般若心経が否定しなかったもの

(般若心経は)空を体得するために、五蘊、十二支十八界、十二因縁、四聖諦、などをことごとく否定していきます。しかしそれらはとても本当は大切な仏教の教えの根幹です。*1

何でも「無」にする『般若心経』が、否定しなかったもの。


それは、釈尊の遺訓に説かれた四念処などの三十七道品(三十七菩提分法)である。


木下全雄師(高野山真言宗 五戒を守る僧侶の会代表)の

を読んで「通仏教」とは何かとあらためて考えはじめて、


横山全雄師(真言宗大覚寺派 備後國分寺住職)の

を読んで、触発されて形にしてみた次第。で、後者の記事にコメントしたのが以下の文章。

般若心経が否定しなかったもの (naagita)


いつも熱意のこもった論説を拝読しております。法恩に感謝いたします。


今回のエントリでも触れられている通り、初期仏教の立場から読むと『般若心経』には、様々な問題点があります。

般若心経は間違い? (宝島社新書)

般若心経は間違い? (宝島社新書)

しかし、最近ふと、般若心経が否定しなかったものは何か?ということを考えてみたのです。すると、あることに気づきました。


無・無・無とむやみやたらに否定し続ける般若心経も、釈尊の遺された修行法である三十七道品(三十七菩提分法)だけは否定しなかった、ということです。すなわち、四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道は否定されていないのです。


『大般涅槃経』(パーリ)で釈尊が如来の入滅を宣言したとき、

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

比丘たちよ、これらが私のよく知り、説いてきた法です。そなたたちは、それらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への憐みのために、人・天の繁栄のために、利益のために、幸福のためになるように、親しみ、修し、何度も行わなければなりません。

として釈尊が挙げた項目が、四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道です。般若心経の作者も、さすがに釈尊の遺訓を否定することはしなかったのでしょうか。


それだけではないと思います。般若経典群の作者であった学僧たちも、実践していたのは四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道だったのです。


『大品般若経』とその注釈である『大智度論』においても、よく読むと≪般若波羅蜜とは即ち三十七道品の実践≫とされています。修行法の具体的な説明も初期経典とほぼ同じものです。言葉だけ借りて全く違うことを説いているわけではありません。


大品般若経の魔事品では、人々が大乗経典を捨てて、初期経典を尊ぶことを「悪魔のしわざ」と警告しますが、般若経においても初期経典においても、修行道は同じ三十七道品であるのに、なぜ初期経典を読むべきではないのか、という疑問には説得力のある答えを出せていません。(結局、「菩薩道」という心意気の問題に還元されています。)


初期経典に説かれる修行道は三十七道品であり、般若経典群に説かれる修行道である般若波羅蜜も結局は三十七道品以外のなにものでもありません。行相においては、大乗もテーラワーダも、同じことを実践するしかなくなるのです。


そうすると、三十七道品(四念処など)の実践に励む人々はすべて、釈尊の遺訓(大般涅槃経に説かれた訓戒)に従う仏弟子であるとみなすこともできます。


以上のように教相判釈ならぬ「行相判釈」で経典を分析していくと、不毛な教理論争を乗り越えた通仏教的な仏教理解の足がかりが成り立つかもしれない、という気がしはじめているところです。


全雄師の論説に触発されて長文となってしまいました。今後ともよろしくお願いいたします。


ご存知のとおり『般若心経』は、

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄

という言葉から始まる。にもかかわらず、観自在菩薩が深く行じていた「般若波羅蜜多」ってぶっちゃけ何?という事はあまり気にされていなかったように思う。


しかし般若心経の親分である『大品般若経(摩訶般若波羅蜜経)』その注釈『大智度論』を読むと、般若波羅蜜多とは三十七道品の修習に他ならないことが明記されている。*2


宗派意識丸出しで「声聞の教え」を貶めようと頑張ったいにしえの大乗教徒も、釈尊の定めた三十七道品に手をつけようという僭越な気持ちは抱かなかったのである。


さいごにもう一度、『大般涅槃経』に記録された釈尊の遺訓を引用しておこう。

比丘たちよ、私はもろもろのを、よく知り、説いてきました。そなたたちは、それらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への憐みのために、人・天の繁栄のために、利益のために、幸福のためになるように、親しみ、修し、何度も行わなければなりません。


しかし、比丘たちよ、私がよく知り、説いてきたという、そなたたちがそれらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への憐みのために、人・天の繁栄のために、利益のために、幸福のためになるように、親しみ、修し、何度も行わなければならないという、そのもろもろの法とは何か。


すなわちそれは、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道です。


比丘たちよ、これらが私のよく知り、説いてきた法です。そなたたちは、それらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への憐みのために、人・天の繁栄のために、利益のために、幸福のためになるように、親しみ、修し、何度も行わなければなりません。*3

ブッダのことば パーリ仏典入門

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佛語を写した功徳を二人の全雄師に廻向いたします。

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*1:[http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/547ba3c53f366e830cc1c4b096b6cfa0:title=最高の尊格になれると教える仏教の教え(2009年03月05日 住職のひとりごと)]

*2:[http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn18a.htm:title=大智度論巻第十八], [http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm:title=大智度論巻第十九]

*3:パーリ長部16『大般涅槃経』第三章 片山一良訳