アビダルマとは何か?(浪花宣明『パーリ・アビダンマ思想の研究 無我論の構築』の紹介)


昨年末からちびちびと読んで勉強させていただいているのが、浪花宣明『パーリ・アビダンマ思想の研究 無我論の構築』(2008年10月20日 平楽寺書店)。画期的にすごい本なので、あちこちで称賛の嵐かと思ったら、ぜんぜん取り上げられないようなので、非力を顧みずご紹介したい。


パーリ長部・中部を現代語で全訳した春秋社『原始経典』シリーズの編者・主要訳者である浪花宣明博士によるパーリ・アビダンマ思想の研究、そしてAbhidhammatthavibhāvanī(Abhidhammatthasaṅgahaの注釈書)全編の訳注からなる書籍。昨年8月に出版されたにもかかわらず、amazon.co.jpどころか、版元の目録にも載っていない本だ。しかし仏教思想を学ぶ人は必ず目を通すべき作品だろう。特に第一部のパーリ・アビダンマ思想の研究はたいへん重要だと思う。


序説の最初のくだりが、まずしびれるぜ。以下、引用する。

序説
第1節 アビダルマの教理体系の意義と勝義法
(1)アビダルマの教理体系の意義


 アビダルマ(アビダンマ)はブッダの教えを体系的な思想としてまとめたという点で、仏教思想史上に大きな位置を占める。このことは多くの研究者の意見が一致するところである。アビダルマ仏教は詳細で多岐にわたる教理体系を特徴とする。かつてアビダルマが「煩瑣哲学」と揶揄的に呼ばれた事実が物語るように、その教理体系の意義が正しく理解されていないことも否めない事実である。
 アビダルマの教理体系の意義として、次の三点をあげることができる。
  (1)外的・内的世界の多様性の認識
  (2)多様性の中で自己を認識する
  (3)解脱への道
 (1)外界の様々な対象とそれらの変化、それらと接触することによって自身のうちに生じてくる様々な心理的作用、様々な精神的活動、様々な肉体的活動、これらの圧倒的に多様な外的・内的世界を人は経験する。それらはことばを介して概念化される。それら諸概念は整理され、同類・異類として、あるいは善悪・迷悟として秩序づけられ、一貫性を与えられ、自らの知識となる。このような知的な作業がなければ、人はその多様性の前でただ混迷する以外にないであろう。体系化とはこのような多様性を認識していくための手段である。
 (2)さらにそれは積極的な意味を持つ。外的・内的世界の多様性を秩序づけ、系統づけることによって、人は自己をその世界の中に位置づけることができる。犬や猫には善も悪もないであろう。あるのは本能のままに生じてくる衝動であろう。しかし人には本能の赴くままの衝動的な行動は許されない。人は自らの行為が善か悪かを自覚しなければならない。また人は誰しも苦を避け、楽を求めるであろう。しかし衝動的な楽は否定されねばならない。真の楽が求められねばならない。人は往々にして悪を行いながら自らの悪を知らず、迷っていながら自ら迷いを知らず、歩みながら、いくべき正道を知らない。教理体系は自己自身を知る指針となる。
 これは思考方法を固定化し、人の精神活動を一つの枠にはめるという、否定的側面を持つ。教理体系が人の活動を束縛するなら、人はその体系を捨てて、新しい体系を持てばよい。体系は方便である。不要になれば捨てればよい。有名な「筏の譬え」がそれを表している。しかし何らかの思考体系がなければ、人は混乱に陥るしかないことは事実である。
 (3)アビダルマの体系は、「煩瑣」と言われるように、複雑な教理体系を持つ。それは人の外的世界と内的世界とが複雑であるからである。現象はむやみに単純化できない。多様性が現象の真実の姿であるからである。アビダルマの体系は、本来、人の活動を何かひとつの「原理」に帰納させることを目的とするものではない。現象の背後に、現象の根底に、現象を現象たらしめている「第一原因」「原理」を探求するためのものではない。
 アビダルマは人の活動を体系的に記述することを目的としている。記述すると言っても現象を無批判に手当たり次第に受け入れるのではなく、そこには一貫するものがある。それを一言でいえば「転迷開悟」である。人の迷いの現実を知らしめ、悟りの可能性を開発することにある。仏教における開悟は神からの恩寵ではない。自らの存在の真実のすがたを知ることであり、真実のすがたを自己の上に体現することである。無我の真実に覚醒し、自らの生活の場において無我を体現することである。それゆえアビダルマの教理体系は無我の論証であり、実践の体系でもある。

アビダルマ(アビダンマ)とは何か、という問いについて、これほど明快に解き明かした文章は読んだことがなかった。「アビダルマの教理体系は無我の論証であり、実践の体系でもある」と喝破した浪花氏は、「序説」の続くくだり(第2節 原始経典の無我説)で、現代仏教学界における「無我」「非我」をめぐる混乱した言説に対しても、明快なジャッジを下している。それも後日、紹介したい。正直、私ごときには歯が立たないところも多いのだが、初期仏教を学ぶ人が読めば、必ず資するところがあるだろう。


版元の平楽寺書店に問い合わせればたぶん購入できると思うので、興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。以下、蛇足の本紹介。

新国訳大蔵経 インド撰述部―論集部〈5〉解脱道論

新国訳大蔵経 インド撰述部―論集部〈5〉解脱道論

スリランカには、現在のスリランカ上座仏教のルーツである大寺派の他に、無畏山派と呼ばれる大乗系の教学にも寛容な宗派が勢力を誇っていた。その宗派でも清浄道論に対応する修道マニュアル「解脱道論(vimuttimagga)」(ウパティッサ作)がまとめられた。パーリ語原典は散逸しているものの漢訳(中国にはパーリ語に精通した訳者がいなかったため、かなりいい加減な訳)が残されている。そのいい加減な漢訳仏典を研究者魂で何とか読めるものにまで再構築した労作。内容にムラがある「新国訳」シリーズでも白眉の出来ではないかな?

在家仏教の研究

在家仏教の研究

スリランカで西暦10世紀〜12世紀頃に編まれた珍しい「在家仏教論」(Upāsakajanālaṅkāra)の全訳と研究。パーリ仏教マニアならばぜひ。

サーラサンガハの研究―仏教教理の精要

サーラサンガハの研究―仏教教理の精要

こちらもマイナーなパーリ仏典の訳出と研究。夢の分析やら、掃除の功徳やら、歯を磨かない過失と磨く利点???やら、男女の性転換についてやら、注釈書をもとにしたテーラワーダ仏教リビア集といった感じ。読んで悟りに近づくとは思えないが、意外と面白い。パーリ仏教マニアならばぜひ。

原始仏典〈第5巻〉中部経典2

原始仏典〈第5巻〉中部経典2

中部経典の第41経から76経まで。まるごと一冊、浪花氏の訳。本文に誤記誤植が多いのが残念。肝心な注釈でも「南方小乗仏教」など学者とは思えない用語を連発し、テーラワーダをことさらにディスる宗派的偏見に満ちた記述が散見され、浪花氏の他の著書から受けるイメージとはだいぶ異なる。中村元説や他の訳者におもねったのか?


amazon.co.jpのDBにはないが、浪花氏は他にも平楽寺書店から『分別論註 Vibhaṅgaaṭṭhakathā と Vibhaṅgamūlaṭīkā』(2004年5月20日)を出版している。これもアビダンマ研究においては重要な作品。


ちなみに浪花氏は自分でパソコン使って版下作っているためか、作品に誤字脱字がたいへん多いことも特徴的だ。なんでも一人で出来るというのも、考えものだ。っつーか、編集者、ちゃんとフォローしろやーい!


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