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パーリ経典講義『月喩経』 マハーカッサパ尊者と布施の話(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

2011年11月29日ゴータミー精舎パーリ経典講義

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5.Kassapasaṃyuttaṃ 3. Candūpamasuttaṃ

パーリ相応部 因縁篇 5.カッサパ相応 3.月喩経

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul4.xml

 

舎衛城因縁。candūpamā, bhikkhave, kulāni upasaṅkamatha – apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ, niccanavakā kulesu appagabbhā.これは出家に語られた経典です。出家とは俗世間からきれいに離れる存在。人間関係まで切っちゃったわけではない。お布施という習慣は出家があるところになりたつこと。出家が何も持っていないから、ご飯もないし住むところもない。在家は財産持っているからその日その日のものを与えてあげる。それが布施。いまは……宗教団体がお金集めしてますから……それってお布施にはならないかもしれませんね。

 

この経典は出家が托鉢に出たりして在家とコンタクト取る時は「月の喩え」を憶えておきなさいと。「月の喩え」について経典は何も解説していません。注釈書でいくらか、こうではないかという解釈をしている。満月のように円満に人格を整えて戒律を守って下を見て村に入りなさいと。

 

それから、月の光は誰でも照らす。しかし月は誰にも挨拶もしない。誰かの何処かの場所を「ここが気に入った」と特別に照らすこともない。何のこともなく空を照らす。挨拶もしてくれないのに、人間は月が好きです。月を見て安らぎを感じるんです。月の光を見ると気分がよくなる、楽しくなる。

 

比丘たちを見ると一般の人々はそういう気分にならないといけないんですね。だから、私の方を観ないでくださいw 鬼を見た気分になるかもしれません。出家は行儀作法を整えてきちんとしていないといけない。しかし、微塵も好ききらいがあってはいけない。いかなる関わりも持ってはいけない。しかし自分のサービスはしっかりする。皆に平等に、差別なく区別なく安らぎを与える。

 

当時の時代背景からいえば、出家が自分の家の前に来たらお布施する。来なかったらそれで終わり。突然、家の前に月が現れたように、心に安らぎを感じてお布施して、終わり。日本文化とは対極。ペコペコとお礼しまくることはない。しかし黙っていても、観ただけで気分良くなるような人格者にならないといけない。微妙にでも人々の機嫌を取ることは、仏教では道徳違反。

 

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え (Seyyathāpi , bhikkhave, puriso jarudapānaṃ vā olokeyya pabbatavisamaṃ vā nadīviduggaṃ vā – )

喩え:古井戸(jarudapāna )、山の崖(pabbatavisama)、川の淵(nadīvidugga)を覗こうとするときは、相当気をつける。そのような心境で在家と接する。(在家生活に)惹かれてはならない、というふうに自分の心を戒めておかないといけない。これは……訳せない単語。関係を作らない。かといって、無関係という単語はよくない。深い井戸を覗いているような気分で注意して心を調えるんです。喩えで憶えておけばいい。垂直の崖から下を見る、引っ張られて落ちないように、自分を引き離す気持ちで見る。そのような気持ちで在家と接しないといけない。

 

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え ………初期仏教では在家の生活に合わせることはしない。服装も釈尊のころからそのままです。そのように身体を整えておく。それから、心を調える。注釈書によれば、ある比丘が森に住む。森にいたらその人は当然、身体が俗から離れている。それでも心で欲やら怒りや害意で妄想していたら、心は俗から離れていない。心も俗から離れなくてはいけない。両方整えないといけない。

 

niccanavakā kulesu appagabbhā 在家に対していつも、『今日初めて会った』という気分でいないといけない。注釈書:インドの客(旅人)は食事をもらって食べて自分の器を持ってそのまま帰る。家の仕事を手伝ったりするのは「仲間」です。※インドでは客は自分の器を持っていかないといけなかった。カースト制度があるので、家の器を使わない。出家はその旅人の気分、新人の気分でいないといけない。いつも行く家で托鉢しても、関わりを持つなよと。nicca常にnavaka新人の気持ちでいる。

 

それから、appagabbha 控えめでいること。ぜったい調子に乗ってはいけない。行儀作法よく、謙虚に大人しくしている。出しゃばってしゃべらない。在家が出家に質問することがある。その場合はいちばん長老が応える。目上の人が、能力がある人に答えなさいと指名することもある。しかしいくら能力があっても、長老から指名されるまでは喋らない。時々、自分からしゃしゃり出て答える比丘もいる。これは出家には禁止。

 

出家は人の話に割り込んだり、質問をさえぎったりしない。返事すべき人が相手の話が終ったところで話をする。同時に二人がしゃべらない。出家の世界はいつも静かです。誰かがしゃべっていたとしても、静か。最近の出家とはずいぶん違います。話す時だけではなく、思考にも行儀作法があります。なんでも考えていいわけではない。正思惟を考えるのであって、無常について考える、俗世間の事をあれこれ考えてはいけない。心まで調えなくはいけない。それをパーリ語でappagabbhaという。慈経mettasutta でもその言葉が出てきます。

 

釈尊は道徳を設定して語ったが、皆が完璧に守っていたわけではない。わざわざ仰るということは、何か問題があったから。提婆達多は一つも守っていなかった。在家(アジャセ王)とぴったりコネを作って、一般人に気に入られるようにふるまった。在家の機嫌をとったり、自分の顔や名前が知られるようにしたり、それはブッダの薦める生き方とは違う。お釈迦さまは、Kassapo, bhikkhave, candūpamo kulāni upasaṅkamati マハーカッサパ尊者は月の喩えのとおり托鉢しますよ……と、マハーカッサパ尊者を模範例として出したのです。

 

マハーカッサパ尊者はアーナンダ尊者をよく叱った。アーナンダ尊者の直接の師匠はマハーカッサパ尊者。アーナンダ尊者は釈尊の側近で秘書だったので、在家とよく接触しました。マハーカッサパ尊者はそれが気に入らなかった。『君はだらしない』と叱った。アーナンダ尊者は黙って聞くしかなかったんです。マハーカッサパ尊者は厳しく道徳を守った。村に入らず、洞窟に住んだ。他のお坊さんのところにも行かなかった。面会に来た若い僧侶が洞窟の天井の装飾に気づいて褒めると、一言「君たちに目があって良かったね」と。カッサパ尊者は全く無関心だった。道徳的な生き方はただ項目を守ればいいということではない。月の喩えのように、心身を調え、いつでも新人の気持ちで、けっして調子に乗らない。マハーカッサパ尊者はそれを完璧に実践していたのです。

 

釈尊:どのような比丘が在家に会うに相応しいのでしょうか?

比丘たち:教えはお釈迦様から頂くものです。お釈迦様が私たちの帰依所です。……ですから、ぜひお釈迦様が教えてください。お釈迦様から聞いて私たちは憶えておきます。

Atha kho bhagavā ākāse pāṇiṃ cālesi.その時、釈尊は手を空(虚空)に振って、こう仰った。

釈尊:この手を空(虚空)に振っても何にもぶつからない。そのように比丘が在家に会っても決してぶつからない心でいる。…

 ‘labhantu lābhakāmā, puññakāmā karontu puññānī’ti; 

「利益が必要な人々は利益を得てください。功徳を必要とする人々は功徳を得てください」と(念じて托鉢する)。どんなわずかであっても得たものに満足し、他人が得たものにも喜び満足する。そのような比丘が在家に会うに相応しい。

……しかしそういう比丘にはなかなか巡り合えない。マハーカッサパ尊者はそのような方ですよ、と。

 

比丘たちよ、汚れた説法とは何か? 清らかな説法とは何か? ある比丘が、『私の説法を聞いてほしい、説法を聞いて喜んで欲しい、私にも何か(便宜を)示して欲しい』という説法は汚れた説法である。ある比丘が、svākkhāto bhagavatā dhammo sandiṭṭhiko akāliko ehipassiko opaneyyiko paccattaṃ veditabbo viññūhīti六つの徳があるブッダの教え(法)をよく聴いて欲しい、聴いてよく理解してほしい、その通りによく実践してほしい、そのように教えの素晴らしさを考えて、それだけ気にして他人に説法する。人々に対して慈しみをもって・憐みをもって、心配して・心を痛めて、説法を始める。それが清らかな説法である。

 

……微塵も(自分を称賛してほしい、好んでほしいという)期待はない。期待は、真理を実践してほしい、ということだけ。マハーカッサパ尊者の説法はそのような説法だよと。

 

……ある時、アーナンダ尊者が尼さんたちに説法していた。尼さんたちの心は汚れていたんです。アーナンダ尊者は美男子だったので、口をあけてうっとり見ていただけ。そこにボロボロの老人のマハーカッサパ尊者が来て説法を始めたので、尼さんたちが怒った。アーナンダ尊者はカッサパ尊者に平謝り。『この女たちは愚か者なので……』カッサパ尊者は出ていった。カッサパ尊者の説法を聞いても面白いとは限らない。みじんも他の人々の機嫌を取るつもりはなくて、ただ人々を心配して説法しているだけ。釈尊の他にそんな方はいない。人格的には、マハーカッサパ尊者はほぼ釈尊と同等の方でした。

 

この経典では、聖者の徳について、一般人にはわかりづらい徳について、お釈迦様が掘り下げて発表したのです。

皆さんにも関係ある教訓はないけれど、仏教はいかに尊い品格のある教えかということを説いている。

 

出家は食事をもらってもお礼も言わないし、日本文化のようにやたら褒めない。日本では、おかしなことに、相手が自分を褒めることを期待する。日本社会では褒めてあげると無茶苦茶やってくれます。でも、私はそれは良い性格とは思えない。この人々はあまりにもシンプルですぐやられちゃうでしょうと。褒められると調子に乗ってバンバンやってしまう。簡単に詐欺師たちに騙される。これは私から見ると日本の方々のダメだなぁと思うところ。

 

親子関係でも気をつけた方がいい。子供はちょっと褒めてあげると有頂天になって何でもする。そこは気をつけないとあかんですよ。自分の利益を考える汚い思考ではなくて、人間関係としてもちょっとまずい。子供に褒められたからとお母さんが何でもやっちゃったら、子育てにならない。親は「そんなおだてに乗りませんよ」と言わないといけない。それは気をつけた方が、皆さんの生きている社会にとってもいいことだと思います。

 

詐欺師もまず褒める。それでおばあちゃんたち騙されて印鑑も通帳も詐欺師に渡してしまう。マニュアル通りにほめておだてて、儲け話を持ってきて騙す。常識で考えれば、ボロ儲け話などあやしいと思うが、褒められたところで舞い上がってしまう。これは気をつけた方がいい日本社会の特色なんです。

 

仏教の出家は、人々が悩んでいたら、そこは解消してあげるようにちゃんと仕事する。終わったら、それで終わり。そのように厳しい道徳がある。

 

なぜ出家は、在家からお布施をもらっているくせに個人的にガチャガチャ関係を持たないというのは、道徳的なポイントがあるんです。利害関係があると、純粋な布施ではなくなってしまう。せっかく功徳を積む機会なのに、お布施の功徳が減ってしまう。それを心配して、お釈迦さまは出家に厳しく道徳を説いたのです。

 

(経典解説終り。以下、質疑応答より)

 

*「身を整え、心を調え」について

 

自分の心を汚しながら、社会のために尽くす、という変な考えがある。それはいい加減な考え。自分が泥沼に嵌りながら、人々を助けるというのは仏教ではダメというのです。出家は自分の心が清らかでなければ、在家の方々の役に立ちません。

 

在家の方々も、流行りに乗ったりする前にまず自分の安全を考えて行動することです。これは極端に警戒心を持つということではなくて、危険を認識しましょうということ。たとえ冥想しているお坊さんでも、ちょっとお祭の雑踏に入ったりすると、在家生活が恋しくなって還俗してしまうというケースはけっこうあった。

 

皆様にしても、世界の事に関係を持たなくてはいけないし、流行りを調べなくてはいけないし、しかしいきなり飛び付くのではなく、どうかな?ほんとにそうかな?と考えた方がいい。流行りのラーメン屋にわざわざ何時間も並ぶものですかね。私は情けないと思っちゃいます。他にやることないのかもしれませんが、それもTVCMなどに惹かれて行くのであって……ラーメンくらいなら大丈夫ですが、ひどい目に会うこともあります。

 

家族関係でも、まったく評価されないならストライキしてもいい。毎日ご飯作っているのに家族がわがままだらけとか。それだったら家事を放棄してもいい。それは躾であって。かといって、子供の褒めに乗ったらいけない。そこは微妙に調整して気をつけないといけない。

 

Qお布施の功徳の高低とは?

 

在家は自分を喜ばしてくれる出家を求めています。それに応える出家は当然、人気者です。在家に人気のある坊主というのは特色がある。(スリランカでも)散々見てきましたからw そういう坊主はどんな仕事があっても在家の人が来ると走って出ていって案内する。ものすごく丁寧に面倒を見てあげて、喜ばしてあげる。人の名前やプロフィールを事細かに憶えている。データバンクのよう。しかしそれは仏教の世界と関係ないんです。在家が感情で喜ぶか喜ばないかは功徳と関係ない。業の働きと、俗の感情はずいぶん違いますよ。

 

お布施は個人が行うことだから、個人が自分の欲を無くすことだから。どんな人に対しても、動物に対しても、困っているなら助けてあげれば功徳になります。徳の高いお布施をしたい、というのはちょっとケチな考えなんですね。

 

スリランカでも『自分たちは徳の高い僧侶を探しているんだ』と威張る在家はいますが、例外なく詐欺師に引っかかるんです……。はじめから心が汚れているんだから。業のはたらき、心のはたらき、というのは、私たちの好き勝手な気分で動くものではないんです。ただ私にはある。この人にはない。だがこの人には必要だから、差し上げますと。その場合は欲が無いんですね。善業としてはたらくんです。それで差し上げた人にとって大いに助かったなら大きな功徳になる。徳を積むためには自分を戒めるしかないんですね、相手を選ぶのではなく。

 

(徳の高い人の)波長を感じる、ということはあります。そのために月の喩えを出しています。月のような清らかな人が来たら、たとえ悪人でも穏やかな気分になります。でも……それを感じる能力が無いでしょうね。私はお布施を宣伝する人ではない。布施とは善行為の一つです。それで終わり。執着しているものから離れる力を持ちなさいと。死んでも幽霊になってウロウロするんじゃないんだよ!と。離れる気持ちを持つパワーが、徳というものなんですね。

 

マハーカッサパ尊者はブッダに近い徳を持つ方で、お布施するチャンスはほとんどなかった。しかしマハーカッサパ尊者は極端に貧しい不可触民の村をわざわざ選んで托鉢したそうです。その方々はすごい徳を積んだでしょうね。

 

質疑応答 終り)

 

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やめたいことは、やめられる。

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