「ブッダが推奨する「クリーン」な生き方」3
18:30〜スマナサーラ長老の朝日カルチャー初期仏教入門「ブッダが推奨する「クリーン」な生き方」3回目。 潔癖症の正体を暴露する(気づきが付きにくい「自己愛」の暗躍) 前半は現代日本人にはかなり耳の痛い心理的発達(葛藤の激化)という観点からの子供の生育論。当日のいい加減なメモより。
●「自分は満点」という前提
- 人は誰でも例外なく「自分は満点」だと無意識的な前提で生きている。これは「きれいな生き方」に挑戦したい人が理解すべきポイントです。
- そういう前提で生きているのに、なぜ「我は完璧」という実感がないのか?
- 子供は1歳半くらいまで自分のことを木にしていない。成長につれて「我は完璧」という気持ちがなくなる。赤ちゃんは正直に自分が完璧だと思っている。強烈な自意識はない。
- しかし成長するにつれ、出来ることより出来ないことの方が、認められることより認められないこと、成功より失敗が多いこと、に直面する。
- それでもめげずに頑張る。親に依存している間(幼児期〜)は子供は明るい。自立していく過程でドンドン暗くなる。内心的葛藤が起こる。(日本の子供が明るいのは幼稚園までです。)
- 勉強したいがその気になれない、明るくいたいが出来ない、友達を作りたいがうまくいかない等に悩む。
- その理由:世界は自分が思ったとおりとは異なっている、ということ。
●葛藤に対する対応<正>……妥当な対応
- 親や教師、世界が自分に合わせるのではなく、自分が世界にあわせるべきと躾をしなければならない。
- ワガママは通じないという事実を教えなくてはならない。
- 成功も失敗も、認められることも認められないことも、必須。避けられない。
- しかし、人は成功するように、認められるように努力するものだと教えてあげるべき。
- ただし、世界にあわせることは無条件ではない。「正しいもの」に合わせ、正しくないものは断る勇気が必要。
- では、「正しい」とは何か?
- 共通する正邪の判断は世間にもない。親も教師も知らない。<これが解決すべき問題>
●葛藤に対する対応<不正>……ダメな対応
- 何でも褒めてあげる。認めてあげる。
- 余計なポジティブ思考だけを叩き込む。
- わが子は常に正しいと思い、間違いは他人のせいにする。
- やれば何でもできると呪文のように言うが、具体性がない(こうやればできる、というやり方が不明。親も知らない)
- このような人(親)に限って、子供が失敗したり落ち込んだりしても、それに対する対応策もない。
●完全失敗
- 親が子の「私は完璧だ」という気持ちに気づかない。
- それを認めてあげる。
- 「私は完璧だ」という気持ちを破ることをしない、できない。
- わが子の怒り、攻撃に弱い。
- 何でも喜んでしてあげる。
- 子供の奴隷になる。(この時点から「親」ではない。)
- 一人の人生を破壊する人は「親」とは言えない。
- 目上の叱る存在がなくなる。(奴隷が二人いるだけ。)
- 子供には成長ができなくなる。教師とも噛み合わない。
- 子供は「私は完璧だ」という気持ちのまま大人になる。
- 精神病的、暴力的、独裁的な人間になる。
- たまに弱いものの協力を得て社会で成功することもあるが、間もなくだめになる。(独裁者)
- 協力者(家来)に出会うことがなかった場合は、社会から追い出されてしまう。
●「完璧魔」は死ぬまで襲う
- 「自分は完璧」という気持ちに実感がなくても、世界に併せて生活しても、精神的に悩むことはなくならない。結局悩んでいる。
- 落ち込んだり、起こったり、傲慢になったり、闇雲になったりすると、生きていても不満感が残る。
- 老いること、病気になること、死ぬことに悩み、苦を実感する。
- 世界にあわせることとともに、世界に対立することもある。
- 善悪区別なく、ただ生きることに挑戦することになる。
- 生きることに忙しくなる。ヒマがあっても、失敗に対する悩み、成功に対する自慢で頭がいっぱい。ヒマがない。
- 精神的にヒマ(余裕)がないと、キレイな生き方できない。
●自我愛、自己愛の問題
- 自分が完璧だなんて思っていない?
- 人はそういうが(頭ではそう思うが)、本心は違う。人は皆、偽善者なのです。
- もし本心から「自分は完璧ではない」と思っているなら、なぜ落ち込むのか。自信喪失したり、怒ったり、不安になったり、恐怖、緊張、ストレス、幸福・充実・喜びを感じられない状態になったりするのか。
- 「上手になりたい」という気持ちはいい(具体性ある)けど、「完璧になりたい」と思う(具体性ない)のは危険です。
- 自分が不完全だと本心から思う人に、精神的な悩みはありえない。
- 人生は、その都度、その都度、喜びと充実感を感じて生きられるはず。
- 行動・生き方を見ると「罪」を犯さないはず。
- 人と戦わないはず。だれとでも喧嘩をせず、こころの中で「平和」・「安らぎ」を感じるはず。
- つまり「キレイ」に生きているはずです。
後半は認識とパパンチャ(妄想・戯論)の成り立ちについてかなり突っ込んだ解説。鳥頭に残ったところのみ。
●自我の幻覚
- 仏陀は「生命が認識する過程で突然現われる概念・気持ち」として見ている。
- いかなる現象も因縁によって現われる一時的なものだと仏教は語る。
- 法則に従ってものごとは起こるが、前もって決まっているわけでも、定めているわけでも、自分以外の原因によって管理されているわけでもない。
ここから「触phassa」の二つのはたらきなど、認識のプロセスについて詳説。略。
●データは捏造される
- ヴィンニャーナ(vinnaana 識),サンジャーナナ(sanjaanana 知覚),パパンチャ(papanca 妄想)という知(認知・認識)の三段階のなかで「私」が捏造される。
- しかし捏造した知識(妄想)は自分があえて作ったものなので頭のなかに残る。
- 自分が知ったものはそのとおりで「正しい」と執着する。
- パパンチャ(妄想)に基づいて生きる。これは汚い生き方である。
- 知(認知・認識)の三段階は瞬時に起こるので、データを捏造して知ることは避けられない。しかしそのカラクリに気づくこと。捏造したデータに執着してはならない。
- 認識プロセスを理解して、知ることは条件付の「知」であることを理解すること。
- 汚れた生き方は思考の問題である。「自我」という実感がある限り、生きる事は汚い。
●仏教は無我説
- 仏教学の世界では、ブッダの教えを自分の主観に合わせて訂正することが横行している。非科学的、非学問的な「研究」ばかり。
- 「仏教は無我を説かなかった、ただ五蘊非我を説いただけ」云々というモノイイはその最たるもの。
- 学者本人の、我に執着したがる、知識に執着する素直な気持ちを吐露しているだけ。話にならない。
- 釈尊がatta,attan という語を使う場合、日常の言葉として条件付で使うのだと、世間の常識的な単語・言語的な表現のみであると、経典中に明確に説かれている。
- サンニャー(想,概念)が現れない状態が解脱である。
- 自我意識があるからサンニャー(想,概念)が生まれる。
- サンニャー(想,概念)が現れない状態を究境とする仏教は、『無我説』である。
- 個人に「自我感」があるからといって、他の全ての宗教が我を認めるからといって、ブッダも我を認めなくてはならないという筋合いなし。
- 自我意識は一切の悪(汚れ)のもとである。
毎度のことながら、ものすごいお話でした。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜