スマナサーラ長老のダンマパダ講義(71偈)

今日はスマナサーラ長老のダンマパダ講義。貪瞋痴の三毒と業について、迫力ある説法。
質疑応答も活発でとてもいい雰囲気だった。まとまりがないけど、以下、講義のメモ。
ちょろっとMP3のデータを聴きなおしたけど、うーむ、同時筆記に近い形で打ち込んだと思っても、やっぱかなり自分の(腐った)脳みそ通って長老の言葉の光を減殺してしまっているなぁと思う。その前提でお読みください。


2007年3月10日 PM2:00〜ゴータミー精舎
ダンマパダ講義 講師:スマナサーラ長老

5.baala vagga 愚者の章 71偈

71 na hi paapaM kataM kammaM sajju khiiraM va muccati,
実に、為された悪しき行為は、牛乳のように直ちに固まることはない。
dahantaM baalam anveti bhasmacchanno va paavako.
灰に覆われた炭火のように、燃えている業は愚者に従い行く。

  • インドでは乳加工製品がたくさんあります。だから牛乳の喩えがよく出てくる。牛乳はいろいろ加工して使われるが、乳搾りしただけで直ちに変化するわけではない、という喩え。悪行為も同じく、条件が揃ったところで悪業の報いが来るのです。悪業は埋火のように犯した人の中で燃え続ける(結果出るまで待っている)。
  • 世の中の人、悪いこと好き。善いことしろと言ったら腹立てて怒る。→すぐさま結果が出てこない。悪を犯すのは刺激的。四六時中悪を犯す。時間がたってから結果が出る。結果が出たときにはもう手遅れ。人間はいつも怒っている。95%怒りの妄想している。他にも妄想することたくさんあるのに、自我の塊になって怒っている。
  • 精神病のリストは数千あるが、そんなものいらない。二つで済む。怒りの妄想と欲の妄想。人間に欲があるのは当たり前。釈尊も欲はなかなかなくならないと言っているのに。現代人はその暇ない。ずっと怒りで燃えている。焼身自殺しているみたいです。
  • 欲は善くないけど、明るくはなる。オシャレくらい、明るくしたらどうでしょうか? でも現代人、元気ではない。
  • スリランカ:ココナッツは人間の声がよく聴こえるところでよく育つ。喜んで遊んでいる声。子供たち。怒り憎しみの声だったらそうならない。人間はずっと、自分のこと、他人のこと悲観的に思うこと。あの人悪かった、あのこと悪かった、あの態度が悪かったと。仕事で収入得るためにやってるのに、仕事に文句言う。こんなこと意味あるのか、止めたいとか。どこまで暗いのか。
  • 私は不思議ですよ。そんな暗い思考だったら30分も持たない。身体壊れる。みんなよく忍耐力ありますねぇ。それも業。簡単に身体壊してくれない。私は身体おかしくなると思ったらすぐ止めます。
  • なぜそんなことしているか? そのときは気分がいいからです。
  • 人のことをネガティブ的にごちゃごちゃ妄想しているのはどってことないと思っているが、自分が不治の病になっていることは気づかない。精神病、脳みそが機能しなくなってしまう。それだったら犬猫に生まれたほうがよかった。すぐ死んじゃうから。人間にうまれて、それを台無しにする。
  • 不善思考のなかで、欲の思考は「まし」なんです。創造的、生産的です。破壊的ではない。怒りは破壊的。欲も怒りも不善だから人間はそれで堕落するが、比較すると、怒りは最初っから破壊的です。精神的に病気になるとどうしようもない。誰にも助けて上げられない。精神的に健康なときでさえ、自分の恐ろしい妄想、思考止められなかった人が、ひっぱられて。病気になったらどうやって止めますか? 悪思考止めるためにはすごい力が必要。その力がないでしょう。もう助けられないということ。悪思考はすごい罪。すぐ切らないといけないんです。
  • 悪思考はやりやすい。仲良くするより憎むこと、評価するより批判すること、美徳を見つけるより欠点見つけること、やりやすい。世の中、そうなっている。マスコミは人のあら捜しして、悪口探すのが専門の仕事です。そこまで人々は、人の悪口を探す技術を開発する。データがなくても本当のごとく書ける文章技術を教えたりする。「ジャーナリズム」としてそれを講義している。いかに法律に触れずに嘘を書くかということ。
  • 欲の世界より、噂のほうが売れる。「あの人がこんな服着てた」より、「あっちで誰かと話していた」とか、「誰かに手を振っていた。あれは誰?」と、それで二三週間記事を書ける。ただの憶測推測だけ。ジャーナリズム云々を批判するより、いかに読者の脳細胞が死んでいるかと思うと、それが気持ち悪い。どうしてそこまで論理性が死んでいるのか。例:ダイアナ妃の報道。陰謀説。
  • どれだけ人の悪口探して探して憎しみの刺激で生きているのかと。精神的な病気になっていかれてしまう。慈しみ、やさしさ、人のこと心配する、といった気持ちはみじんもない。世界の思考の流れは一般的に見ると信じられないほど変な方向に行っている。そういう世界で育つ人も、よほど人格あれば、このシステムに汚染されないようにすることできる。が、みんな流行に乗らなければならない。どうしようもないほど、社会の思考が壊れている。いまは、反対意見を出したら命がない、というところまで行っていますから。
  • すぐに結果が出るなら、誰も悪いことしない。悪業は埋火のように待っていて、条件揃ったら攻撃する。攻撃されたらどうしようもない。何か弱いときを狙って悪い結果が出ますから。最初から理性のない生命だから、なおさら悪くなるんです。不幸になって、条件が悪いときに、どーんと不幸になる。それから次から次へと不幸になる。何でこうなるのか? 自分は悪いことしてないのに、といまさら言っても意味がない。
  • 身体病気になって手術すると別のところも、どんどん壊れて。財産がなくなって、家で離婚もされたりして。どこまで堕ちるか分からなくなる。いったん崩れたらどこまでも崩れていく。悪業しかしてないから。山火事になるためにはちょっとした火種で充分です。条件は揃っています。
  • 理解してほしいこと:人間は基本的に心が汚れています。何をみても貪瞋痴(欲・怒り・無知)で判断している。貪瞋癡という三つの尺度で判断する。それが本能。欲張るのは簡単。怒るのは、昔はたまたま。いったん怒り出したらどんな素晴らしい条件でも怒る。昔の人々は厳しく生活していたから、生きることで体力使って頑張っていたから、あまり心汚れません。手で田んぼつくるから、余計なこと考える余裕がない。自然の中で一人で田んぼを世話していても動物たちや鳥たちが寄ってくるし、みんなそれぞれ関係あって生きているんだと、そういう人たちに見えてくるし、疲れているんだから、それでどこか横になって寝るし。そういう人々は洪水になったり日照りになったりすると、ついてないんだ、ということで終わる。心配が出てきて、家族をどうしようとか。怒り憎しみであいつが悪いこいつが悪いという思考はなかった。現代社会では人が心配になるような、嫌な気分になるような原因を全部消してしまった。それで怒っている。
  • 病気になったら、明るくいないと。平気で処理しないと。そうするとすぐよくなる。それは人間やらない。やりにくい。貪瞋痴が自然にあるから不善思考はしやすい。なれたものだから。なんとなく気分よくやってしまう。気分よくはなりません。刺激がある。人を怒って、幸福な刺激があるわけではない、「ああ、いやだこの人々が」と、それを喜んでいる。現代社会では、社会評論なんかする人は、誘惑であふれている豊かな社会とか言っているが、あれは嘘です。どうせ頭悪い人が知識人になっているんだから。彼らの分析だから当てにならない。よく客観的に観るとすごい怒り型社会なんです、社会全体的に。なんでこんなに精神的に病気な人が出ているんでしょうか? 豊かになったと言って、何があるのか? 欲でダメになったというなら、まだ分かる。人間は欲で生きていますから、と言えます。しかし、事実は、全体的に怒り型社会になっている。これは異常な状況なんです。
  • 貪瞋痴の痴とは、データを正しく処理しないということ。これも現代社会で陥りやすい。何の役に立たない概念知識。概念知識はシャボン玉泡のようなもの。水に洗剤をちょっと入れてかき混ぜれば、いくらでも泡が作れる。大小を競っても意味がない。どちらも意味ない。概念、知識はいくらでも膨らませられる。現代社会では、いまだかつて知らなかったものが出た、ということはほとんどない。どうでもいいこと書くわ書くわ。専門雑誌までたくさんある。ゴルフにどれだけ専門誌があるか?微妙なことをことこまかに。無知な人はそれにふける。
  • 人間には時間がない。覚えておいてください。時間というのは一元的。リニアです。時間がふたつ同時に流れるということはない。時間一度無駄にしたら、永久的に戻らない。朝ご飯一回食べられなくても、もう補えない。時間で考えれば、5分無駄にしたら、その無駄は永久に無駄で残る。リセットして、また5分あげます、ということはあり得ない。釈尊は「いちばん気をつけるべきは時間である、それを無駄にするな」とおっしゃっている。人は身体を動かすなら有効に動かすべき。時間はものすごく大切にすべき。時間はいくらでもありということはあり得ない。時間だけなら無限になるが、時間は独立して存在しない。変化している我々、現象といるときだけ、時間が成り立つんだから。空間という状況では時間はなりたちません。
  • こころも現象ですから、こころさえもリニアな時間の上で存在している。手を上げようとしたら、時間がかかる。しゃべりながら手を上げるとだまって手をあげる。後者がはやい。時計でははかれない。素粒子単位で数えられる時計じゃないとわからない。
  • 考えるときは考えている。身体は停止している。それから「あげなくちゃ」意識が出てきて、心がエネルギーつくる。それからあげる。超スローモーションで動きを観察すると発見できる。いろんなこと考えて手を上げると時間がかかる。
  • 時間は一本しかない。考えても時間とってしまう。ご飯食べても時間とってしまう。仏教の修行では、いつでも無駄を省いてみる。食べるときは他の一切の思考、やめてみる。時間は一本であり一元であるとしっかり知った上で生きてみるんです。そこで真理と出会う。人間は脳で複数の事同時にできるという嘘がある。うそだから、みんな認めるでしょう。頭が無知・無明だから嘘が正しく写る。同時に10個20個仕事できるという。そういう人に限って無知。能力ない。嘘だから、それを真実だと。時間は一本で一次元だと言うと、そんなのあり得ないと。私には考えながら別のことできると。超スローモーションで観てみると、ひとつの時間でひとつのことしかしていない。
  • 自動的に走れるような道ではなくて、険しい道を運動してみる。黙って集中して運転するでしょう。ぜんぜん喋れない。同時にできない。同時にできないと発見した人には能力がある。ひとつひとつやってから次に飛びますから。
  • 愚か者は、時間を無駄にすることが楽しみ。しかしゴルフのために本を100冊も読んでいるとどこに楽しみがあるのか。厳しい訓練して。それでスポーツか?会社で仕事して見栄張らないといけないからそのためにゴルフ行く。私は自慢げに趣味は「なし」と書く。
  • 我々の思考の恐ろしさを言いたかった。ゴルフは楽しいはず。時間の無駄だけど、遊びにゴルフに行く。そこまで悪口いえない。人間、概念を増やす。原っぱで穴にボールを落とす。一本のクラブでやった方がスポーツとしてかっこいいと思うけど、何十本も抱えてる。概念増えて増えて、やってる人がどんどん苦しくなるだけ。極限の苦しみの世界を作っている。それが無知。無知の感情。
  • 世の中では、いくらでも概念を作れる。それに意味があると思っているが、無知の衝動。欲と怒りと無知でしかない。
  • 全体的に観ると、何をやってもアホらしくてたまらんということになる。何をやっても結果ゼロ。何にもならない。ゴルフを趣味にしたところで、趣味じゃなくなってしまう。苦しみになる。
  • 日本ではデザイナーえらい立派な職業だけど、学校でぐちゃぐちゃ学ばないといけない。それでも旗はなかなか立てられない。音楽のためにも。必死で努力している。しかし、アフリカの森で遊んで歌っているような音楽が世界的に広まってしまう。何にもいらない。知識で概念で分析しようとする。昔は日本でも何の知識もなく、田んぼで歌っていたんだから。しかし日本民謡という妄想の世界になってしまうと大学でいくら学んでも追いつかなくなってしまう。おばあちゃんたち、その場で思いついたこと歌っていただけなのに。やーれんそーらんとか。合いの手入れるのも、昔は隣の人が自然に割り込んでいたのに。いまはガチガチに緊張している。いまも民謡歌手は夫婦でやってるみたい。それなら自然に歌えるでしょう。
  • 歌うという「人間の喜び」を絶対に喜べなくなるところまで開発する。歌うためにくたくた苦しむところまで持っていく。現代社会はだから、昔より苦しみの固まりになっている。怒り中心になるのはふつう。情報ばかり渦巻いている。本当は「概念中心」です。中身がないんだから。それで無知が膨らんでいく。
  • ジャータカ:サルを重用した王の話。サルに剣を渡した。寝ている王様の額にハエが止まって。サルは気に入らんから、このハエを真っ二つにしてやると。ハエを切って、同時に王様の首も飛んだ。そのエピソードは無知の恐ろしさを教えている。無知に指導されると、無知のリーダーシップに乗ると、期待した結果の反対になる。現代社会は智慧じゃなくて、無知がリーダーシップとっている。概念いっぱい、シャボン玉いっぱい。無知がリーダーシップとっている。いちばん恐ろしいのは女性の化粧品の世界。10時間テレビつけると8時間は化粧。こんなちっちゃな顔に塗るものに、どれくらい種類、順番があるのか。唇の色、どれだけ種類あるか。口紅も、服と持っている肌の色と、紙の色とアクセサリーといろんな靴、組み合わせいかに難しいか。概念はいくらでも増やせる。口紅の色だけで。プロは既成の色作らない。色合わせる。いかに苦しい世界作っているか。もしちょっと女性がおしゃれするなら、ふざけて楽しくなるはず。真剣にメイクアップアーティストのところに行って何時間もかけてやらないと。無知に指導されると楽しいはずだったお洒落がいきなり地獄の結果を出す。
  • どんな分野も同じ。はじめは人間が楽しもうではないかと欲の衝動で始まる。それから概念作って、先生お願いしますと、無知に指導をお願いする。極限的な苦しみの結果を出してやるぞ、ということになる。我々には楽しみがない。ブランド着ても楽しみだけはない。化粧しても楽しみだけはない。金儲けても、金で幸福になることだけはないようにと俗世間ではなっている。怒り中心になるのは必然的な結果になってます。
  • なんでそんなに怒っているのかと。おもしろい。「上手ですねぇ」と言っても怒る。ほめると怒る、ほめないと怒る、意見言っても怒る。人間の作ってる社会はなに? 人間の思考の世界は。
  • 悪はやりやすい。善は知らないんだから。人間は悪に対立して善という概念をつくるが、それは妄想。だから悪に対する善と思っているものも形を変えた別の悪になる。みんな善いことをしようとして、形を変えた別の悪をやっている。社会をよく観察してみてください。
  • かといって、法則は法則。科学法則に人間の好みはまるきり関係ない。
  • 厳密に数学の答えのように法則はしっかり動く。なぜそれを無視するのか。物理法則は自分の好みで変わらない。火を触りたいけど、火傷したくない、成り立たない。法則であって。方法探すのも意味がない。法則とは行為に結果があるということ。無常だから必ず流れる。時間と一緒に流れないといけない。ものは一定しません。別の形をとらないといけない。説明の必要もないこと。「花がある」と言ったとき、もう次の時間でその花は、別な花に変わっている。言語で花と言っても、一秒前の花が原因になって、今の一秒の花がある。秒単位で変わっていないように見えても、じーっと見ると換わっている。眼で見て分かるのは一週間経ってから。花が枯れた。いつ枯れた?何時何分何秒で?ある瞬間に枯れたということはない。
  • 花が枯れるために一週間というのは成り立たない。いまの一秒の瞬間の花が原因で次の一秒の花がある。ものは止まらない。こころも止まらない。すべて流れていく。止まらないで流れるんだから、因果法則と言うのは絶対的な唯一な法則になる。それ以外はうわごと。知識人ともいえない、概念人間、シャボン玉人間のただのうわごとであって。因果法則が絶対的な法則。言っても言わなくても法則です。行為には結果がある。そこと我々の生き方をみると危険な生き方している。貪瞋痴で生きていて結果が出るのはどうしようもない。どうしましょうと、うろたえてもどうしようもない。食べ物を冷蔵庫に入れても変化はとまらない。条件が変わって違う変化プロセスに変わっただけ。同じスピードで変化し続けている。
  • 悪行為に結果がでることは誰にもどうすることもできない。それは理解しないといけない。
  • 因縁話:モッガラーナ尊者、ラッカナ長老が霊鷲山の近くを歩いていたとき、目連尊者にっこり笑った。ラッカナ:なぜ笑ったの? モッガラーナ:いまいう場所じゃない。釈尊の前でふたたび、ラッカナ:なぜ笑ったのと聞いて。モッガラーナ:そこで餓鬼をみた。頭は人間。しかし身体は想像を絶する長さ(25ヨージャナ)の巨大な蛇がいた、と。
  • 昔はなんでも「存在」で見るんです。人が歩いて疲れるくらいの距離=ヨージャナ。そうすると真理を語れる。「1ヨージャナ歩くとすごく疲れてのどもかわくでしょう」と。それで誰でも納得いく。測ってみると、軍人のヨージャナと、女性、年寄り、子供とぜんぜん違うことになるけど。説法では、万人に真理を語れる。現代思考の「ヨージャナは何キロでしょうか?」と言ったりするのはどうでもいい。「25回歩き疲れるくらいの長さ」と各自がとららえればいいでしょう。
  • 人頭蛇身の餓鬼の頭から火が上がる。それが身体中ひろがって、餓鬼を燃やしながら尻尾まで行く。だから長さが必要。短いと苦しみが少ない。尾からも炎があがって、ずーっと頭まで燃える。燃えない瞬間ない。どんな瞬間も身体燃えてる。身体の真ん中からも燃えて……。わき腹からも……。目連尊者、その餓鬼(霊)と話す。「あなたは何をやってこうなったのか?」と。
  • なぜ仏典の餓鬼のはなしはこんなにややこしいのか。
  • いかに、一般人は想像を絶するほど非論理的で無知な存在かということを言いたい。テレビの霊能者、身体見ただけで、いかに嘘いんちきかと分かる。でもあれは霊能じゃない。最初にデータとって、計算してストーリーを話すことはできる。ちょっと論理的にチェックしながら見るとそれは見える。でも「そこに○○さんがいますよ」と言われると信じ込んでしまうんだから。
  • スリランカの悪魔祓い、伝統。信仰として廃れた。病気のときに呼ぶのはやめたけど、霊に憑かれたという女性とかがいたら呼ぶ。でも悪魔祓いの祈祷師も、「この娘は結構適齢期だから、ちょっと変になってるんでしょう。だれかとくっつけちゃえば」と裏で言っている。祈祷師と悪魔が対話するのは漫才みたいで面白い。話し合って、相手の条件を聞いて、悪魔が「ではこの人の身体から退散する」と言うと、祈祷師が「それでは納得しません。証拠を出しなさい」と言う。日本では論理使わない。「いまそこに○○さんがいます」と言っても、誰も「証拠出せ」と言わないんだから。言ってしまうと番組の雰囲気が壊れるから、とか、お金もらっているんだからとか、それでは日本人が騙されないでしょうとか、俗っぽい言い訳ばかりです。
  • 仏典の例の話。餓鬼を見ても、そういうことは証拠なしに言うものではないと、お釈迦さまの前で話す。その場合、証人はお釈迦さま。お釈迦様が「私もその餓鬼を知ってますよ」と言えば、二人が証人。霊能者ふたりが証言一致しているなら、いくらかましでしょう(ぐるになってる可能性あるが)。日本ではそれもない。例えば、ある人のオーラの色が見る霊能者によって違ったりするのは何ですかね?
  • 人頭蛇身の餓鬼の因縁とは。昔、独覚ブッダが庵に住んでいた。その近所の田んぼの持ち主が、参拝者のマナーが悪くて、自分の田を横切って荒らすことに腹をたてて、留守中に聖者の庵を燃やした。そこで信者に殴られて殺された。(独覚ブッダは説法しないから、信者も行儀悪い?)地獄におちて、その業の残りで餓鬼道の蛇になったと。餓鬼道なりたつ。悪業の心が作った身体。改良できない。私たちの身体も業が作っている。微妙にでも変えたければ思考をものすごくきれいに変えれば、身体の欠点も完璧には消えないが、問題にならなくなる。身体の基本セットは業がつくる。業がつくるのは基本的なセット。その上にいろんな物質を入れるが、基本の骨組みの上につくる。外から入れた物質は燃やせば燃える。餓鬼道は業だけで身体をつくる。質量が薄いが、寿命が尽きるまで消えない。ほんとにそんな形か分からないが、人間にイメージできるように語っている。それでいいんじゃないか。餓鬼の身体を大きくイメージさせるのは「身動きできない」ということ。苦しい。餓鬼はだいたい身動きできない。すごく苦しい。神々も霊だが、楽しく暮らしている。一箇所にしばられない。動ける。
  • 分からなかったら、こう考えてみては?:自分の頭が幻想をつくっている。高熱で幻覚をつくっている。本人にとっては本物。高熱のとき見た幻覚の恐怖はジリジリと感じる。こころは怖い。地獄、餓鬼道は純粋に幻覚だけの世界と覚えておけば。こころが幻覚を作って、幻覚の中で生きている次元。生命にはそれぞれリミットがある。人間はいくらか自由。神々もリミットある。決まったプログラムでしか動けない。人間には工夫できる。だから人間の次元だけは無駄にするなと。人間の寿命はすごく短い。だから無駄にしてはいけない。無駄話は精神病になる。人間が無駄話するのは明確な悪です。精神的にいかれるのです。
  • Q:怒りのループで病気になると誰も救えないと。怒り人間になって止まらない。いつか地獄に堕ちるだろうと腹を決めるのが対処方法?
  • A:地獄に堕ちるだろうと思って、落ち着けない。地獄に堕ちたらもう何もできない。いったん悪業が結果を出すようになるとどうしようもならないようになる。「なんで私が、私に限って」と思って苦しむのも、悪業の結果のプログラム。悪業がそう思わせる。壁にボール当てて自分にぶつかってもまあいいやとい落ち着ける。理屈(因果関係)がわかると落ち着く。それも分からない。それで「なんで私が」と思うことが悪業になる。障害をもって生まれても、肉体的な苦しみはどってことない。その上、あとから屁理屈を叩き込んで精神的に悩ませる。いじめられる子も、観察すると本人にも「やっぱり」と思えるところがある。いじめられているのに「ごめんなさい、ごめんなさい」となぜ謝るのか。相手をけっとばせばしてやればいいのに。子供たちがいろいろちょっかい出したりするのは、本来、自然で、明るいことです。それで落ち込んで、「いじめられた」と日記に書いて自殺してしまう。これは悪業です。自分は被害者なのに、自分がいじめられていることを親にばれたくない、親にばれると親が学校に言ったりすると尚更かっこわるいと、自殺するまで黙っている。悪業はそうやって巧妙にプログラムして攻撃する。抜けることができなくなってしまう。だから、「いつか地獄に堕ちるんだ」と落ち着くのは危険です。
  • Q:では人頭蛇身の餓鬼になった人は、独覚ブッダに腹を立てた「怒り」に対して理性的に対応すべきだったということか?
  • A:そう。私たちは理性的な選択肢があるのに、貪瞋痴で判断してしまう。楽しむはずが苦しみになってしまう。行為に結果、行為に結果、これはどうにもならない。では、どうするべきか? 過去では間違いいっぱいは当たり前。悩んでもどうにもならない。すぐ今から道を変えるということ。それしか方法ない。前は悪いことしちゃったけど、地獄に堕ちないようにプログラムつくりますよと。私はなぜ妄想の悪口をものすごく言うのか? それは人間にとっての唯一の救い、理性。それを妄想が壊すんだから。海におぼれているけど、理性という唯一の浮き輪がある。それで腹を立てて、浮き輪を壊すのかと。人間が失敗したとしても理性だけはなくしてはいけない。だから妄想だけは、決して甘く見てはいけない。
  • Q:理性とは因果法則のこと?
  • A:因果法則に基づいて理性をもって対処すること。かといって、「これも過去の業だから」と思うことはダメ。具体的合理的に、「私にも生きる権利がある」と思って生きることです。理性は因果法則だからむずかしい。因果法則がわかっていない状況では具体的、合理的にものごとを見ること。占いと霊能力者などは敬遠する。自分で考えてやりますと。
  • Q:霊が見えるとか、霊能者に見えるとか、「そうであったらいいな」という妄想?
  • A:執着未練すてずにいる。言い訳探す。自分の行為の結果、家の雰囲気が悪くなることがある。そこで霊能者が出てきて除霊してくれたりする。結局、われわれの期待。実際に霊が邪魔するときはそんな生半可じゃない。実際の霊は外に出すのはそんな大変じゃない。仏教の世界では。三宝に帰依している人にとっては、すごい力。慈しみの気持ちなので、出て行けとかぜんぜんない。邪魔するのか、というくらい。そういうこと、無関心でいたほうがいい。
  • Q:チームで仕事していて、みんなで怒りを持って進めていく。ディスカッションで自分のいけないところを出す。全体的にうまく行っていないときの自分の対処方法がわからない。
  • A:二つ。1)正しい方法。いつでも世間では無知にリーダーシップ与えている。ゴルフの例でも、結局遊びじゃなくなっている。会社でも、無知が指導者になっている。だから、ちっぽけな結果にくたくた疲れる。現実主義者の理性ある人を監督にしないといけない。
  • Q:上の人ほど抽象的。中間の人が苦しんでいる。
  • A:無知だから昇進したでしょう。リーダーシップとろうとする人は無知だから。人を管理する方法はあるが、これは公では言いたくない。人を管理するのは正しくない。サル動物扱い。日光サル軍団はちゃんと芸をしているでしょう?日本の社会ではサルだと思わないとうまく行かない。理性ある人なら、気づかれることなく皆を管理する。ラショナルなアドミニストレーターが必要。ひとりひとりに実行のプランが必要。従業員は頭狂ったキャプテンの船に乗ってはいけない。会社倒産させることも必要。現代社会妄想中心の人々:いかに無駄するか。農民は無駄ない。そっちの方向に行かないといけない。そこでアイデアが出てくる。2)もうひとつ。あまり気にしないで冗談言いながら、時々まったく関係ないこと言い出したりして、冗談行ったり笑ったりしてチャンネルかえる。それでストレス怒りなくせる。ほんとは全体的に直さないといけないんだけど……。

(追伸:「いじめ」のくだり、舌足らずをちょっと修正しました。)

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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜