パユットー師『仏法』を読む(1)

15日のエントリで触れた『仏法 自然の法則と生きることの価値』プラプロム・クナーポン(パユットー師 Phra Prayudh Payutto)/野中耕一・訳(自費出版)だけど、引き続き精読中。それどころか、書写(PCで)中。スキャナで取り込んでOCRで……なんて無粋なことはしない。一文字づつタイプして抜書きしてる。惚れ込んだ本なので、これから折に触れてご紹介していきたい。amazon.co.jp で調べたら英訳も出ていた。

Buddhadhamma: Natural Laws and Values for Life (Suny Series in Buddhist Studies)

Buddhadhamma: Natural Laws and Values for Life (Suny Series in Buddhist Studies)

Buddhadhamma: Natural Laws and Values for Life

ただし、下記を読んでもらえば分かるが、野中訳の日本版の方が内容が濃いらしい。そして英語の法話集サイト(The Works of Ven. P. A. Payutto)もあった。菩提樹文庫の諸君、健闘を祈る。

そんなこんなはともかく、「あとがき」の内容紹介とパユットー師の履歴紹介を抜書きメモ。(390p-401p)

『仏法 自然の法則と生きることの価値』とはどんな本か? 

 パユットー師による「仏法」という本が二冊ある。いわゆる「原版」(チャバップ・ドゥーム)(三七五頁)と命名されている本書と「増補改定版」(一一四五頁)である。
 本書は七一年にナラーティッパポンプラパン殿下の八〇歳記念の法施として「タイ社会学会」の社会学と人類学教科書計画の「ワンナワイタヤコン」の一部として出版されたのが最初である。その後、七六年と七七年に葬儀の際の法施として出版され、さらに八三年には文部省から出版された。また、その内容が一部改訂されて、八三年から八八年にかけて、スッカパープ社から四回出版されている。また、八八年にはDr.Grant Olson により、翻訳出版もされている。
 今回訳出したものは、〇一年に大幅に改訂増補された改訂増補版で、一〇版目に当たるもので、頁数も初版の二〇六頁から三七五頁へと大幅に増加されている。
 一方、「改訂増補版」の方は、原版に遅れること十年の八二年にチュラロンコン大学から出版されたのが最初である。その後、さらに改定増補を加えながら、〇〇年には一一四五頁の大著となって、九版が出版されている。
 著者によれば、本格的な「改訂増補版」を出版して以来、この「原版」の方は改訂にも限界があり、出版を中止する予定だったとのことであるが、法施として出版したい人がいた上に、コンピューター時代の到来によって、改訂が容易になったことで、大幅に改訂増補して出版することにしたという。両者を比較すると、改訂増補版は本格的な専門書であるのに対して、こちらはすでに「原版」というより、「普及版」と称した方が適切な役割がありそうである。私が翻訳に用いた本書は、カセサート大学のティラ学長の還暦祝いに、有志が資金を出し合って「仏法」一〇版として増刷して献本されたものである。
(中略)
 本書に眼を通されれば、パユットー師の説かれた仏法の体系は明らかである。ここではそのうち特に私にとって印象深かった点を中心にして簡単に説明しておきたい。
 まず、本書は次のようなタイトルの二部から構成されている。
 第一部 「中に縁る説法……自然界の中立の真理」
 第二部 「中道実践……自然の法則に従う実践項目」
 パユットー師は、仏法の基本は「真諦の法=真法」(Sacca-dhamma)と「所行の法=倫理」(Cariya-dhamma)からなる。「真法」とは、自然の法則に関する教えであり、「倫理」は「真法」を理解した上でなすべき「実践」であるとされる。この考えに従って、ある「法」を説明されれば、理解した上でなすべき「実践」であるとされる。この考えに従って、ある「法」を説明されれば、理解した上でなすべき「実践」であるとされる。この考えに従って、ある「法」を説明されれば、必ずそれに対してなすべき「倫理」の説明があるし、また、全体の構成も第一部が「真法」の説明、第二部が「仏教倫理としての実践」の説明というように構成されている。
 「真法」の説明で最も強く主張されているのが、仏法は、自然界に自然にある法則ということである。これは特に日常の言葉の上でも、パーリ語の影響を受けているタイ人にとって非常に分かりやすい説明である。タイ語で「法」は(タンマ)、「自然界」は法が生まれる(タンマ・チャート)、「自然に、普通に」は(タンマダー=法性)という。つまり、タイ人にとっては、「タンマとは法を生み出す自然界に普通に見られる法則」ということになるから、「仏法とは何」と形式ばって議論する必要はまったくない、ということである。
 それではその自然界の法則とは何か。ここで、三相と縁起が詳しく説明される。三相については、きわめて自然科学的な説明がなされている。例えば、苦については、一切が変化する(諸行無常)中で、圧迫、軋轢が強まるが、それが心の中に生じると苦であると説明されている。
 縁起については、特に詳しく説明され、「一切のものは依存関係にある因縁の過程である」ということが機会あるごとに強調されている。その考えは、サブタイトルの「中に縁る説法・・自然に従う中立の真実」にも表れている。「来世はあるか、ないか」とか「苦は自作か、他作か」などの質問に対して、仏陀がお答えにならなかったという仏語が、よく引用されるが、これはそのような単純(極端)な見方ではなく、物事はあらゆる因縁によって生じるものであるから、慧を用いてよく思慮せよ、という教えである。
 第一部のタイトルは「如来は二極端(二辺)を離れて、中に縁りて法を説く」(相応部因縁篇)から来ているし、第一部はほとんどすべてこのことについての説明であると言っても過言ではない。
 次に、十二縁起の説明で特に注目されるのは、無明から苦への一方的な流れの説明ではなく、円形で図示されているように一つの循環として説明されていることと、後半の「有」、「生」などを自我の発生で説明されていることである。注にもあるように、これらは「清浄道論」の中で、説かれていることであるが、師は、これを図示してまで強調されているので、一般の読者にとって、理解しやすいものとなっている。
 第二部は中道による実践篇である。ここの中心は当然「八正道」の説明になる。八正道は戒、定、慧の三学に集約されるが、ここで師は「善友」「不放逸」「如理作意」の三つの法がその三学のいわば入門篇であるとしてその意味を強調されている。
 全体として、師が強調されていることは、仏法を体系として学んで欲しいということである。
 一つの法は独立してあるのではなく、他の法と関連しているので、法の実践には他の法との均衡が必要であると強調される。
 その一例として、師はよく知られている慈悲喜捨の「四梵住」を取り上げて、このことを易しく説明されてるので、ここで紹介しておこう。(「指導者の任務」(〇四年)や「人間開発」(〇四年)参照)
 人間は四通りの状況に置かれるという。その状況に合わせて法を実践しなければ、良い結果は生まれない。これを四梵住の場合で考える。
 (一)正常で何の問題もない状態。「慈」をもって幸せになって欲しいと願う。
 (二)人が落ちぶれて苦しんでいる。「悲」をもって心配し、共に苦から逃れる方法を探る。
 (三)人が成功して幸せな場合。三番目の「喜」をもって共に喜ぶ。
 四梵住は人間同士に関係する法であり、以上は人間同士の関係をよく保つための法である。しかし、これだけではバランスを失する。これだけだと馴れ合いの社会になる恐れがある。
 (四)法に対して間違った行いをした者に対しては「捨」で対応しなければならない。この場合の捨は、偏りのない、中立の態度である。
 パユットー師は、このように一組の法がばらばらに分散されたのは、ある時期に教育省で仏教倫理から離れて一般倫理学を導入しようという試みがなされたことによると指摘されている。
 仏教を体系として学び、一組の法をバランスよく実践して欲しい、ということは、最近タイ国内でブームになっている「座禅」に対しても向けられている。これによって、精神を統一して心に安らぎを求めること自体は、決して悪いことではないが、これを「八正道」の中の「正念」として実践し、慧を求めることが王道である、というのが師の見解であろう。
 さて、パユットー師の説かれる「仏法」はタイの仏教界でどのような位置を占めているのであろうか。このことについては、前回「自己開発」を翻訳編集した際に、現在のタイの仏教界の中堅の学僧であるパイサーン師の評価を紹介した。多少、重複するがその一部をここで紹介しておこう。
 パイサーン師は、パユットー師の還暦記念文集(一九九九年)に寄稿した「プラタマ・ピドック師とタイ国における仏教の発展」という論文の中で、
 「二十世紀に入って以来、タイ仏教の歴史にとって重要な発展は、ワチラヤーン殿下とプッタタート師とこのプラタマ・ピドック師のお三方によってもたらされた先に[」]とし、中でもプラタマ・ピドック師は「仏教の法の基本を包括的に取り出して、これまでになく最高の繊細さで体系化した」とパユットー師の業績を高く評価している。
 また、師の説かれる仏法では、社会の次元に重要性をおくことはタイの仏教から消えていたことであるが、多くの法の項目が個人レベルの関係から、集合体としての社会との関係を含むように拡大されている。仏法で法を守ることは、自然の法則に従い真実と正しいと幸福を尊重するほかに、社会の合法的な原則や規則を尊重するという、二つのレベルを持つことに拡大されている。社会全体に対する意識と義務を強調した倫理体系は、これまで個人レベルの戒律の価値しか見てこなかったタイの仏教界では画期的なことである、と評価されている。
 また、先に触れた「三学」についても、三学が生まれるには、社会的要素に依存しなければならないとし、パユットー師が、特に「他からの声」と「善友」に関する法について教えた最初の人である、また、「正見」のために必要な内部要素として、「如理作意」の重要性を指摘されたが、これはタイの仏教界では何十年となく忘れられていたという。
 この他、特筆すべきことは、師の「人間至上主義」である。人間は自己を開発して真実と最高の善、美に達し、自由を獲得できる潜在能力を持つという信念である。師が人間は自己開発できる、自助の精神が必要だという信念は、正に本書のタイトルにも表れており、研究者やNGOの活動家のみならず、自助を目指して奮闘している農民にとっても大きな励ましであり、大きなインパクトを与えている。
 前回翻訳した両書と本書を通じて見られることは、師が仏法の中心課題を自己研鑽、或は、人間開発においておられるということである。日本では上座部仏教は、小乗仏教であり、自己の解脱だけを考えるものであるという理解が一般的であるが、師の主張は自己開発を通じて、人の解脱だけ考えるものであるという理解が一般的であるが、師の主張は自己開発を通じて、人や社会に貢献すること、或は、そのための自己開発である、という立場で一貫している。そういう意味では他人や社会との関わり方は、大乗仏教に勝るとも劣らないものであると言えよう。(以下略)

パユットー師(Phra Prayudh Payutto)の履歴

 ここで、パユットー師の略歴と著作について簡単に紹介しておこう。
 師は一九三八年一月、スパンブリー県生まれ。本名、プラユット・アーラヤーングーン。十三歳の時、出家して沙弥になる。そして沙弥の時(二十歳未滿)に、パーリ語の最上級の九段に合格した。パーリ語九段に合格することは至難のことである。いわんや二十歳未滿の沙弥では、それこそ稀有なことであった。(石井米雄教授の著作『戒律の救い』(六九年)に、先年、パーリ語試験創設以来、見事パーリ語九段に合格した三人目の栄光の沙弥があって、各紙が大々的に報じている、とあるから、時期から見て、或は、師のことかもしれない。(師の伝記では四人目となっている)なお、石井教授の本書及び『上座部佛教の政治社会学』には、若かりし頃のパユットー師が、佛教大学のカリキュラムの変更に関して、宗教的指導者の伝統的地位の回復を試みている、との記述がある)
 沙弥で、パーリ語九段合格の功績により、六一年、王室の関係者の立場で通称エメラルド寺院にて得度。
 六二年、チュラロンコン仏教大学で仏教学の学位を取得(首席)。その後、功績により、各大学で名誉博士号を受けられたのを始めとし、各種の賞を受けておられるが、これは一々記さない。ただ、九四年にユネスコの平和賞を受賞され、師の業績が広く国際的にも知られたことだけ記しておこう。
 現在、ナコンパトム県、ヤーナウェーサカワン寺の住職である。
 僧位としては、六九年にすでにソムデット・プラサンカラート〈法王)とソムデット・ラーチャーカナに次ぐプララーチャーカナの高い僧位であったが、二〇〇四年にはさらに僧位が上がり欽賜名も変わった。師の僧位については詳しく書いておく必要があるだろう。何故なら、僧位が上がると欽賜名も変わり、師の著作名がそれに従って変わっているからである。
 例えば、後述の『仏教辞典―仏法篇』の著者名はプララーチャ・ウォーラムニー、『仏法』の著者名はプラタマ・ピドックとなっているが、両書ともに、パユットー師の著作である。

  • 六九年 僧位、プララーチャーカナ・サーマン 欽賜名 プラシー・ウィスティモリー
  • 七三年 僧位、プララーチャーカナ・ラーチャ 欽賜名 プララーチャ・ウォーラムニー
  • 八七年 僧位、プララーチャーカナ・テープ 欽賜名 プラシー・ウェーティー
  • 九三年 僧位、プララーチャーカナ・タマ 欽賜名 プラタマ・ピドック
  • 〇四年 僧位、プララーチャーカナ副長(銀板) 欽賜名 プラプロム・クナーポン

 これまでの著作は、ユネスコ賞受賞を記念した『ポー・オー・パユットー』(ポー・オーは本名の頭文字)の巻末資料によると、九四年時点で、英文も含めて百六十五冊である。この語、現在までに何冊の著作があるか、正確にはよく分からないが、各所での講演記録まで含めれば、さらに膨大な数の著作があるものと想定される。九九年に編集された、『プラタマピドック師の法見解の十年』によると、寺から譲り受けた本は、二百五十冊、(最近刊の書籍によれば、三百十二冊以上とある)と膨大である。さらに注目すべきことは、著作が仏教に限らず、多くの分野にわたっていることである。九四年に出版された『プラタマピドック師の伝記』の巻末資料に、師の著作が分野別に分類されているが、文化、教育、社会、経済、政治、科学・技術・環境、医学、日常生活など、正にあらゆる分野を網羅していると言っても過言ではない。
 仏教関係では、本書以外に『仏法』(増補改訂版)、『佛教辞典―仏法編』『佛教辞典―用語篇』が有名である。また、英文では、Thai Buddhism in the Buddhist World,Buddhist Economy,Buddhist Solution for Twenty-first Centuryなどがある。

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