2015年に出たスマナサーラ長老の本(2)協会のkindle本7タイトル

紙の本に続いて、2015年に出たスマナサーラ長老の本第二弾です。

日本テーラワーダ仏教協会で出したkindleキンドル)本7タイトルを紹介します。5月から、ほぼ月に1冊のペースで刊行しました。来年も年に8~10冊くらいのペースで出せればいいなぁと思っています。

こころのセキュリティ: 爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 (初期仏教の本)

一年ほどお休みしていた協会版電子書籍(Amazonkindle)の再開第一弾。まるで原子爆弾のように取り扱いが難しい私たちの「こころ」を清らかに保ち、暴走して不幸に陥らないように簡単に守る方法とは? 本書で詳述される「日夜の指針」は、三帰依、慈しみの実践、不浄観察、死の観察をまとめた仏教の詩(偈、ガーター)です。意味とともに暗記して常に念じることで、人生を幸福へと導く最高のお守りになることでしょう。初出は、関西での法話をもとに宝泉寺から刊行された施本です。

目次:
第一章 あなたのこころは原子爆弾です
 「ご利益系宗教」の罪と罰
 あなたのこころを管理する専門家はいますか?
 一般的な宗教と仏教の決定的な違い
 人生の難問を引き受ける管理所
 あなたはスーパーマンになれるだろうか?
 あなたの人生に責任をもってくれる存在
 爆薬を抱え、あなたのこころは危機一髪
 妄想世界からの脱出作戦
 噂、無駄話がつくり出している汚染現象
 爆弾のスイッチを切る唯一の方法
第二章 こころの必須栄養素「日夜の指針」
 「日夜の指針」全文
 三帰依がこころに呼びかけるとき
 「慈悲の瞑想」のすばらしい効果
 「不浄随念」の実践
 あなたの常識は真理の非常識になる
 「私は美しい」「私はすばらしい」と思っている人へ
 これでもあなたは自分がすばらしいと思いますか?
 智慧の扉をひらく鍵をあなたへ
 「死随念」の不思議
 「死の観察」でこころは一八〇度変わる
 この世でもっとも確実なもの
 「智慧の泉」が湧き出すとき
 真理の言葉とこころの安定
おわりに

仏教の「無価値」論 (初期仏教の本)

” あなたにとって、価値とはなんですか?
 価値があるもの、ないものと区別できるものはありますか?
 かつて価値があったが、いま価値がないものはありますか?
 かつて価値がなかったのだが、いまになったら価値があるものはありますか?
 あなたにとって、価値あるさまざまなものの中で第一はなんですか?
 あなたにとって、絶対的に価値があると思うものはなんですか?

 ……このようなアンケートに答えてみると、自分の価値観が理解できると思います。
 仏教は、人間の限りのない苦しみの原因は、この価値観にあると説いています。”

人間を束縛する「価値観」の鎖を解き放つ、仏教の「無価値」論とは? スマナサーラ長老が仏道修行の真髄を示した2000年の法話を電子書籍化(初出は協会施本)。 

主要目次:
 真理の言葉(Dhammapada)より
 第一章 なにがゴミで、なにが宝物ですか?
 第二章 「ゼロ価値」で生きてみましょう
 第三章 ヴィパッサナー冥想をすすめるうえで
 付録 Q&A「無価値」は真理のキーワード

感覚について: ヴィパッサナー実践の道しるべ (初期仏教の本)

「感覚の観察」を通して、無常・苦・無我の真理を知り、一切の執着から解き放たれるための道程を記したガイドブックです。宝泉寺ヴィパッサナー合宿でのスマナサーラ長老ご法話『感覚について ~ヴィパッサナー実践の道しるべ~』と、パーリ経典講義『生きるとは「感覚」のこと Rahogatasuttaṃ(独坐経)を読む ~一切皆苦と「無価値論」の教え~』を収録しました。前述の『仏教の「無価値」論』と併せて、必読と言える内容です。

目次
1感覚について
  ~ヴィパッサナー実践の道しるべ~
◆認識とはなにか
 遺体と自分、なにが違いますか?
 遺体は五感が反応しない
 遺体には感情がない?
 私は「生きている」
 生きているということ、「命」のリスト
 こころは機能で場所がない
 仏教はこころの機能を研究する
◆自己都合の世界
 こころの認識は自分の都合による
 花はきれいですか?
 蛙はかわいいか、気持ち悪いか
 怒り、憎しみ、嫉妬も自分の肉体を守るため
 俗世間の知識は人格向上の役に立たない
 なんでもかんでも認識の世界
 世間の認識を超える
 ヴィパッサナーは超人の方法
 「都合による認識」をやめる
◆真理へのアクセスポイント
 こころは流れるもの
 最初に見ている(感じている)
 認識するより先に感覚があった
 感覚(ヴェーダナー)から始まる
 生きているということは感覚
 一切は感覚である
 感覚を感じながら実況する
 身体の苦しみとこころの苦しみ
 感覚は一定していない
2生きるとは「感覚」のこと
  ~Rahogatasuttaṃ(独坐経)を読む――一切皆苦と「無価値論」の教え~
◆「感覚は苦そのもの」なのか?
 「生きること」の事実と実感
 生命は感覚で生きている
 「感覚は変化する」という普遍の法則
◆「独坐経 Rahogatasuttaṃ」解説
 比丘の質問
 お釈迦さまの回答
 苦の説法は「無価値」論である
 お釈迦さまの解決策――感覚の滅
 感覚の止息と軽安

ブッダは真理を語る: テーラワーダ仏教の真理観とその変容 (初期仏教の本)

仏教徒にとって「ブッダの言葉」はそのまま真理を語る言葉である。ではなぜ、どのような理由でブッダの言葉は「真実語」と言われるのか? それは他宗教の信仰や神秘の世界とどう違っており、また似通っているのか? スマナサーラ長老がテーラワーダ仏教における真理観をその歴史的変容と併せて縦横に語った高野山大学での講演録と、関連するテキストを収録しました。

目 次

ブッダの言葉とは
  オープンチャレンジ宣言
  理性を完成したブッダ
  ブッダ以外、誰にもできない
  幸福になる正しい道

ブッダは真理を語る
 ~テーラワーダ仏教の真理観とその変容~
 ■「初期仏教における『真言』とは?」
  高野山大学での講演サマリー
 ■テーラワーダ仏教の真理観
  ブッダの真理を重んじる
  何にでも真理はある
  学者たちも真理を探している
  科学は真理に至っていない
  「科学の発展」がある未熟な段階
  唯一の神が在るかもわかっていない
  神への信仰と異なる仏教の「信」
  真理がわかれば悩み苦しみは消える
  もはや病気はたたりではない
  ブッダが語った、生きるとは何か
  生きるとは苦だと発見したけれど
  命は「尊い」ではなく「苦」
  呼吸のように苦から苦へ移る人生
  真理の効き目を自慢したブッダ
  真理は結果を出す
 ■神秘主義による変容
  ブッダの真理を認めたがらない
  人間が現れたときからある神秘思考
  神秘主義へのニーズに応える
  ブッダの真理が神秘扱いされる
  神秘のようで論理的な慈悲の実践
  祈っても無駄、慈悲を育てなさい
  宝経と慈経は唱える
  教えがご利益経典に
  神秘は役に立たない
  テーラワーダと大乗の類似点はある
  大乗から借りるテーラワーダ
  テーラワーダの真髄は解脱
  土着信仰などとの融合
  幸福のための三十二項目が祝福の経典に
  仏教は神秘でなく心の力
  テーラワーダと大乗の運命

真理と道徳は不可分離
 ~増支部経典Brāhmaṇasaccasuttaṃ(「バラモンの真理」経)を読む~
  釈尊、「遊行者園」へ行く
  遊行者の話題は「バラモンの真理」
  「バラモンの真理」とは
  第一の勝れた真理
  第二の勝れた真理
  第三の勝れた真理
  第四の勝れた真理

初期仏教の「女性・男性」論: 女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です (初期仏教の本)

「「仏教は女性差別の宗教である」と、時として言われます。比丘尼のサンガ(僧団)は比丘のサンガの管理下におかれ、礼を尽くすことになっている戒律なども、女性蔑視だと感じられる要因かもしれません。」(本文より)仏教はやはり女性蔑視なのか。女性、男性という性別について仏教ではどう考えているのか。現代人の常識で考えるとモヤモヤが残る難テーマに長老が切り込みます。

目 次
1仏教の女性論・男性論
 仏教は女性蔑視?
 仏教は男女平等には興味がない
 「男女平等」という発想自体が問題
 なぜ女性蔑視が生まれたか
 各民族の神はほとんど女神だった
 どんな「論」でも凶暴なら通用する
 勝手な価値観でつくられた社会
 なぜ女性は抑圧されるのか
 生命の本質は身体と心
 生命は皆、同じ
 男性、女性。その定義
 アビダルマによる「男」「女」解説
 生命はかならず、「男」か「女」
 性色の機能次第で性別は明確になる
 性色のはたらきは業にも左右される
 禅定は性別がなくなる
 「男性・女性」に関する仏教の結論
 心には性別がない
 「男らしい」「女らしい」に傾く心
 異性の性質は持っていない
 心の影響は身体にも現れる
 修行の場での男と女
 女性は出家したら管理できない
 解脱の境地に性別はない
2一般社会の女性論
 女性の辞書に「控えめ」はない
 女性差別主義者をつくるのは女性
 女性の優れた管理能力
 生む、育てる、守る
 優しさという管理
3一般社会の男性論
 男性は脇役
 暇な男性のやること
 男の役割
 男の勘違い
 「正等覚者」はなぜ常に男性か
 それでも男は惨め
4男女論から生命論へ
 異性は理解できない
 「相手を理解している」という誤解
 他の生命を理解する方法
 男・女ではなく、生命として生きる

智慧と慈悲の開発レッスン: 過去に悩まず、未来を期待せず、現在に生きる シリーズ心を育てる本

「生きる上で「損か、得か」と勘定することは必要でしょうか?
 一般的に、「損得を計算して行動することは、わがままで汚いこと」と思われがちです。そう思うのは、世の中の仕組みをあまり理解してないからではないでしょうか。実際のところ、私たちは「損得」を考えずに生きていられません。
 なぜなら、人間関係というものは基本的に「損・得」、あるいは「与える・得る」の関係で成り立っているからです。」(本文より)
 ブッダの智慧を日常生活に活かし、こころを成長させる実践マニュアルです。俗世間で幸福に生きるための「損得勘定」を詳述した第一部と、相対論と価値判断の問題を論じつつ「悟るまでどう生きるか?」という観点で道徳と慈悲の実践を示した第二部で構成されています。

主要目次
第一部 損得勘定の智慧
 1ギブ・アンド・テイクの法則
 2人生はモノの流れの交差点
 3正しい価値判断能力
 4こころを豊かにする勘定法
 5幸福の見積書
 6在家者が豊かになるために
第二部 智慧の開発
 1こころが起こす錯覚
 2長いと短いはどうやって判断するか?
 3三つの真理
 4過去に悩まず、未来を期待せず、現在に生きる
 5最高の楽しみ

「宝経」法話: Ratanasuttaṃ

これまで施本として頒布されてきた『「宝経」法話』(第二版)が、アマゾン・キンドルより電子書籍としても発売されました。「宝経 Ratanasuttaṃ(ラタナスッタン)」は仏法僧の三宝たる由縁を語る仏教の基本経典のひとつです。釈尊在世当時から護経として人々に親しまれ、現在でもテーラワーダ仏教圏の法要では必ず唱えられています。本書では、この「宝経」をパーリ語の原典に即してスマナサーラ長老が一偈ずつ丁寧に解説して下さっています。ブッダの教えのエッセンスを知ることができる最適の入門書だと思います。スマホタブレットに携帯して読んでいただければ幸いです。

目 次
 序章
  経典の因縁物語
  幸不幸は連続する
  悪霊はほんとうにいるの?
  生命は互いに依存する
  仏教の教える「霊的存在」
  霊などまったく気にしないこと
  ヴェーサーリーに赴いた釈尊
  仏法僧とは何かを教える経典
 第一偈
  霊たちへの祝福
 第二偈
  お釈迦さまの命令とは
 第三偈
  ブッダの言葉は最強の力を持つ
  祝福の効果
 第四偈
  ブッダの覚りの内容
 第五偈
  覚りのサマーディについて
 第六偈
  サンガとは誰のこと
 第七偈
  阿羅漢たち
 第八偈
  こころ揺らがない預流果の弟子たち
 第九偈
  安心を確証された預流果
 第十偈
  預流果は理性の達人
  理性が現れた人の利得
  重罪は犯せない
 第十一偈
  預流果は言い訳をしない
 第十二偈
  ブッダの教えは咲き誇る花々のように輝く
 第十三偈
  唯一偉大なる言葉
 第十四偈
  完全たる自由(阿羅漢)
 第十五偈~第十七偈
  霊たちの礼拝と祝福
 おわりに

 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2015年に出たスマナサーラ長老の本(1)紙の本など10タイトル

もう師走なので、今年(2015年)に刊行したスマナサーラ長老の本をまとめておきたいと思います。特に力を入れたキンドル作品については別記事を用意します。新刊と文庫化(新書化)、新装版の刊行など。

 

 無我の見方―「私」から自由になる生き方 (サンガ新書 64)

2012年に出た同名書の新書化。単行本として出た当初はあまり話題になりませんでしたが、本書は間違いなく長老の代表作の一つになります。知的な読み物として面白い上に、日本語で仏教の「無我」を論じる際の基準点になる、非常に高度な内容が論じられています。テーラワーダ仏教のみならず、大乗仏教で展開される複雑な空解釈に分け入ろうとする人にとっても、本書は「命綱」のような役割を果たしてくれるでしょう。

 

[新版]13歳へ 13歳のチカラが世界を変える

[新版]13歳へ 13歳のチカラが世界を変える

 

[新版]13歳へ 13歳のチカラが世界を変える

2010年刊『13歳へ――よい親も、よい先生も、あなた次第』を大幅に改訂した作品です。底本は兵庫県宝塚市の雲雀丘学園中学校での講演を収録しましたが、新版には兵庫県洲本市の柳学園中学校での講演(第一部)と、書き下ろしのまえがきも追加しました。長老が若者向けに書き下ろした著作には、自由の森学園高等学校での講演などをまとめた『ブッダ―大人になる道 (ちくまプリマー新書)』(ちくまプリマー新書)が読み継がれています。本書もロングセラーになってほしいものです。

 

老いを自由に生きる~とらわれない・持たないブッダの智慧~ (だいわ文庫 B 176-2)

老いを自由に生きる~とらわれない・持たないブッダの智慧~ (だいわ文庫 B 176-2)

 

 老いを自由に生きる~とらわれない・持たないブッダの智慧~ (だいわ文庫 B 176-2)

2012年に刊行された『老いと死について』の文庫版です。単行本からの変更はありませんが、文庫読者層の中心である四〇代にアピールしたいとの版元の要請で改題しました。

 

沙門果経―仏道を歩む人は瞬時に幸福になる(サンガ文庫)

2009年に出た単行本を文庫化したものです。沙門果経(長部2)は釈尊が阿闍王の問いに答えて仏道実践の概略を壮大なスケールで語ったパーリ経典です。前半部は釈尊在世のインド思想入門、後半は釈尊自らが語る仏教入門、といった構成になっています。この大部の経典を哲学的な教養の宝庫として、また実践の確かな手引きとして魅力たっぷりに解説されたスマナサーラ長老の力量には改めて感嘆せざるを得ません。文庫化にあたっては、細部に加筆修正を施しました。

 

苦の見方 「生命の法則」を理解し「苦しみ」を乗り越える (サンガ新書 65)

既刊『無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福 (サンガ新書)』『無我の見方―「私」から自由になる生き方(サンガ新書) (サンガ新書 64)』に続いて、真理の三相(無常苦無我)のひとつ、苦(dukkha)について詳しく解説した新書書下ろし作品です。苦(dukkha)=苦しみという誤解を正しながら、「自分が昔も今も語ったのは『苦』と『苦を滅する方法』である」というブッダの言葉の真髄に迫ります。

 

やめたいことは、やめられる。

やめたいことは、やめられる。

 

 やめたいことは、やめられる。

「やめたいけど、やめられない」という人間の葛藤をいかに解決してゆくか? というアプローチで、冥想という言葉すらも用いずに、仏道実践のスタート地点からゴールまでを次第説法の手法で緻密に説き明かした新機軸の書下ろし著作です。仏教の根本概念である「中道」についても、さらりとすごいことが書かれています。

 

ブッダの言葉 (インプレスカレンダー2016)

今年も刊行されました。ダンマパダから厳選した珠玉のことばを書家が筆書きし、スマナサーラ長老が解説を加えた月めくりカレンダーです。プレゼントなどにもどうぞ。

 

[新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK]
 

 [新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK]

2011年に出た同名読経CDブックの新装版です(経典本がビニール表紙からハードカバーに変更)。よりお求めやすい価格になったのでお持ちでない方はぜひ。

 

もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方

書下ろし新刊です。人生の岐路に立って、私たちは優柔不断になったり、捨てた選択に後悔したりします。人はなぜ選択に迷ったり、後悔したりするのでしょうか? 本書は、最良の選択をして心穏やかに幸福に生きていくための極めて実践的なレッスンを紹介します。養老孟司先生推薦。売れてま~す。(^^♪

 

ブッダが教える意志力の鍛え方 (だいわ文庫)

ブッダが教える意志力の鍛え方 (だいわ文庫)

 

ブッダが教える意志力の鍛え方 (だいわ文庫)

2013年に大和書房から刊行された『人生を変える練習。~ブッダの「意志」強化術~』の改題文庫化です。意志の弱さや根気のなさを克服するお釈迦様の処方箋が明快に語られた本です。文庫化を期に新たな読者と出会えますように。

 

以上です。今年は電子書籍の新刊のほうが多い印象でしたが、紙の本もけっこう出ていましたね。そんで来年1月末には今年一年の編集者としての労力のほとんどを注ぎ込んだ(気分的には)大作『「大念処経」講義』が刊行される予定です。いま鋭意校正中ですけど、編集してる本人がいちばん楽しみにしています。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)

先月読んで、ブログで紹介しなくちゃ……と思っているうちに時間が過ぎてしまった新書。

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

この本はかなり面白かったです。インド宗教に起源を持つと思われがちな輪廻転生の観念がじつは非常にグローバルであること。民俗世界に根ざした再生型、インド宗教にルーツを持つ輪廻型、近代ヨーロッパで生まれたリインカネーション型という三類型があること。具体的な"生まれ変わり"の事例研究が世界規模でかなり蓄積されていること。日本人の輪廻転生観は三類型が入り混じっていることなどなど、非常に勉強になりました。すぐ読めるしオススメです。

文中で仏教の輪廻観についても触れられていますが、五蘊相続を便宜上、輪廻の主体のようなものとみなして説明しています。ちなみに私の説明はこちらで書きました。

naagita.hatenablog.com

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お釈迦様の仏教とはどんなものか?(スマナサーラ長老の法話より)

冥想会での質疑応答メモ 2011年11月27日名古屋・崇覚寺にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦様の仏教とはどんなものか?

争いの世界で争わずに生きる方法、怒り憎しみの世界で怒り憎しみ無しに生きる方法、それを仏教は教えているんです。「食うか食われるか」という世界で、それから離れて生きる方法を教えているんです。世の中では、「自分が食う側にいればいい」と思うかもしれません。しかし、食うか食われるかの世界で一貫して「食う側」にいられることはあり得ません。

憎しみの世界で、憎しみは嫌だなと思う人がいれば、仏教はそのための方法を教えてあげる。殴られたら殴り返すぞという人に仏教は要りません。勉強する時間もなく死にますからね。

仏教は、殴りあいの世界で殴ることから離れて生きる教えです。殴り返すことでも、もう片方の頬っぺたを差し出す事でもないんです。それでは殴ろうという気持ちが消えない。仏教は、殴ろうとする人に殴る気を無くさせる教えです。奪おうとする人に、奪う気を無くさせるような教えなんです。

いまだに人類は「目には目を」の世界に生きています。食うか食われるかの世界で、それに関わり無く穏やかに生きる方法が仏教です。そのように生きたいと願っている人がいたら、皆さんも教えてあげる。教える能力がなければ、知っている人に紹介してあげればいいでしょう。

しかし仏教は宗教として生き延びたいと思っているわけではないのです。「妄想するよりは、真理を知った方がいいいでしょ?」というだけ。べつに宗教を広げたい気持ちはないんです。信仰のために戦争でもやれ、というのが宗教です。仏教はどうしても広げたいという教えではありません。「この薬を飲んだら治りますよ」と言うが、「飲め!飲め!」と迫ることはない。お釈迦様の仏教とは、そういうものです。

 ※Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え

テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?(スマナサーラ長老の法話より)

冥想会での質疑応答メモ 2011年11月27日名古屋・崇覚寺にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q :「ひとが病に罹って苦しんで死ぬ」ということをどう受け止めればいいのでしょうか?

A :長い間一緒に住んでいるとお互い人間同士の愛着が生まれるんです。(他者の死に悩むというのは)感情の問題です。親しい人が亡くなるとショックですが、嫌いな人は死んでも当然と思うんです。気にしません。理性に基づいてみると、親しい人が多いと危ないんです。たくさんショックを受けなくてはいけないんです。苦しみが生まれるんです。あらゆる精神的な苦しみは親しい人から生まれます。嫌な人なら無視すればいいが、親しい人は無視できないんです。たとえ勘当した子供のことでも悩みます。相手が好きであればあるほど苦しみの量が増えるんです。これは生きる事のジレンマです。 

そのような現実を理解して欲しいんです。われわれは皆と仲良くベタベタ生きていたいんですけど、その分、大変な苦しみも負ってしまう。その一つが「死に別れ」です。でも、それは苦しみの中のたった一つだけです。命は尊いとか言っても意味がありません。ただ生きているだけです。それに加えて感情の激流に飛び込んでしまう。問題を作るのはその感情なんです。

病気になって苦しんで死ぬというのも、肉体のことです。病気にならなくても、ずっと苦しんで生きています。肉体的な苦しみはそんなに気にする事ではないんです。子供が病気で苦しんで死んだとしても、生きている大人は、これまでその子と比較にならないほど苦しみを感じてきたはずです。死ぬ事も死ぬ本人にとってはどうってことないと思いますよ。ただあっさり死ぬだけのことで。もし死後に周りの様子が分かったら、「なぜそんなに悩んでいるのか?」と不思議に思うでしょう。

しかし死ぬ人も感情の激しい人だったら、死ぬことは大変苦しくなります。別れなくてはいけないんだから。わかれたくない、捨てたくない、皆のこと好きだ、と思っても何もできないんです。それが耐えられない苦しみになります。我々に必要なのは、生きる意味は何かと悩む事ではなく、他者とつくる感情的な関係が苦しみをつくる原因であると理解することです。感情の流れに流されないようにと心を育てなくてはいけないんです。

人の死をどう捉えるべきか、答えるのは難しいんです。(感情が問題の元凶なのに、)皆、感情で捉えているんですから。人は必ず死にますよ、そんなの当たり前だ、という人に、「じゃあ、あなたの息子が死んだらどうする?」と聞いたら態度が変わるんです。絶交されるかもしれません。人は死ぬと言いつつ、自分の親しい人には死んで欲しくないんです。

死んでいく人について悩む自分はとんでもない阿呆だということです。親しい人の死を冷静に見守っていられる人は、強靭な精神の持ち主なんです。冷静でいることを仏教で推薦します。冷静にいるためには、感情に打ち勝たなくてはいけないんです。あと一日でも生きて欲しいと願っても、一日生きて何になるんでしょうか?

人が死ぬことは決して楽しいことであってはならないし、決して悲しいことでもあってはならないんです。悲しいというのは余りにも執着があるんです。自然法則をなぜ認めないのでしょうか。自然法則は悲しみの原因にも喜びの原因にもなりません。風が吹いたら楽しいといったらヤバイ。なぜなら風はいつも穏やかに吹くわけではないからです。竜巻もあれば嵐もあります。自然現象は冷静に見ておくべきです。しかし雨風よりも確実なのは「人が死ぬ」ことです。何の目的もないんです。そういうふうにできている体だから。細胞が死ぬのは当たり前です。死なない細胞があったら大変なことになります。身体が石のように固まってしまう。生きるためには細胞が死んでくれないといけないんです。細胞の死によって、我々の生が成り立っているんです。だったら我々が死ぬのも当たり前だよ、ということです。

太鼓を一回ドーンと叩くと皆びっくりしますが、立て続けにリズミカルに叩くと演奏だと思って耳を傾けるでしょう。死も同じです。身内が一人死ぬと大騒ぎですが、アメリカが対テロ戦争と称して無人機で人々を殺しまくることには何も感じないんです。数を数えて「あまり効果がなかった」とか評論したりする。そういうおかしい思考で生きていますからね。一日たりとも人の死のNEWSがない日はない。死は自然の流れで、自分に関係する人の死だけ悲しいんです。親しい人の死は生きる苦しみのたった一つだけ。苦しみが我々に凡ゆる行為をしています。立つ事も座ることも呼吸さえも苦がさせています。仏教では「苦」という一語ですべてを捉えているんです。

なぜヘッドフォンで音楽聴きながらジョギングするのでしょうか? 走っている時間が退屈でたまらないからです。それを紛らわすためにカラクリするんです。いかに苦しみを相手にゲームするのか、というのが「生きる」ということです。しかし、いくら頑張ってもそのうち動けなくなるのです。泳ぎができる人を大海に放り込んだらどうなる? すぐには死にませんよ。しばらく泳いでから、死にます。人生というのは、苦という大海で死ぬまで泳ぐだけのことです。

釈尊の発見された「苦」というアプローチ以外で人生を見ることは、すべてまやかしです。幻想の世界です。人生を科学的・客観的に観察すれば、苦以外には見つからないんです。絶対に疲れない、危険でない、体が壊れない、ツケがない、そんな楽しみは何かありますか? 客観的に観察すれば、一般人にも生きるとは苦だと発見できます。海がありますよ、と発見するのが簡単なのと同じく、「生きることは苦」と発見するのは簡単です。

質問は「苦しみには何か意味がありますか?」ということ。何も意味がないんです。問題は、生きたいけれど苦しみたくない、ということ。それは相当頭がおかしいから、仏教では無知というんです。その無知の治し方を仏教で教えてあげます。それで自分で選ぶんです。それでも生き続けるのか、生きることをやめるのか。冷静に観察すれば99.9%の人は生きることをやめる道を選ぶと思います。

釈尊もそうやって生きることへの「執着」を離れて、輪廻を解脱したんです。死に対して冷静にいることです。日没に驚かないように、死にも驚かないこと。死ぬとは肉体の苦しみが終わることです。しかし生きていきたいという執着を残している限り、また他の肉体を作って輪廻を繰り返してしまう。死んだら何処に行くか分かったものではないんです。

いまの心の状態によって、次の心が出来上がってしまうんです。これがヤバイんです。心のゆらぎは感情で起こります。我々は何時でも感情に気をつけることです。理性で判断して、好き嫌いで判断しない。たまに感情が爆発しますけど、それを即座に制御する訓練をしましょう。そうやって腕をあげて、心を成長させて生きないといけないんです。

Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

安らぎを遠くに求めてはいけない・他(スマナサーラ長老の法話より)

2012/11/26 長崎県川棚町"姿斉[SHISEI]"での交流会にて

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Q:何かをするまえに”虫の知らせ”というようなものがあって、失敗してから「そういえばあの時……」と、あとで思い出すことがあります、云々。(判断に関する質問)

A:それは、人間がものすごく気をつけた方がいいところです。人間は何か判断しないと何もできないんです。身体動かない。判断によって人生決まってしまうんです。問題は判断が合っているかどうかです。判断する時、大脳・頭で判断する時はけっこう頭で調べるんです。データ比較してみるとゴチャゴチャ考えてしまう。それで、もういいやと原始脳でドーンと決めてしまう。感情によって決めることになるんです。一般人には生きるということは難しいんです。判断する結論になかなか達しないんです。時間切れで一か八か、原始脳に負けてしまう。大脳で考えれば当たり前という事は全然問題ないんです。冷蔵庫に食材がないから買い物行かなくちゃ、という場合は判断に悩む必要ない。悩む時はどっちにすればいいかさっぱり分からない時です。高校生、大学生、人生の進路をどうしようかと、派手に悩むんです。

その場合は答えは簡単です。ポイントは選んだ道をやり遂げられるか、ゴールまで行けるか、それだけだよと。そう言えますが、日常生活ではゴチャゴチャです。どうすればいいか分からない。瞑想して智慧が現れればそれで終わりですが、人生それまで苦しむことはないんです。緊急処置として釈尊は「慈しみ」を教えています。慈しみで判断すれば判断が間違っていても酷いことにはならないんです。貪瞋痴で判断している時は慈しみがないんです。生命への心配がないんです。そうではなくて、どうしたら皆幸せになるかという風に考える。これなら家族も皆も幸せになる、と思ってやっていると、何となく幸せになるんです。周りもサポート修正してくれるんです。ややこしくて理解が難しいが、やり方は家族や皆の幸せを願うことです。皆の笑顔を願っていると、自分のブランド品はどうでもいいから、家族や皆の笑顔、安らぎ、幸福が私の財産だというふうに考えるんです。それで原始脳がけっこう騙されます。幸せになりたいと思ってるんだからいいんじゃないかなぁと、邪魔をしない。それで原始脳を睡眠状態に追い込むんです。瞑想する場合も、まず原始脳を眠らせる。その間にサーッと理性を育てる。理性が確立するともう原始脳が目を醒まさないんです。

いろいろ失敗したこと思いだして、まずかったなぁ、という事はしょっちゅうあるけど、仏教は後悔は禁止です。失敗するのは毎日のことです。どこまで後悔するかキリがないんです。慈しみでニコニコ穏やかで余計なこと考えないで明るくいることにすれば、原始脳も騙されるし、笑って生活すると大脳がすごく発達します。

質のいいお笑い芸人は頭がいい。(雑談で大竹まことを評価。爆笑問題よりレベル高いと。)いかにくだらない事を言うかと、理性で考えないといけないんです。真面目なことやろうとすると、人を動かすやり方は知っている。言い方を知っている。売れない芸人は自我を出しています。売れたい、人気者になりたい、という自我です。それでは、結果として売れないんです。作品を作りたい、という気持ちで自我を抑えることです。自分を殺さないと芸にならないんです。芸の世界はバカな世界ですけど、かなり大脳が発達するんです。

何を言いたいかというと、冗談をいうためには、笑うためには、けっこう大脳が必要ということです。原始脳では笑えないんです。原始脳にあるのは恐怖感です。恐怖感では笑えないんです。無知の笑いはよくないけど、ネタでも作って人を笑わせようとすると、大脳を使わないと。笑顔を目指して、心の明るさを目指して生活すれば、だいたい失敗はないんです。やめた方が良かったというふうにはならないんです。

 

Q:60代後半。失敗もしてきたが、いまはけっこう上手くいっています。これからもうまくいくだろうと思って生きているんですが、周りの人が常に後ろ向いてるんです。後悔や、病気の不安の話しになってしまう。ちょっと失礼、という気分になるんです。対処法をどうしましょう?

A:そんな暗い話はやめて楽しみましょう、と言うしかないです。その時間で楽しめばいい。その時その時の楽しいことをしゃべればいい。年取ると後ろ向きという事はよくあります。若い頃と比較すると惨めになるんです。でも、そこで後ろ向いてはいけない。余計に人生を苦しませる事になるんです。楽しくなると忙しいんです。

 

Q:60代前半の方(質問というより自分語りで整理がつかなかった様子。なかなかものごとを割り切れないという悩み)

A:釈尊の生きるための技、割り切る術があります。割り切らないと生きていられないんです。24時間しかないし、1時間は60分しかない。一分でできることは一つだけ。いまできるのはこれだけ、という風に生きるしかない。それしかないと割り切るしかないんです。一回には一つしかできない人生です。精神的に悩まないで割り切ることです。神社に行った時も、お祓いされても微塵もご利益あると思ってないけれど、しきたりをきちんと守って雰囲気を穏やかにさせること。割り切るのはみんなのため、平和のため、調和のため、皆がなかよくするためです。決して人々を騙すためではないんです。(バス停で宗教勧誘を笑い飛ばした労働者の話 書籍に出てくるエピソード)宗教は原始脳の恐怖感だけ育てるんです。だから信仰者はいとも簡単に人を殺すんです。(イスラム教で)アッラーの意志に反してなに一つも起きないというなら、仏教徒アッラーをクッタクタに馬鹿にするのもアッラーの意志です。割り切るというのは信じることではなく、平和・調和を目指して割り切るんです。「慈しみ」で割り切れば、悩みなく優柔不断なくビシッと生きていけます。でも、何でも割り切っていいわけではありません。断然断ります、ということもあります。動物を生贄にする儀式や、命に危険のある祭(御柱祭とか)、倒れるまで酒を飲む祭など、五戒を犯すことはダメです。

 

Q  生まれ故郷に帰りたいと願っています。大陸から終戦後に引き揚げました。行ったら、もう日本には帰れないだろうけど、生まれ故郷に散骨希望しています。

A 生活したこともない、周りも知らない人たち、そこに行って故郷に帰ったと言えるんでしょうか? 故郷とは親に好き勝手に甘えた時期です。それがホームです。特定の土地ということでもないんです。場所としての故郷は、時の流れで消えてしまいます。私はその場その場をマイホームにする。妄想をマイホームにすることはないんです。知っている人々に囲まれているところをホームにすることです。

安らぎを遠くに求めてはいけないんです。安らぎは自分で自分の足元に築いて欲しい。ここにいる皆さんも仲間でしょう。大事な寿命の中で二日間、一緒にいたのだから、仲間と言わなかったら、人生に穴ができてしまいます。「安らぎはここにある。遠くにあらず」という生き方にじわじわ変えて欲しいんです。死ぬ時間と死ぬ場所、死に方は本人に分からないものです。いつどこでどう死ぬかは分からない。本拠地とは、仲間がいるところなんです。土地ではなく、人間で決めるんです。

私もどこがホームかというと日本です。生まれた国はスリランカだけど、長く住んでいるのも、本気で仕事したのも、日本だからです。捨てることを覚悟して、捨てられる人間になってください。何の躊躇もなくすべてを捨てられる人が覚った人です。「放っておく」というのはそういうこと。執着しない。いまここの自分の足元を見る。いまOKならそれでOKです。人の道は捨てる道なんです。仏教は捨てて、捨てて、捨てて行く道。肉体は捨てたら(排泄)、次に何かを拾って(口に入れて)、維持する。それが輪廻ということです。私たちはいまも輪廻しています。なに一つ持たずに生まれてきたんです。すべて置いて、捨てて死ななくてはいけない。どうせ捨てるんだから、上手に捨てること。老いていくと、「若さを奪われた」と思ってしまう。そうではなく、無執着で上手に捨てる。そうすると若い人を見ても気持ちがいいんです。……

Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

執着しないこと

執着しないこと

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~ 

智慧に目覚める ~ブッダの教えとは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)

2012/11/25 長崎県川棚町"姿斉[SHISEI]"での講演『智慧に目覚める』

アルボムッレ・スマナサーラ長老

・人間って変です

人間、変ですね。何がって、ほとんどの人は、いい人間でありたいと思ってるんです。99%そう思ってるなら、世界中みないい人間になれば話は終わりです。ですが、世のなかにいい人間はまれなんです。人は自分の親と喧嘩する。鬼という。子供から見ると親は鬼に見えるんです。ほんとはいい人間ですけど子供からみれば……。世の中みんなそうなんです。嘘つきになりたくないが嘘をつく。平和に生きたいが戦争ばかり。自分たちの教えは平和の宗教だといって自爆テロをする。我々は変ではないでしょうか?

・しきたりで無理やり調和をたもつ国

日本人は世界で珍しく行儀いい平和な国ですけど、アメリカではちょっとカバン置いても盗まれる。日本は平和で生きやすい世の中ですけど、ストレス溜まって皆さんにとっては生きづらい。どこでというと、行儀作法が厳しい。お歳暮中元、冠婚葬祭、きまりがいっぱいあります。親戚関係も、年賀状も。日本で年賀状いつから始めたのでしょうか? 伝統ではなくて、郵便局にやられているだけでしょう(笑) でも何千枚も必死で年賀状をかく。いっぱいしきたりがあって、無理やり平和で調和を保ついい人間にさせている。これがストレスになっているんです。でも、これを無くしたら、たちまち変な人間に変わってしまうでしょう。平和なのは、しきたり習慣で無理に抑えているからです。

・幸福を目指して不幸になる道を歩む

人間は、嘘つきたくないがうそつく、泥棒したくないがごまかし、怒りたくないが喧嘩する。また一人で悩む。あべこべの方向に努力する。山に登りたい人が海に行くようなものです。お釈迦様はこう言っています。「生命は幸福を目指して必死で不幸になる道を探しては歩むのです。」しかも、面白いことにそれに気づかないんです。それで、失敗したら悩むんです。子育てにしても、いい人間になってほしいと思ってだらしない人間になるような育て方をする。あべこべに気づかないんです。頭に入らないんです。子供のやる気を引き起こすという仕事を親はしないんです。(長老のお母さんは成績表を見ようともしなかったが。)子育てでもやってはいけないことをやっているのに、それに気づかない。頑張って欲しいのに、怠けてしまう雰囲気を作ってしまうんです。

・期待する道と反対方向へ行く

憶えておきましょう。人間は誰でも期待する道と反対方向へ行くんです。みな幸福になりたい。それを、健康になりたい、長生きしたい、金持ちになりたい、美人になりたい、と勘違いしてます。ほんとは幸福になりたいんです。穏やかに平和に楽しく生きていきたいんです。私たちは希望を立てる時でもおかしいんですね。釈尊は生命を観察して、幸福になりたいのだと気付いたのです。独裁者たち、なぜああなりたがるのでしょうか? あまりにも勘違いです。ヒットラーも、フセインも、鼠のように隠れて死にました。はた迷惑なだけで大した結果にも達していないんです。 

・原始脳と大脳

そうなっている理由は? 脳を使って説明します。人間にも動物にも共通する原始脳があります(トカゲ脳)。どんな動物にもある脳です。ネズミにもあります。原始脳には、何も考える力はないんです。大脳が原始脳にのっかって思考しています。大脳は原始脳によって管理されているんです。原始脳には善悪判断はありません。生きていきたいだけです。でも眼耳鼻舌身を使わないといけない。それは大脳が管理しているんです。生きていきたいと思ってもそう簡単に生きていけない。獲物を取ろうと思って自分が獲物になる確率もある。世界には、生きられない条件だらけです。大脳はそのことを一応知ってます。それで原始脳はすごく怯えるんです。みな恐怖感を持って生きているんです。生きていきたい、死にたくないといいう。理由はない、理屈はなしです。それで外界を見る時、敵と味方に分けてしまうんです。みなイルカを可愛がっているでしょう? イルカは人に危害を与えないからです。そこにサメが来たら逃げる! 我々は正しくものを見て生きているのではなくて、敵味方に分けるんです。そこで見えるのは、味方の数は取るに足りません。敵ばかりです。同じ人間さえ敵ばかりです。

・「智慧に目覚める」とは原始脳に勝つこと 

我々があべこべで生きているのは、原始脳で生きているからです。敵は殺したいと思っているんです。ライバル会社は火でもつけて燃やしたいと思っているんです。大脳は善悪判断します。そこで、原始脳の命令を受けて葛藤するんです。悪いことは簡単にするが、善は考えて考えてやっとしているでしょう。この悪徳政治家を追い出したところで葛藤がなくなるんです。嘘をつけない人間になるんです。怠けられない人間になるんです。「死にたくない? そんなアホな」という(理性的な)人間になるんです。原始脳の命令はもう効かなくなるんです。我々の人生を支配していたのは原始脳です。その支配を脱すること、つまり「智慧に目覚める」というのは原始脳に勝つことです。「とにかく生きていきたい」という原始脳に勝つと、心の安らぎ落ち着きが生まれるんです。それがどんどん智慧が生まれることです。大脳をどんどん使うんです。使ってない80%を悟りを開くために使うんです。

・ 「人間を超えなさい」とブッダは言う

原始脳に乗せられた状態で知識を増やしても役に立ちません。生きるのが苦しくなるだけです。原始脳が(大脳を使って)作った知識で人生はハチャメチャになるんです。動物は余計な知識がないから必要な栄養を入れたら落ち着いています。人間は食べ過ぎで臓器も壊してしまう。釈尊は「人間を超えなさいよ」と仰るんです。人間を生き物として見ると、人間ほど残酷で理不尽な動物はいないんです。戦争する熊とかいないでしょう。魚は共食いだが自分の種類は食べないんです。取れるんだからと取れるだけ取ることしない。海の生命が枯渇するほど取るのは誰? 戦争する、大量破壊兵器つくる、親の財産めぐって兄弟で争う。人間とは何なのでしょうか?これほど醜い生命があるでしょうか?

・ブッダの教えと脳科学 

仏教は良い人間になりなさいとは言わないんです。「人間を超えなさい」と言うんです。脳で例えれば、脳をとことん開発しなさいよ、と。不幸になるプログラムを捨てて、幸福に生きられるプログラムに書き換えないといけないんです。仏教は脳科学でも何でもないのに、しかし驚くのは、釈尊の教えと最新の脳科学を比較するとピッタリ合うんです。Buddha's brain 脳を開発・成長する方法はブッダしか説かれていません。不浄瞑想には脳が入ってます。それだけです。なぜ脳に言及しなかったのでしょうか?仏教は生命学なんです。脳のない生命もいます。生きるという観点で見ると、脳はいらないんです。追加された臓器に過ぎないんです。アメーバには脳は無いがしっかり生きています。心は脳だというのは間違いです。生きていることが心なんです。

・俗世間の知識は「餌探し」の延長 

これまで世の中にない教えなんです、仏教は。一般の知識は当てにならないんです。(一般の知識とは)原始脳にやられて作ったものです。動物の「餌探し」の延長でできたものに過ぎないんです。知識はすべて汚れています。「人間だけ唯一優れた存在である」という汚れた思考から始まっているんです。「何か人間の役に立つことはないのか」という、その視点で他の動物も研究するでしょう。だから他の動物にとっては残酷なことになるんです。動物実験で動物を苦しめて薬を作っている。人間も結局それで不幸になるんです。金儲けのためです。金儲けが餌を探す手っ取り早い方法だからです。しかし、そうやって知識をためても良い人間にならないんです。性格が最悪になるだけです。これは日本だけの問題ではありません。世の中ひとつもうまく行っていないんです。政治家になってはいけない人が政治家になる、管理者としては最悪の人が管理者になる、経営者としては最悪の人が経営者になる、という具合です。職場では、人のやる気を片っ端から壊しています。世界は何とか破滅しないで済んでいるのは、一人一人が生きていきたいと思って身を守って頑張っているからです。やっぱり殺したい放題殺したら自分も生きていけないから控えているんです。それがなかったら世界は破滅です。

・人間としての特別な仕事 

釈尊は「人間を超えなさい」と言いました。脳が心ではないんです。しかし我々の肉体は臓器のパートで分かれているんだから、見たり聞いたり考えたりする場合は大脳になっています。小さくても大丈夫なのに、なぜ大きな脳があるのでしょうか? 我々は業で生まれます。人間だけ大きな脳がつけられているんです。人間としての特別な仕事は、「輪廻から解脱しなさい」ということです。犬にも、神々にもそのチャンスないんです。人間には超人になる能力があるんです。

・生きる苦しみについて 

我々は生きることは楽しいと勘違いしているんです。原始脳のカラクリで、自分に都合のいいものは可愛くて、都合の悪いものは気持ち悪い、と反応する。しかし「生きられない」条件の方が生きられる条件よりもはるかに多いんです。生きることは常に不安です。単細胞はずっと動いています。動かずにはいられない何かがあるんです。苛立ちを無くすために動くんです。単細胞は寿命が短いんです。それで死んで二つの細胞に分裂します。何かしなくては死にます。呼吸しないと死ぬんです。死ぬのはいいけど、それは苦しみになるんです。ちょっとでも呼吸を止めると、いてもたってもいられない苦しみになるんです。何かし続けないと生きていられないんです。限りなく立ったり座ったりしないといけないんです。一日中何も見ないでいることはできません。脳が勝手に幻覚つくって、超能力だと思い込んだりします。麻原彰晃や他の宗教家もそれで聖者になりあがるんです。

・宗教のお仕事 

人を騙すことが宗教の仕事です。人間は、騙して貰わないと不安で仕方が無いんです。死ぬ恐怖があるんだから。みんな勇気がないから事実に直面できないんです。なぜ全知全能の神は、精神異常者にしかコンタクトしないのでしょうか? しかし、我々は永遠の天国があるという言葉を聞きたいんです。人を騙していい気分にさせる、叶わない希望を抱かせる、というのが宗教の仕事です。それも数千年のノウハウ蓄積があるから、あらゆるマインドコントロール手段を使っている。その呪縛から抜け出すのはたいへんです。日本人も結婚式は教会でやらないとちょっと気分が落ち着かないくらいまでやられています。人間が「私に暗示をかけてください、マインドコントロールしてください、見解を汚してください、自分で物事を判断できる能力を奪ってください」と頼むのだから。

・仏教は心の科学 

仏教はそういう宗教ではなく、現代科学でもなく、心の科学、生命科学です。原始脳に打ち勝つことに、智慧というのです。理性の生き方を発見すること、それを智慧というのです。智慧とは最終的に「一切は無常である、苦である、無我である」と発見することです。それで原始脳に仕事なくなるんです。大脳にも仕事なくなるけど、人助けのために、人々の幸福のために、生命のために尽くすために使う、そういう生き方に変わるのです。

・道徳に例外はない 

仏教の道徳と、宗教の道徳は項目は似ていても違うものです。宗教の聖書ははじめから虚偽でしかありません。戦争の裏には宗教の影があるんです。「我を愛せよ」という強烈なエゴがあるんです。そして例外があります。動物は殺してもいい、信仰しない人間も殺していいんです。仏教の道徳は科学的で、自分だけ偉いという原始脳の衝動を弱めるために教えているんです。ですから、道徳に例外はありません。「殺すなかれ」と言えば、どんな生命も例外なく殺してはいけないんです。そこで[人間を超えるという]大変な世界が現れてくるのです。(おわり)

Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。

智慧は人生の羅針盤 (お釈迦さまが教えたこと)

智慧は人生の羅針盤 (お釈迦さまが教えたこと)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~