仏教は楽の宗教(パユットー師)

復路の「こだま」では、パユットー師『自己開発 上座部佛教の心髄』を読む。いま火事で燃えさかる家から一冊だけ手にとって逃げるとしたら、本書かもしれない。編集の入っていない自費出版で、誤字や誤植だらけの本だけれど、凡人の書いた仏教書を何万冊読んだところで決して出会うことの出来ない、宝物のような言葉が詰まっている。スマナサーラ長老の本を読んでいる人なら、パユットー師の知性の凄みがきっと分かると思う。四聖諦についての説明から、ちょっと抜書き。

仏教は楽の宗教

仏教は世の暗い面を見ると言う知識を欠く人に、愚鈍に従うなかれ
仏教の基本。苦は見るべきもの、楽は持つべきもの、感じるもの

 (前略)四聖諦の基本を見ると、仏教は苦で始まる。あるいは外部の人、いや内部の人でさえ、仏教は苦だけを教えるもので、すべてが苦、人生も苦だと見るものだと考えている。
 西洋人もあるいは仏教は悲観主義であると言うだろう。世を悪い面で見る。百科事典と西洋人の教科書を見てみると、多くのもの、大部分のものが、仏教について触れて、仏教は人生を苦と見ている。人生や生存が苦である、といったことが書いてある。しかし、これは大きな誤解を招く。
 この点を仏教徒自身が明確にしなければならない。
 このことを説明する前に、もう一つ気付いたことを述べておこう。教科書、或は、理論で仏教を学んだことのない人たちが、ふらりとタイへやって来て、タイ仏教について見る光景は、本で学んだ人たちの印象とは逆かもしれない。
 本を読んだ人たちは、仏教というものは何を教えるにしても、人生は苦であり、不快なものだと見るものだと、理解しているかもしれない。
 本を読まずにただタイは仏教国とだけ知って、ふらりとタイへやってきた人たちは、タイの人たちを見ると、スマイルの国と呼ばれるのに相応しく明るい笑顔を作っていて、タイ国は幸せな国だなと感じるかもしれない。
 以前に若い西洋人の男女が拙僧を寺に訪れて来たことがある。知らない人で、誰が紹介したかも知らない。どういう用件か聞くと、仏教について知りたいと言う。来るまでは関心がなかったが、来て早朝に窓から外を眺めると、明るい笑顔をしたタイ人が見える。タイ人を見ると幸せそうだ。仏教は何を教えてタイ人を幸せにするのかと。
 (中略)
 これがもう一つの印象である。タイ人の生活の状況を来て見た人にとって、仏教徒は幸せである。いつも深刻な顔だけで笑顔も見せず、苦悩が多くて精神を病んでいる西洋の国とは逆だ。
 同じ仏教徒の姿のなかに、苦と楽が一緒にあると言うのはどう繋がりがあるのだろうか。私たちが基本を正しく把握していれば、このことに何の問題もない。
 回答はこれまで話してきた四聖諦の基本、あるいは、四聖諦に対する義務にある。仏教は苦から始まる四聖諦を教える。苦に対する義務は遍知、すなわち、それを知悉することである。苦になる義務はない。というのは、問題は私たちが知り理解することである。もし私たちが問題点を捉えられなかったら、問題を解決することはできない。
 (中略)
 誰かが苦を身体に受け止めたら、誰かが自らを苦にしたら、実践の基本を間違えたことを示す。仏陀は人を苦にすることをどこにも教えていない。ただ、解決するために苦を遍知せよとだけ教える。道は別である。私たちが実践して行う道は別である。
 苦と逆の楽は四聖諦のどこにあるか。楽は滅の中、つまり、目標の項の中にある。しかし、ここでは楽という言葉はあまり使わない。というのは、この楽は常に相対的なものだからだ。楽がある限り、まだ苦が混じっていることを意味する。まだ、苦は脱していないのだ。(中略)
 仏教は、苦がない、或は、苦の残りがない時の判定基準を認める。仏教の目標は苦の残りがないことである。この真の滅は単に苦を消滅したことを意味しない。「滅」ということが、「苦が生じないこと」という意味であることに注目して欲しい。苦を消滅するというのは、まだ苦が残っている。だから、消滅しなければならない。私たちが仏教の目標に至るまで実践すれば、苦のない、苦の残りがない滅尽に到達する。もうこれから先、苦は生じることはない。
 実践中、関わっている間は、苦は減少し楽が増えている。だから、楽は滅の側、目標の側にある。滅に対する行い、または、義務は、すなわち、能証である。明らかにするという意味である。つまり、自分たちに明らかにする、或は、到達することである。従って、楽は私たちが到達した状態がどんどん増すことだ。
 苦は私たちが遍知することである。それから、解決の道を求める。もし、目標に進めば、楽が徐々に増え、苦が徐々に減り、苦がなくなり、真の楽になる。「涅槃は最高の楽」(nibbqqnaM paramaM sukhaM)である。実践の間、私たちは苦から遠のき、楽がだんだんと増えてくる。
 だから、真の生活、実践においては、仏教徒は楽が増加し、苦はだんだんと減る。これが真の生活である実践的仏教を見ることである。だから、西洋人が仏教徒は明るい笑顔をしていると見るのだ。しかし、基本をきちんと把握しない人が書いた理論的な本を読めば、苦から始まるので、仏教を苦だと見る。しかし、本当を言えば、仏教の基本も仏教の実践も一致していて一つである。
 仏教徒はこの四聖諦に対する行い、義務の基本を把握せねばならない。
 一、:私たちは、遍知、覚知、知悉する義務がある。それがどこにあるか、どんなものか、解決するために、学んで理解し、はっきりと把握する。
 二、:苦の原因であり、、駆逐、改善の義務がある。
 三、:能証の義務がある。苦を滅尽する目標を達成し、楽を増やす。
 四、:この項だけが修習、実践の義務である。
 要約すると、仏教は苦については智慧が知るように教える。しかし、楽についてはそのように本当の生活をするように教える。
 短く言えば、仏教は苦を覚知し、楽に過ごすことを教える。
 それをもっと短くすれば、仏教は苦を見、楽に暮らすことを教える。見るための苦、暮らすための楽。
 だから、仏教は楽の宗教であり、苦の宗教と見るべきではない。(後略)

『自己開発 上座部仏教の心髄』pp20-24

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