初期仏教の「判断」論

新宿住友ビルなう。スマナサーラ長老の講演(朝日カルチャー初期仏教入門:小さな判断と、大きな決断〜野菜の選び方から、ダム建設の是非まで)。判断について。耳に引っかかった事を呟きます。ここから。
posted at 18:36:38

判断する事は生きる上で不可欠。小さな範囲でも大きな範囲でも絶えず判断を迫られる。判断する事に怯えてしまうと生きていけなくなる。判断間違うと人生は不幸に陥る。世界レベルの問題も起こる。
posted at 18:39:57

我々は正しい判断をしないといけない。でもそれが出来るのか? 判断力が必要。判断力は誰でも持っている。だから生きている。判断する事は人生の鍵。問題は、判断力を向上する訓練しない事。
posted at 18:42:29

現代社会では、判断を回避して誰かに「任せる」人生になっている。これでいいのか? 経済も「流れに任せる」事が正解だと思い込んでいる。政治家が「円はちょっと高すぎ」と言っただけで大騒ぎ。結果として一部の人が社会を好き勝手に動かしす。
posted at 18:47:57

ここまで世間論。ここから仏陀の分析。生命には本能として付いている判断力がある。それは生命の危機を避けるため。自然界では、生命が目まぐるしく判断しながら死ぬ危険を避けている。
posted at 18:52:11

皆様も活発に生きたければ、毎日、死の危険にあわないとw 生きる事は本来「苦」です。生き続けようとする事は、その苦を何としてでも変えたい。その瞬間の苦を変える事が、本能的な判断力です。
posted at 18:58:24

本能の判断はだいたい正解です。痛いんです。それを避ける。痛みがないと本能が働かない。そういう瞬間の行動も判断。本能は渇愛。生きる事は苦だから、三つの渇愛が出てくるのだと仏陀は説く。
posted at 19:05:30

欲愛:欲の衝動。五欲を楽しむと生きる苦しみが無いようになる。痛む場所をマッサージするようなもの。有愛:生き続けたいという衝動。無有愛:飽き飽きうんざりして全て根絶してしまいたくなる衝動。
posted at 19:07:57

本能は主観的な判断になる。周りに対する理解は自分の主観で作る。人間も、動物たちも。目の前の害虫駆除のために農薬を捲くが、それで土壌が死ぬ事には気がつかない。沢山被害が出るまで止めない。
posted at 19:12:51

問題は、修行しないと本能にはアクセスできないこと。仏教には本能にアクセスする方法論がある。一般社会では本能は変えられないと思っている。仏教学者の一部もそう言うが理屈は成り立ってないw しかし、本能は変えられます。釈尊の初期仏教で論理的に方法も説かれている。
posted at 19:18:35

存続するための判断は生存欲という。有欲。欲が問題。欲の判断は理性的では無い。それは、賭け、になる。飢えている人は、食べられるか否か判断せずにとにかく口に入れてしまう。
posted at 19:26:23

(長老、生命の生存欲の盲目性の例として、DVD『アース』の内容を紹介中。私も観たけど、畜生道は人間に輪をかけて大変だよ。)
posted at 19:31:41

動物番組を観ると本能の働きがわかってきます。あれは動物だから、人間は特別だ、という西洋思考でいると、真理が解らなくなる。結局、皆も動物なのです。
posted at 19:35:20

我々はいつも、一か八かで本能を働かせている。だから結構、失敗する。地球の生命は存続するために必死に戦っている。その戦いが地球生命の存続を脅かしているという矛盾。
posted at 19:40:58

生きるために一歩進むことが、生きる事を脅かす。しかしその一歩を踏み出さなかったら、死にます。
posted at 19:44:38

このジレンマに仏教は答えを持っています。それが中道。両極を乗り越える道。超越道。(詳しくは次回)動物も昆虫も微生物も必死で生存の戦いをしている。その戦いが彼等の存続を脅かしてしまう。
posted at 20:04:03

人間の生存もそろそろ終わり…というのは大げさですね?存続の努力が全滅の結果になる。それが本能の判断の結果。
posted at 20:07:19

生き物の判断。恐らく、動物は考えていない。本能(存在欲)で瞬時に結論に達する。教育もいらない。人間よりうまく行っているように見えるが、たった一つの判断ミスでも命を失う。本能の判断は、生きるか死ぬか。
posted at 20:10:07

人間の判断は? 1本能的判断、2感情的判断、3知識的判断がある。判断ミスが必ず死を招く訳ではない。だから軽々く判断する。間違った判断ばかり。本能、感情、知識という三つの基準の間で迷ってしまう。判断のため時間を浪費する。
posted at 20:16:38

正しい判断に達しても、もう時間切れになる。正解は事が起きてから分かる。こうすべきだった、と。締め切りは過ぎてます。何時でも事故が起きてから原因追及する。
posted at 20:19:53

原因究明、対策などを人間の知識に追加する。生きる上で知識が増える。知識は生存に直接関係ないので、indexがよく出来ていない巨大図書館のようなもの。知識に負担。
posted at 20:23:12

必要な時、必要な情報が出てこない。また時間経過で古い知識は消える。人には知識の管理ができるので、知識重視で生きている。命に関わらない事柄なら知識の判断で充分。しかし知識の判断は時間がかかる。
posted at 20:27:06

感情は知識の障害。感情が知識を操る。欲、怒りを中心とした悪感情が生きるうえで主役。慈しみ、施しの気持ちなどは少ない。人には知識の管理はできるが、感情の管理はできない。それは修行者の宿題。 感情で知識が汚れる。
posted at 20:30:36

感情は基本的に猛毒。一つの感情、例えば怒りの感情が他を抑えて上がると、自分にも他人にも危険な判断をして行動する。一つの感情が上がると自己破壊になるので、別な感情で緩和する。
posted at 20:33:44

毒を毒で制すると言っても、次のその毒が自己破壊をはじめめる。知識の支配者は、感情です。知識人も感情で驚くほど無知な誤った判断をする。知識の安全な?判断は、感情が動乱をおかすまで。悪感情が自他が不幸になる判断をしてから、知識に頼って判断を正当化しようとする。
posted at 20:38:54

人間は知識至上主義と言いつつ、判断する時は感情に左右される。
posted at 20:42:37

本能の本質:生かされている「衝動」は「苦・ドゥッカ」です。苦はこころの問題だが体でも心でも我々は具体的に苦、苦しみ、空しさ、満たされない気持ちを持っている。この「根本苦」をどうにかしようとする働きが本能。
posted at 20:47:53

1体の苦しみを避ける、2こころに起こる嫌な気持ちを避ける、3子孫を残すこと。この3つが本能の働き。 1はこころが「死の恐怖」と翻訳する。3は必ずあるとは言えない。自己に対する愛着として本能は感情に変換されて働くのです。
posted at 20:50:42

本能は感情を支配する。感情が高ぶると自己破壊的。理解能力も理性も生存欲もなくなって頭が狂った状態になる。自己愛という本能がそれを制御する。
posted at 20:53:14

自己愛という本能がなければ人間も動物も何をするかわからない。人間が普通に冷静に生活するのは感情を本能である程度で制御しているから。 仏教の一般道徳は、自己愛に期待している。自己愛を刺激して善い人間へと導く。
posted at 20:56:35

偽善が好きな人間は、自己愛が無いことにする。その人が他人のために、と思うものは他人の迷惑になる。 自己愛に気づくと感情の管理ができる。 冷静道徳的に生きられる。感情の管理ができると、知識も整理される。
posted at 20:58:55

自己の命に関わることが起きたら判断は本能が下す。感情、知識の基準を全解除して、「自己を守る」という基準で物事を判断する。という訳で人間の判断は常に揺れ動く。
posted at 21:01:19

判断する過程で、知識、感情、本能の間で判断が揺らぐので、いつでも結果に悩む。将来を妄想する場合。思考とは揺らぎっぱなしの概念の流れ。時間をかけて対話して計画立てても、人間には将来は予測できない。判断が外れると非難される。しかし起こってから批判するのは誰でもできる。
posted at 21:13:51

判断する時は必ず、人の心は揺らぐ。最終決断は決して気持ち的には最終では無い。ずっと揺らいでいる。しかし我々は正しい判断を期待してしまう。
posted at 21:15:47

してはいけない判断。人の判断はしてはいけない。性格はつねに変わって行く。良いひと悪い人と判断してもうまくいかない。他人を差別することになる。エゴの強化になる。やむを得ない場合は、せいぜい過去のデータで判断するだけ。決め付けられない。更新可能性を残しておくこと。
posted at 21:22:53

以上スマナサーラ長老のお話より。後半はかなり舌足らずだったけど、御容赦を。
posted at 21:31:15

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