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慟哭の明治仏教(寺内大吉)

慟哭の明治仏教 幕末篇

慟哭の明治仏教 幕末篇

慟哭の明治仏教(上) 明治篇

慟哭の明治仏教(上) 明治篇

慟哭の明治仏教(下) 明治篇

慟哭の明治仏教(下) 明治篇

通読してため息が出た。幕末編の「はじめに」より。

 私の父は明治二十年(一八八七)信州の伊那で生まれた。六歳になったばかりで上京した。親戚の小父に連れられて未だ中央線が開通していなかったので、和田峠を馬で越えて信越線に乗り、上野駅へ着いたという。同じ年ごろの従兄が一緒だったが、株屋と寺の小僧とに振り分けられた。
 先代が若死にしたので、その姪と結婚し二十一歳で住職となった。私は五番目の子で、上が娘ばかりなので生まれながらにこの寺を継ぐことが約束されていた。
 生まれながらに、とは書いたが、わが浄土宗教団で僧が正式に妻帯し血縁の嗣子が出現したのは私たちが第一号である。
 「明治」という厳しい時代変革のなかで仏教各宗の教団も変革を強いられた。なぜ肉食妻帯だったのか。なぜそれをやらなければ仏教は新時代に生き残れなかったのであろうか。
 長年にわたって疑念が私の胸底でいぶり続けた。大げさな言い方をすれば“わが出生の秘密”を探ってゆきたい衝動が青年期からいつもつきまとってきた。
 神仏分離廃仏毀釈……歴史上の現象は簡単に知ることができた。そんな迫害を受けてまで、なぜ教団や寺を護持しようとしたのであるか。信仰とか永年の伝統だけでは裁量しきれないものがある。
 何よりも師弟関係で寺院に繋がれていた若い宗侶たちが、なぜ踏み止まったのであろうか。仏教の未来に何を透視できたのであるか。勝手に離散していったとしても何の不思議もないはずである。
 一例に明治七年(一八七四)の「火葬禁止令」がある。寺院僧侶が果たす社会的役割、と同時に主たる収入源だった葬式から火葬礼を除去するというのである。
 儒教を軸とした神道は火葬を忌避した。尊重すべき父母や同胞の遺体を火に投じて灰燼に帰するなど、許しがたい“蛮夷ノ弊習”である。「火葬の儀、自今禁止候事、此旨布告候事と太政官布告は厳命した。宗教行政を担当する教部省の主要ポストを神官が独占していた。
 これに対応した寺院側、ことに大都市の東京や大阪では土葬にそなえて墓地域の拡張をはかった。ために近代国家を目ざす明治新政府の都市計画は墓地用地買い占めのために瓦壊する危機を感じたほどだった。
 火葬禁止令から二年足らず、こんどは都市地域での土葬禁止令が発令された。新政府の無定見さもだが、寺院側のこの粘り。お先まっ暗なこの時代に何を見つめていたのか。後代の私たちは一つ一つ事実を掘りおこしながら、その本質を見きわめてゆかねばなるまい。
 僧侶が妻帯し、一般市民と変わらない生活をして果たして生きのびられるのであろうか。仏教各宗の眼は、あのとき特定の教団へ注がれたにちがいない。
 本願寺教団である。東西本願寺はそれを実践して徳川三百年間、隆々と生き抜いてきたではないか。
 本願寺教団に追随してゆけば、必ずこの難局を切り抜けられるであろう。江戸の武家政権下「そんなものは坊主じゃあない」と軽蔑してきた非僧非俗の教団を見習おうではないか。
 明治の僧たちが光らせたそんな眼を、いま私も光らせている。
 幕末から明治維新にかけて、あの嵐の中で翻弄された、日本仏教の実像を追い求めるとき、私は視座をこの本願寺教団へ据えないではおれなかった。
(後略)

日本仏教の近代化とは、一言でいえば既成各宗派がいっせいに「浄土真宗化」したことだった。廃仏毀釈の影響も、真宗と他宗派とでは質的にずいぶん違っていたのである。


幕末から近代にかけて、日本史に果たした本願寺の役割とは一体なんだったのだろうか? 鳥羽伏見の戦いの際に、京の禁裏を守ったのは西本願寺の軍隊であった。北畠道龍による和歌山軍の練成は、紀州藩を日本最強レベルの軍事国家に仕立て上げた。


本願寺という新興「寺社勢力」は、維新前後の混乱期においても有力なプレーヤーの一人であり続けたのである。明治維新の功労者は、実は「薩長土肥お西」だったとは、言えまいか。


寺内大吉が小説という手法で描きだした本願寺の来歴は、近代仏教史研究の一つの方向性を指し示しているように思えてならない。


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