スリランカの本・三笠宮

今日のお布施者はOさんSさんのコンビ。在家の昼食のときに夫婦ともどもご相伴に与った。午後は女性陣がHさんと一緒にプランターの植替え。前日よりは電話も少なく、比較的穏やかな一日だった。法話音声データのHDコピーをしながら、スリランカ関係の本を読む。

恋こがれてスリランカ

恋こがれてスリランカ

精舎の本棚に挿してあった本。意外と役に立つ情報も載っていた。「スリランカの情報はなぜ少ない」(P185〜)には日本でスリランカ関連の情報が極端に少ない(2001年当時)理由について驚くべき裏話を紹介している。1996年にフジテレビのニュースジャパンがサルボダヤを取材するとしてビザを詐取してLTTEに同行取材し「殺戮の島」というセンセーショナルなタイトルの番組をつくった。そのことがスリランカ国会でも取り上げられるほどの問題となり、スリランカ大使館はテレビ局に取材ビザを出さなくなった。許可する場合も番組内容の事前検閲を要求するような姿勢をとったのだという。そのため一時期は在京スリランカ大使館がビザ発給に関与するバラエティや紀行番組など、スリランカの光の面を紹介するテレビ番組はほとんど制作されなくなってしまい、血なまぐさいテロを伝えるニュースのみが日本人のスリランカイメージを形成してしまったのだと。スリランカ大使館の「過剰反応」には、当時の駐日大使がタミル人で、政治的に微妙な立場にいたことも影響していたらしい。

スリランカ―人びとの暮らしを訪ねて

スリランカ―人びとの暮らしを訪ねて

スリランカフェスティバルで澁谷利雄先生から頂いた読み物。見過ごしていたけどホントは『アジ活』まとめる前に読んでおくべきだったなぁ。特に澁谷先生のセクションは面白い。「I 信仰と祭り 2 ウェサック祭と日本の提灯」(P24〜)では、スリランカのウェーサーカ祭で日本のお盆灯篭がウェサック・クードゥワとして盛んに用いられるようになった経緯について触れている。やはりオルコット大佐とダルマパーラの初来日(1889年)がひとつの契機になったらしい。この旅を通じて、スリランカには日本のお盆灯篭がブッダを荘厳するアイテムとしてもたらされ、日本には世界仏教の連帯を表す仏旗(国際仏旗)がもたらされたのだった。


ところで『大アジア思想活劇』(オンブック版)で唯一発言を引用している皇族であられまする三笠宮崇仁親王(日本スリランカ協会の名誉会長にして仏紀2500年(1956年)にコロンボで開催されたブッダ・ジャヤンティにも国賓として参列された)について、興味深いテキストを見つけた。ニッポンリポート 事件史余聞編 三笠宮の中国(佐久間 哲)という記事だ。1944年、三笠宮連座したという東条英機暗殺計画「津野田事件」の背景と顛末が詳しく紹介されている。

(前略)
 44年1月13日、三笠宮は大本営陸軍参謀を命じられ、東京に帰っていった。南京を離れる直前の1月8日、三笠宮は、軍人としてではなく、皇族として、「大東亜戦争必勝南京居留民大会」に出席した。
 当時の新聞報道によると、三笠宮は身をつんざくような寒風の中を、馬上から、在郷軍人会、青少年団、大日本婦人会などの分裂行進を巡察した。「身近にご気高き殿下のお姿を仰いだ居留民一同は、恐懼して感涙にむせび、決戦下奉公の誠を誓い奉ったのである」(朝日新聞、44年1月15日付)。
 しかし、機上の人となって中国を離れた三笠宮の心は、居留民の「決戦下奉公」とはかけ離れたものであった。
「わたしが南京に在住していた1年間は、司令官以下、この対華新方針の徹底に最大の努力をした。そのこと自体はまことによい変化ではあったが、すでに手遅れであった。ただ、焼け石に水に過ぎなかった」
「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば聖戦というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯したいまわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」
「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」
「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」
 三笠宮は、『わが思い出の記』でこのように心境を書いている。「求めるものは、ただ和平のみ」と考えていたときに起きたのが、東条暗殺計画の「津野田事件」である。
「南京の支那派遣軍参謀から、大本営参謀になられたとき、すでに三笠宮殿下の胸中には、深く和平救国の強いご決意があった」と、津野田事件に連座した浅原健三は語っている(朝日新聞、46年12月6日付)。
 浅原健三は、20年、八幡製鉄の大ストを指揮し、「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句で有名だ。無産党代議士も務め、満州国協和会に関係し、石原莞爾と強い結びつきを持っていた。38年、治安維持法違反で検挙され、国外追放にあう。上海に落ちついて、軍の払い下げ物資を扱うなど手広く商売をやり、成功していた。浅原の上海の邸は、数千坪の庭に、部屋は3、40あるという豪壮なものだった。中国人相手の商売だけに、中国人をよくしり、中国人にも信頼されていたという。
 浅原の手記『陸軍刑務所ばなし』と前掲の朝日新聞記事などから、津野田事件の概略を説明しよう。
 三笠宮支那派遣軍参謀だったとき、辻の部下に津野田知重という少佐がいた。三笠宮と津野田とは、士官学校時代からのしりあいらしく、前述した三笠宮の講演記録を配ったといわれるのが津野田である。津野田は前任の北支山西駐屯の第36師団参謀時代、参謀長の今田新太郎大佐の影響を受け、石原莞爾の東亜連盟思想の信者になったという。そのとき、浅原に会えと勧められ、総司令部に転任した後、浅原邸にしばしば出かけていた。三笠宮も津野田に紹介されて、浅原とは面識があったともいう。
 南京で、三笠宮と津野田は、戦局の行方、日本の将来などについて、よく議論したらしい。東条政府のもとでは、日本はだめになるということで、2人の意見は一致したという。
 44年1月、三笠宮は大本営に転任し、6月には、津野田も大本営に異動する。
 5月の下旬、浅原の邸に津野田がやってきて、三笠宮から津野田に送られた手紙を示しながら、「東条崩壊後の内閣はいかなる人物が適任か」「その内閣はいかにあるべきか」「重慶政府との和平方法は」などについて教えてほしいというのだ。
 太平洋戦争に反対だし、日支平和に賛成という浅原は、心よく受けて、巻紙1本にもわたる長文の意見書を書いた。
「全戦域にわたる全面撤兵」「大東亜戦の原因をなした満州の放棄」「日米華による東亜の経済開発」の根本策を提示した。さらに、対米英和平への一段階としての日支和平のための内閣は、国民を承服せしめ、軍政両面を威圧し得る人物でなければつとまらない。それには、直宮か東久邇宮あたりがほんとうに決心して、その衝にあたるべきだというものである。
三笠宮にご披露する」といって、津野田は東京に行った。
 浅原によると、「殿下のみ心を体し、密かに和平についての奉答書を奉った」のは、浅原のほかに、石原、津野田であった。
 いずれも、重慶を通じての対米英和平であり、東条内閣では、絶対に全面的和平が考えられないし、米支も決して相手にしてくれないというのが大前提であった。
 浅原の奉答書は前述したが、石原莞爾のものは、作戦によって和平の機をつくるというもので、ニューギニアラバウル、ビルマの一角を放棄して、圧縮された戦線で、完全な防衛態勢をしいて、静かに重慶を通じて対米英和平を待つというものである。
 津野田の策は、統帥と軍政との不一致を理由に、参謀本部の玄関で東条を斬りつけ、東条を取り巻く主戦派数百名を次々に倒し、一挙に主戦派を抑えて、皇族内閣をいただく。そして、信を世界に問い、正論を持って、当時の歪められた戦争指導の重圧から脱しようとするものであった。津野田が東条暗殺という非常手段を考えたのは、当時の好戦的な情勢から見て、到底尋常一様のことでは不可能と考えたからである。
 三笠宮の手元に届いたであろう3つの奉答書などを中心に、秩父宮高松宮、そして三笠宮の3人は密かに箱根に集まり、検討したという。
 ところが、この計画は三笠宮自身の手によって崩されてしまった。
「東条一派が首脳を占めている間は、和平はできないと参謀(津野田)は考え出したわけです。そうはいっていたけれども、テロを考えようとは、私も思わなかったし、私もぼんやりしていたんで、まさか大本営の参謀ともあろうものが、東条さんにテロをやろうとは思わなかった。
 そのうちに、その参謀は中国に行った。ところが、テロの材料をとりに行ったということがわかってきたのですよ。それから、私もびっくりして、それはとんでもない話で、東条は悪いかもしらんけれども、いま、とにかく、日本の首脳者を暗殺なんかしたらば、これは国内が目茶苦茶になってしまって、戦どころの騒ぎではないので、やろうという連中は、東条がいなくなれば、石原莞爾なんか上に持ってきて、あっさりゆくというように簡単に考えていたんだけれども、そうはゆかない。
 2・26というような国内、あれは平時でさえ、相当混乱したのに、アメリカといちかばちかやっているときに、2・26の二の舞をやったら、日本はまいってしまうと私は考えたから、参謀には気の毒だったが、すぐ憲兵隊に行って、東条をテロやろうという筋を抑えてしまったわけなんだがね。その参謀は気の毒だったけれども、やむを得ずそうした措置をとったわけなんです。あの連中は戦争中、無茶ですよ」(改造、49年8月号)
 このような考えの三笠宮によって、当局に通報されたものだから、44年9月、浅原、津野田らは、憲兵隊に連行され、軍法会議にふされることになった。石原も取り調べを受けた。
 しかし、軍法会議にふされたものの、この事件に皇族が関係していることははっきりしている。それで、津野田は懲役2年執行猶予2年、首謀者に仕立て上げられそうになった浅原は、奉答書を書いたのは事実だが、暗殺計画のことはまったくしらなかったことなので、不起訴となった。
「ぼんやりしていた」三笠宮は、「私の指導が悪かったため、下級の参謀が誤解を起こして、事を誤り、処罰されたとき、私も責任を負うことに決心したが、(皇族だから)としても正面からはだめだと考えたので、はなはだ申しわけなかったのではあるが、苦肉の策を用いて、ほかの職に左遷していただいた」(サンデー毎日、47年8月3日号)。
 三笠宮は、44年9月、大本営から機甲本部付にかわっている。
 これが津野田事件といわれるものである。東条内閣打倒後の青写真もできていたらしいが、「幻の閣僚名簿」を見ると、首相には東久邇宮陸相には石原莞爾、参謀総長には小畑敏四郎、文相には竹田宮などであったらしく、三笠宮には、「支那派遣軍総司令官」の席が用意されていたようだ。
(後略)

夜はスマナサーラ長老がお出ましになり、手紙返事の口述をした。21時前に東洋大後輩のA君が訪ねてきて長老を囲んで歓談。日付が替わる前に旗をしまった。明日こそはアビダンマの下読みに入りたい。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜