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『白木念仏』證空上人(西山国師)御法語

白木念佛(しらきねんぶつ)

 

自力の人は念佛を色(いろ)どるなり

或は大乗の悟りを以て色どり

或は深き領解(りやうげ)を以て色どり

或は戒を以て色どり

或は身心を調(ととな)ふるを以て色どらんと思ふなり

定散(ぢやうさん)の色どりある念佛をば仕課(しおほ)せたり

往生疑ひなしと歓び

色どりなき念佛をば往生は得せぬと歎くなり

歎くも歓ぶも自力の迷ひなり

 

大経(だいきやう)の法滅百歳(はふめつひやくさい)の念佛

観経(くわんぎやう)の下三品(げさんぼん)の念佛は何の色どりもなき白木の念佛なり

本願の文の中の至心信楽(ししんしんげう)に称我名号(しようがみやうがう)と釈し玉へるも白木になりかへる心なり

 

所謂(いはゆる)観経の下品下生(けぼんけしやう)の機(き)

佛法世俗(ぶつはうせそく)の二種の善根(ぜんごん)なき無善の凡夫なる故に何の色どりもなし

(いはん)や死苦に逼(せめ)られて忙然(ばうぜん)となる上は三業ともに正体なき機なり

一期(いちご)は悪人なるゆえに平生(へいぜい)の行のさりともと頼むべきもなし

臨終には死苦にせめらるるゆえに止悪修善(しあくしゆぜん)の心も大小権実(だいせふごんじつ)の悟りも曾(かつ)て心におかず

起立塔像(きりふたうざう)の善も此位(このくらい)には叶ふべからず

捨家棄欲(しやけきよく)の心も此時(このとき)は発(おこ)りがたし

(まこと)に極重悪人(ごくぢうあくにん)なりと更(さら)に他の方便あることなし

 

(も)し他力の領解もやある名号の不思議をもや念じつべきやと教ふれども苦にせめられて次第に失念する間(あひだ)

転教口称(てんけうくしよう)して汝(なんぢ)若し念ずること能はずば応に無量寿佛を称すべしと云ふとき

意業(いごふ)は忙然となりながら十声(じふしやう)(ほとけ)を称すれば声々に八十億劫(はちじうおくこふ)生死(しやうじ)の罪を滅して見金蓮猶如日輪(けんこんれんげゆによにちりん)の益(やく)にあづかるなり

此位には機の道心一(いつ)もなく定散の色どり一もなし

(ただ)智識の教へに髄(したが)ふばかりにて別のさかしき心もなくて白木に称えて往生するなり

(たとへ)ば幼少(いとけなき)ものの手を取て物を書(かか)せんが如し豈(あ)に小兒(せうに)の高名(かうみやう)ならんや

下々品(げげほん)の念佛も又(また)(かく)の如し唯知識と彌陀(みだ)との御心にて僅(わづか)に口に称へて往生を遂(とぐ)るなり

 

彌陀の本願はわきて五逆深重(ごぎやくじんぢう)の人の為に難行苦行せし願行(ぐわんぎやう)なる故に

失念の位の白木の念佛に佛の五劫兆歳(ごこふてうさい)の願行つづまりいりて

無窮(むくう)の生死を一念につづめ僧祇(そうぎ)の苦行を一声(いつしやう)に成ずるなり

 

又大経の三宝滅盡(さんばうめつじん)の時の念佛も白木の念佛なり

其故は大小乗の経律論(きやうりつろん)(みな)龍宮(りうぐう)に蔵(おさま)り三宝の盡(ことごと)く滅しなん

閻浮提(えんぶだい)には唯(ただ)冥々(みやうみやう)たる衆生の悪の外には善と云ふ名だにも更にあるべからず

戒行を教へたる律も滅しなば何(いづ)れの教へに依りてか止悪修善の心もあるべき

菩提心(ぼだいしん)をとける経若し先だちて滅せば何れの経に依りて菩提心をも発すべき

此理(このことわり)をしれる人も世になければ習(なら)ひて知るべき道もなし

(かるがゆえ)に定散の色どりは皆失せ果たる白木の念佛六字(ねんぶつろくじ)の名号ばかり世には住(ぢう)すべきなり

其時(そのとき)聞(きき)て一念せんもの皆まさに往生すべしと説(とけ)

(この)機の一念十念して往生するは佛法の外なる人の唯(ただ)白木に名号の力にて往生すべきなり

 

(しかる)に当時(たうじ)は大小の経論のさかりなれば彼時(かのとき)の衆生には殊の外にまされる機なりと云ふ人もあれども下根の我等は三宝滅盡の時に人にかはることなく

世は猶(なほ)佛法流布(ぶつはふるふ)の世なれども身は独り三学無分(さんがくむぶん)の機なり

大小の経論あれども勤め学せんと思ふ志(こころざし)もなし

(かか)る無道心の機は佛法にあへる甲斐のなき身なり

三宝滅盡の世ならば力及ばぬ方もあるべし

佛法流布の世に生れながら戒を持たず定恵(ぢやうえ)をも修行せざるにこそ機の拙く道心なき程も顕(あら)はれぬれ

斯る愚(おろか)なる身ながら南無阿彌陀佛と唱ふる所に佛の願力盡く圓満(えんまん)する故に

ここが白木の念佛のかたじけなきにてはあるなり

機に於ては安心(あんじん)も起行(きぎやう)も真(まこと)すくなく前念(ぜんねん)も後念(ごねん)も皆愚かなり

妄想顚倒(まうざうてんだう)の迷(まよひ)は日を追ふて深くねても覚ても悪業煩悩(あくごふぼんなう)にのみほだされ居(ゐ)たる身の中よりいづる念佛はいとも煩悩にかはるべしとも覚えぬ上に定散の色どり一もなき称名なれども前念の名号に諸佛の万徳(まんどく)を摂する故に心水泥濁(しんすいでいぢよく)に染(そ)まず無上功徳を生ずるなり

なかなかに心を添へず申(まを)せば生(うま)ると信じてほれぼれと南無阿彌陀佛と唱(となふ)るが本願の念佛にてはあるなり

これを白木の念佛とはいふなり

 

出典:西山國師御法語 明治29年 和歌山県総持寺

国立国会図書館デジタルコレクション - 西山国師御法語より)

久々の更新は、いぜんFacebookのノートに書写した証空上人(法然上人の高弟。西山浄土宗など西山義諸派の祖)の「白木念仏」法語をインポート。ネットにテキストデータは載っていないようだったので。出典は『法然上人絵伝』なので、いわゆる聞き書きってやつだろうけど、日本における和文の宗教文学の白眉たる内容だと思います。これほど美しくやわらかく、仏教における”終末”のビジョンを浮かび上がらせてくれる文章がほかにあるでしょうか? あるかもしれませんけど、あったとしても「白木念仏」がその随一であることは揺るがないでしょう。

別に西山浄土宗の檀家ってわけでも何でもないんですけど、「白木念仏」だけでなく、証空上人の日本語はやけに好きなんですよね。キラーコンテンツといえば、超短文でレリゴーな日本浄土教スピリッツを表した『鎮勧用心』がありますね。

鎭勸用心(ちんくわんようじん)

 

ねむりて一夜(いちや)をあかすも報佛修徳(はうぶつしゅうとく)の内(うち)にあかし

さめて一日(いちにち)をくらすも彌陀内證(みだないしょう)のうちにくらす

機根(きこん)つたなくとも卑下(ひげ)すべからず

(ほとけ)に下根(げこん)を摂(せつ)する願(ぐわん)います

行業(ぎやうごふ)とぼしくとも疑(うたが)ふべからず

(きやう)に乃至十念(ないしじふねん)の文(もん)あり

はげむもよろこばし正行増進(しやうぎやうぞうしん)の故(ゆゑ)

はげまざるもよろこばし正因圓満(しやういんえんまん)のゆゑに

(いたづら)に機(き)の善悪(ぜんあく)を論(ろん)じて佛(ほとけ)の強縁(がうゑん)をわするることなかれ

不信(ふしん)につけてもいよいよ本願(ほんぐわん)を信(しん)

懈怠(げだい)につけてもますます大悲(だいひ)を仰(あふ)ぐべし

 

出典:西山國師御法語 明治29年 和歌山県総持寺

国立国会図書館デジタルコレクション - 西山国師御法語より)

証空上人にはじまる西山義の教義も、信仰は措いて、日本浄土教の中ではもっともエレガントな論理に貫かれていると思います。良くも悪くも、近世に成立した「日本教」の一つのルーツとも言えるでしょう。僕が死ぬまでに、証空ブーム来るんだろうか……。来てほしいなぁ。

ちなみに、ツイッターでは@seizan_botさんが証空上人のグッとくる美しい法語を呟いてくださってます。

証空上人は難解かつ独特な『観経疏』註釈だけでなく、『女院御書』に代表される素晴らしい内容の和文法語を残しています。でも、どれも手に入りにくいんですよ。せめた『西山上人短編鈔物集』(未読)くらいは再刊してほしいと思いますが、宗派が小さいので発信力も弱いんでしょうね。とりあえず、明治時代に出た法語ダイジェスト版『西山國師御法語』は著作権問題もないと思うので、折を見てコツコツとテキスト化したいと思ってます。

以上、個人的な偏愛記事でした。リンクは、僕が証空上人のことを知るきっかけになった本です。ちょっとマニアック過ぎて脳がしびれると思います。西山義は、きっと日本仏教研究のフロンティアですね。あと書籍にはまとまってませんが、西山浄土宗の教学研究やってる西山短大・徳岡亮英先生の論文憶念について
On Buddhanussati
など)は初期仏教好きの観点からも興味深いものが多いので、一読をお勧めします。

證空辞典

證空辞典

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~