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togetter「"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり」メモ

魚川(ニー仏)氏の『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』が話題になっているせいか、地味なテーマのわりに閲覧数が伸びているtogetterまとめがある。

togetter.com

僕の過去つぶやきも拾って頂いてて、当時はこんなことずっと考えてたんだなぁ、と懐かしい気持ちになった。こちらのブログでも仏教用語の"念(sati)"の解釈について書いたことがある。ちゃんと調べるとなると自分の手に余るので、新刊『日本「再仏教化」宣言!』には入れなかったけど。

naagita.hatenablog.com

んで、件のtogetterまとめの中で、satiは"念"のままでいいという主旨のことを言っている人は現場を知らないし、ためにする難癖としか思えない。日本仏教史における"念"の多義性とめまぐるしい用法の変遷を想起して欲しいものだと思う。

現代日本語で"念ずる"と言う場合は、完全にanussati(随念)の意味に振れてしまっているし、"念には念を""正念場"などにはawareness,mindfulness と訳される場合のsati に近づくが、その言葉のイメージする範囲が狭すぎて注釈が必要になる。

訳語に注釈的な説明を添えなくとも実践すべき内容が相手に伝わる"気づき"、具体的には「瞬間瞬間に起こる感覚の変化に気づいてください」などの日本語表現によって、どれほど多くの日本語話者が仏道のかなめを会得することができたことか。

(ここまでのTwitter元発言も上記まとめに拾われてますね。ややこし……)

読んでるとイライラするところもあるんだけど、まとめができたことをきっかけに、水野弘元『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論 』を読み返してる。これがたいへん刺激的で勉強になる。パーリ『法集論』に従って計算すると、"出世間第一善心、預流道心"=最初の覚りの心 が生じるパターンは3200種類もあるのか!(204p)とかね。まだ通読したわけではないけど、以下は『……心識論』読んであらためて気づいたことのメモ。

 

Satiに関する覚書:

厄介なことに、仏典がインド諸言語から漢訳される過程で、念は sati,smṛtiの他 manasikāra 作意、vitakka 尋 の訳語としても用いられた(※玄奘以前の旧訳) 。例えば、「正念能生一切功徳、邪念能起一切煩悩(正念は能く一切の功徳を生ずるも、邪念は能く一切の煩悩を起こす)」(『成実論』巻六 念品 第八十六)という場合の正念はyoniso-manasikāra 如理作意の、邪念はayoniso-manasikāra 非如理作意の異訳である。ちなみに『成実論』におけるsati,smṛtiの訳語は「憶」だ。

この『成実論』の訳がいかほど影響を与えたかは分からないけれど、日本語として熟している「邪念」は、micchā-sati ではなくayoniso-manasikāra 非如理作意の意味に近いのではないかと思う。「雑念」という場合の念も、sati というよりはmanasikāra の訳だろう。先の『成実論』引用文にしても、念をmanasikāraではなく、satiの意味に誤解して読んでもフレーズとして成り立たなくもないところが悩ましい。

……という訳語の混乱を念頭に置いて、日本仏教の祖師法語や禅語録を読み返してみると面白いのではないか?

『成実論』は鳩摩羅什の訳である。この論をもっぱら研究する成実宗三論宗の寓宗とはいえ、南都六宗に数えられている。その他、羅什訳の経典に依拠して書かれた仏教書も数限りない。日本仏教の文脈において、”念”はどの程度まで”sati,smṛti”に紐づけられるのか? Sati=気づき という日本語訳にイチャモンつけるのは、その検証が済んでからでも遅くないだろう。

追伸:

ここまで書いて、手元にある『成実論』読み返してたら、三十七菩提分法に触れてる箇所では、catu-satipaṭṭhāna(smṛtyupasthāna)をふつうに「四念処」と訳してるんだよね(巻二 四諦品 第十七)。一体どうなってんの? 成実宗のお坊さん、教えてプリーズ。えっ? もう滅びちゃった……orz

新国訳大蔵経―毘曇部〈7〉成実論(2)

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新国訳大蔵経 インド撰述部―毘曇部〈6〉成実論(1)

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~