の宗派でも戦争協力への「反省」気運が表向きは高まっているけど、油断するとまた「声聞の持戒は菩薩の破戒」とか「殺すべき時は殺すのが大乗の不殺生戒」とか「一殺多生」とかでたらめな事を言いだしかねない。一応、阿毘達磨倶舎論(倶舎論)は大乗でも仏教の基礎学になっているが、そこで明確に、戦争参加・戦争協力すれば、たとえ本人が直接手を下していなくても殺生の業になると明言しているのを発見できたのは嬉しい。遍く仏教徒にとって「戦争に加担してはいけない」ことの理論的な背骨になりうると思うので、以下短いけど書写。

 若(も)し多人有り。集りて軍衆(ぐんしゅ)を為し、怨敵を殺さんと欲し、或は獣を猟する等は、中に於いて、随って一(ひと)りの殺生すること有らん時、何人(なんびと)か殺生の業道を成ずることを得るや。
 頌に曰く、
  軍等の若し事を同じくするは、皆成ずること作者(さしゃ)の如し。
 論じて曰く、軍等の中に於いて、若し随って一り殺生事を作(なさ)んこと有らば、自ら作す者の如く、一切皆殺生の業道を成ず。彼は、同じく許して一事を為すに由るが故なり。一事を為すに展転して相教ふるが如し。故に一り殺生するときは、餘も皆罪を得。
 若し他の力の、逼(せま)りて此中(このなか)に入ること有らんときも、因りて即ち同心せば、亦(また)殺罪を成ず。
 唯(ただ)若し誓(ちかい)を立てて、自ら要して自(おのれ)の命を救ふ縁にも亦殺を行ぜざるもの有るをば、除く。他の力に由りて逼(せま)られて、此中に在りと雖(いえど)も、而も殺心無きが故に殺罪無ければなり。
(阿毘達磨倶舎論巻第十六 分別業品第四之四 読み下しは国訳大蔵経に拠った)

さすが戦乱の巷の西北インドで発展した説一切有部アビダルマだけあって、ケーススタディが生々しい感じがする(もしかすっとパーリの注釈書にも似た記述があるかもしれないが未読)。
テキトー訳すっと、以下のような感じ。

 人々が集団(軍隊)を作って、敵を殺そうとしたり、獣を撃ち取ろうとしたりした場合、実際に手を下さなくても殺生の罪になるんだろうか?誰が殺生の業を得るのか?
頌に曰く……つまり、アビダルマの公式集にこうあるぜ。
「軍隊を組織してそこに参加したら(そこで組織的な殺生が行われた場合は)、軍隊の構成員全員が直接手を下した者と同じ殺生の業を受けます。」
 論じて曰く……以下は、説明。えっとだね、軍隊のなかで誰か一人が殺人をしたとしても、それは構成員の集団的な意志で合意ずく行った殺人で、殺すに至る過程は連係プレーで相手を追い込んでいるわけだ。だから、殺した本人だけじゃなくて軍隊全員に殺生の罪があるんだ。
 例え徴兵されたりして、無理やり軍隊に入れられた場合でも(若し他の力の、逼りて此中に入ること有らんときも)、軍隊で洗脳されて「敵を殺す」という意思を共有していたら、やはり殺生の罪になるんだな。
 ただし例外もある。もし自分の命を守るためであっても絶対に人を殺さないと、固く誓いを立てている場合だ。それなら無理やり徴兵されて軍隊に入れられたとしても、殺そうという気持ちはさらさらないのだから、殺生の罪は被らない。

どう? ありそうな話でしょ? 
現代の仏教徒でも悩んでしまいそうな問題に、倶舎論は答えを出している。
たぶん、実際に徴兵されて戦場に赴く在家信者さんから相談を受けたお坊さんが一生懸命真摯に考えた答えだろうと思う。
目をつぶらずとも、砂塵舞うカシミールの大地の精舎の門前で出征前の仏教徒に語りかける、一人の僧侶の姿が幻視された。

What's Going on

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〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜