京都にて

昨日今日と京都泊。今日は朝から夕刻まで、スマナサーラ長老と山折哲雄氏との対談企画の収録。たいへんエキサイティングな対談となった。


対談中、スマナサーラ長老は「この目の前のものを見て、人間は花だと認識して美しいと思う。ミツバチは餌だと認識して寄ってくる。猫は何だか詰まらないものだと認識して引っかいて破ろうとする。目に入る情報は同じなのに、それぞれ勝手バラバラに認識(誤認)するのです」といった趣旨のたとえ話を使って、認識=誤認だというお話をされた。


話に聞き入りながら、お釈迦様についてアイデアが浮かんだ。


私たちのよく知る釈迦涅槃図には、お釈迦様が沙羅双樹の下で亡くなられた時、周りにいた出家の仏弟子や在家弟子たち、神々やあらゆる動物たちが、それを嘆き悲しむ姿が緻密に描かれている。いつもそれぞれ勝手バラバラに情報を認識=誤認して、対立し、苦しみ続けている生きとし生けるものが、お釈迦様の入滅に際して、ともに悲しんだ。これはつまり、ブッダの大いなる心配(カルナー)が、まさに一切衆生に平等に向けられていたことの芸術的表現なのだ、と。


ブッダって、なんて尊いんだろう。(;_;)

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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜