仏教理解の逆さメガネ(『図説ブッダの道』寄稿文の草稿)

以下は『図説ブッダの道asin:4056050678』(2008,学研)寄稿文の草稿である。


『仏教理解の逆さメガネ 「小乗仏教」の逆襲』
佐藤哲朗


■オカマの釈尊

「あたしのことはシーちゃんって呼んで」
「シーちゃん?」
オカマ坊主は目をしばたかせながら頷いている。
「ニックネームじゃなくて、本名は?」
「シッダルタよ」
(『タイムスリップ釈迦如来』より)

タイムスリップ釈迦如来 (講談社ノベルス)

タイムスリップ釈迦如来 (講談社ノベルス)

タイムスリップ釈迦如来 (講談社文庫)

タイムスリップ釈迦如来 (講談社文庫)

二〇〇五年に刊行されたライトノベル『タイムスリップ釈迦如来』(鯨統一郎)には、なんとオカマの釈尊が登場する。オカマの王子シッダルタはセックスレスの妻ヤショーダラに浮気されて子供まで作られ、嫌気が指して城を飛び出す。出家したものの苦行は辛い。「もっと楽に生きたいわ」と怠け者とつるんでいた。そこにタイムスリップしてきたのが二十一世紀の日本人仏教徒(「ダイバーだった」からダイバダッタと命名……)。釈迦の真実に驚愕した彼は、ボンクラ釈迦に自分の知る仏教の深淵な教義を吹き込み、愚昧な怠け者集団を世界宗教にまで仕立て上げる、というキテレツなお話である。
オカマの釈尊がインドの聖者たちを次々と従え、老子からソクラテスまで巻き込む哲学ギャグストーリーからは、仏教国日本における釈尊の位置づけが浮かび上がってくる。オカマの釈尊は苦行が嫌だからもっと楽に生きようと「中道」を説いた。自分は何をするでもなく、超能力はもちろん、ろくな思想哲学もあるわけでもなく、その天然ぶりを買い被った優秀な弟子たちに盛りたてられて教団を大きくしていく。仏教の創始者には違いないが、何だかよくわからない人物だ。その「虚の魅力」に周囲が巻き込まれていくのだ。


■いじられ放題の教祖様

欧米では、宗教的無知から来る仏陀への冒涜行為に対して、タイやスリランカ仏教徒たちが敢然と抗議することが珍しくない。しかし同じ「仏教国」たる日本で、仏陀の表現をめぐって抗議行動が起きたという話は聞かない。もしも日蓮親鸞道元といった祖師がパロディにされたら物議をかもすだろうし、新興宗教の教祖(自称・釈迦の生れ変わりもいる)やイエスやムハンマドをネタにするなんて、書き手によほどの勇気がなければ無理だろう。しかし、釈尊だけはいじりたい放題の状況におかれている。
そもそも釈尊がどんな風に描かれようとも、日本仏教にはあまり関係ない。日本の仏教徒にとって概ね、釈尊は人格性を持った「教祖」という位置づけではないのだ。日本仏教における釈尊はご利益も不明な「真空の存在」である。黙ってニコニコしている釈尊の周囲で自由に踊る諸菩薩の物語が重要なのだ。釈尊は黙っていた方がいい。弟子(菩薩や祖師方)を引き立てる道化としての役割を果たしてくれればいいのだ。これは無理もない話で、日本の仏教は、釈尊の「小乗仏教」を乗り越えた「大乗仏教」であるという自負心のもとに成り立っている。劣った教えなんかに、どうして耳を傾ける必要があろうか?


■「小乗仏教」とは何を意味するのか?

一般的に、日本で「小乗仏教」という語が使われる場合、以下の三つの概念を指している。
(1):大乗仏教勃興までの部派仏教一般
(2):(2)の中で特に説一切有部
(3):(1)に加えて現在の上座部仏教テーラワーダ仏教
釈迦牟尼仏陀釈尊)の入滅後一〇〇年頃、戒律をめぐる対立から出家教団(サンガ)が厳格派の上座部(じょうざぶ)と修正派の大衆部(だいしゅぶ)との根本分裂したとされる。仏教根本分裂の史実性については学界で議論になっているが、本稿では仮に、この根本分裂以前の仏教を「初期仏教」、以後、枝葉分裂を重ねた仏教を「部派仏教」と呼ぶ。
それから数百年経った紀元前後頃、北西インドの部派仏教内部に「大乗仏教運動」が興起し、般若経法華経華厳経無量寿経などいわゆる大乗経典が次々と創作されたらしい。新たなる経典の信奉者は自分たちを悟りに至る「大きな乗り物=大乗」と称し、伝統仏教を奉ずる伝統派を「小さな・劣った乗り物=小乗」と非難した。北西インドでは当時、上座部から更に別れた説一切有部なる部派(学派)が大きな勢力を誇っていたため、狭義の小乗仏教は(2)説一切有部とも言われる。しかし大乗経典の信奉者は従来の経典、つまり仏陀の「言い伝え(アーガマ)」を能力の劣った弟子のために説かれた教えだと軽んじ、最高の聖者たる阿羅漢の権威も否定していた。釈尊の教えに従って悟る「阿羅漢道」よりも、釈尊と同じく仏陀となることを目指す「菩薩道」こそが優れた修行道であると宣揚した。だからそもそも「小乗仏教」とされたのは、(1)大乗仏教勃興までの部派仏教一般、と見る方が妥当だろう。


■大乗経典の「創作」

このように大乗経典がポンポンと「創作」される状況は、伝統的な仏教(部派仏教)の立場からすれば信じられない破戒行為だった。「八万四千の法門」と呼ばれる膨大な仏教経典も、部派仏教時代までの初期経典(阿含アーガマ。完全な形で現存するのはパーリ経典のみ)と大乗経典とでは出自がまったく違う。前者は釈尊の直説法を側近のアーナンダ尊者が口述し、最高の聖者(阿羅漢)に到った仏弟子たちが内容を承認する、という厳密な手続き(経典結集)を経て編纂された。その後も追加の結集はなされたが、初期仏教〜部派仏教という仏教の伝統の中で、権威ある釈尊の言行録に無秩序に内容を付け加えることなどあり得なかった。その正確さは、所属部派がバラバラなはずの漢訳阿含部とパーリ語の三蔵経蔵とがかなりの確率で共通すること、パーリ経典・漢訳阿含ともに大乗諸経典のような教義上の混乱が見られないことからも明らかだ。
一方、大乗経典にはさまざまな潮流があったが、初期のそれには激しい苦行を伴うイメージ訓練で三昧に入り、阿弥陀仏など諸仏のビジョンを見ることが説かれていた。事実、多くの大乗経典には「幻視仏教」と命名してもよいほど神秘的なビジョンが溢れている。幻視の重視は「見たんだから。わかるやつにはわかる」という修道集団の結束にもつながったはずだ。しかし幻視で書かれた経典では、やはり自信が持てなかったのか、大乗経典はやたらと人々に特定の経典の書写を勧める。人々が大乗経典を捨てて従来の初期経典に帰依することにも怯えて、「そうなったら魔のしわざである」とわざわざ警告しているほどだ(『摩訶般若波羅蜜経』魔事品など)。


■経典の「正統性」をめぐって

大乗経典が創作された時代、すでに初期仏教〜部派仏教の経典(経・論・律の三蔵)の正統性は確立していた。龍樹(ナーガルジュナ)に仮託された『大智度論』をひもとくと、作者が「蔵外経典」たる般若経典の正統性を立証すべく必死になっていた様が読み取れる。何せ阿含やパーリ三蔵のどこを見渡しても、経典の対告衆(説法の相手)として、菩薩摩訶薩など登場しない。釈尊の没後に行われた経典結集にも、大乗経の痕跡すら記録されていない。また、部派仏教時代に確立していた過去仏信仰においても、諸仏の教団は比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆によって支えられるとされていた。過去・現在・未来を貫く仏教の教義体系に、大乗の形而上学が入り込む余地はなかった。『大智度論』には、「(大乗経典は)秘密の教えだ」「人間じゃなくて神々が聞いていた経典だ」と、いかにも苦しい弁明が綴られている。
大乗仏教では、中観・唯識の二大宗派が台頭して部派仏教やインド他宗教とも活発な論争を繰り広げたが、それは知識人の間のこと。大乗仏教は西暦四〜五世紀になっても独自の教団を組織することなく、伝統的部派仏教に寄生する形で長く存続していたという。大乗経典を奉じる教団でも、部派仏教との違いは大乗経典を読誦すること、菩薩を礼拝すること、くらいだったようだ。実践体系としての大乗仏教は、部派仏教の戒律とアビダルマ(修行のマニュアル)を前提として、大乗経典の菩薩道を実践する(というより賛嘆する)スタイルであった。のちにインドから大乗仏教を輸入した中国でも、後期インド大乗を継承したチベット仏教でも、同じ路線が踏襲された。


■中国でつくられた「小乗仏教」ジャンル

大乗派や部派の護持してきた経典は、シルクロードを通って主に大乗派の僧侶によってバラバラの状態で中国文化圏に伝えられた。インド初期仏教〜部派仏教の引力圏を離れ、大乗仏教は自由の新天地で花開く。そこで、従来の部派系の経典(阿含や論蔵)はひっくるめて「小乗」とされた。中国ではバラバラに伝えられた経典を自分たちの思考で本来の文脈と無関係に並び替えて分類する方法を考え出したので、実際に活動してた部派仏教とは無関係に、経典の分類項目としての「小乗仏教」が作り出されたのだ。
日本では、仏教は先進国である朝鮮や中国から、社会統治システムの一環として輸入された。先述のように大乗仏教は部派仏教の教義なしには実践体系としては成り立たない弱みを抱えていた。しかし日本では、大乗仏教が内包していた部派仏教の要素、すなわち戒律とアビダルマを軽視して大乗「経典」のみを崇拝する傾向が強くなる。経典の言葉を文字通り真に受けて「小乗」を切り捨てた日本において、一部の経典のまた一部分を抽出して、インスピレーションと祖師の人格力によって構築した「祖師仏教(祖師教)」として隆盛を極める。それを積極的に評価して「日本大乗」を大乗仏教の精華とする識者もいる。


上座部仏教との出会い

はるかに時が下って十九世紀後半、明治の開国後、日本の仏教徒大乗仏教以外の仏教、つまり上座部仏教テーラワーダ仏教)を守り続ける東南アジア・南アジアの仏教徒たちと初めて出会った。上座部仏教は約二千三百年前にアショーカ王のミッションを通じてスリランカに上陸し、東南アジア全域に布教された。釈尊の本来の教えに最も近い仏教という評価もある。いち早く近代化に成功した日本の仏教者たちは、彼らを「小乗仏教」という言葉で差別することにした。最近はさすがに、歴史的・教学的な意味での「小乗仏教」と、「上座部仏教」とは区別して扱うように変化している。かつて「大乗相応の地」と呼ばれた日本でも、最近は上座部仏教を信仰する人々が増えてきた。「大乗・小乗」という価値判断から距離を置き、複眼思考で仏教を学ぶ姿勢が求められているのではないか。


仏陀と阿羅漢をめぐる混乱

仏教の入門書などを読むと、かつて「小乗仏教」と呼ばれた上座部仏教をめぐってステレオタイプ的な言説を目にすることが多い。説明なしに上座部仏教と言い換えたり、「上座部仏教小乗仏教)」とカッコに入れたりしても、文字通り言い換えに終始して、相変わらず大乗仏教の観点に縛られているのだ。いくつか例を挙げて、検証してみたい。

  • 誤解1「上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。従って、修行者が到達できる境地も阿羅漢止まりで、仏陀にはなれない。」

上座部などにつながる初期仏教伝承では、仏陀は第一に「阿羅漢」(如来十号の一)であり、阿羅漢になれば悟りのレベルは仏陀と同格とみなされた。しかし経典が伝承されるうち、創始者に敬意を表して釈尊のみを仏陀(世尊,正自覚者)と呼び、釈尊の教法によって悟った聖者を阿羅漢と呼ぶように用語が整理された。
経典は釈尊という卓越した指導者の言説を後に伝える目的で編纂されたのだから、この言葉の使い分けは極めて自然で合理的な流れである。注釈書時代になると仏陀に特有の能力について論じられるが、それは菩薩としての波羅蜜の違いであり、悟りの境地の高低とは結びつかない。釈尊の教えで悟るという仏弟子の道には、何らの自己卑下も向上心の放棄もない。
そもそも如来の教法によって修行を完成した阿羅漢を誹謗することは、仏陀の教法そのものを誹謗することと同じではないか。大乗仏教サイドでもこの矛盾に気付いており、『法華経』では「内秘菩薩行、外現是声聞」(五百弟子受記品)という突飛な教えがひり出された。


■出家しないと救われない?肉食も性欲も禁止?

初期仏教〜部派仏教の伝統でも、チッタ居士など在家の聖者は数多くいたし、彼らが活躍する経典も数多く記録されている。初期仏教の悟りには四段階あり、そのうちの阿羅漢に悟ると、無執着の境地がきわまるので在家生活は難しくなるのだと、上座部では説明している、そういう聖者が死ぬまで一切衆生の利益のために働き続ける場所として、サンガが存在するのである。

  • 誤解3「上座部仏教では、肉食も禁じられており、性行為も禁止されている。」

残念なことに肉食を禁じたのは上座部ではなく、大乗経典の『楞伽経(りょうがきょう)』である。仏陀への反逆者として知られるダイバダッタが、釈尊に肉食禁止を主張して退けられたこともある。上座部仏教では、在家者から布施された食物は肉魚であっても受け、無執着の気持ちで食する。それを批判して原理主義的に菜食主義を礼賛したのが大乗仏教だ。
出家者の性交を禁じることは四パーラジカという根本的な戒律なので大乗仏教でも継承されている。日本の大乗仏教でも浄土真宗以外は建前は禁止だ。だから禅宗ではいまも管長クラスは独身で戒律厳守の方が就任する。上座部への批判としては当たらない 。

  • 誤解4「小乗仏教は、僧院に籠る宗教的エリートによる、学問のための宗教の色を深めていった。仏教本来の一切衆生を救済する宗教としての姿を喪失した。」

これは大乗仏教の成り立ちを説明する場合に必ず登場する説明だ。比較的中立的な本でも、やはり大乗仏教が起こった当時の部派仏教は小乗と呼ばれても仕方なかった、とされる。しかし実際には、「宗教的エリートのための宗教、学問のための宗教」は、むしろ大乗仏教の特徴だった。釈尊の言行を記録した経典(パーリ経典、四部阿含)はパーリ語など民衆の言葉で語られ、記録された。その教えも読めば理解して実践できる。しかし解釈学を駆使しなければ歯の立たない奇妙なメタファーが横溢する大乗経典は、エリートしか読めないサンスクリット語でわざわざ伝えられた。『般舟三昧経』など初期大乗経典に説かれていたのは徹底した苦行主義であり、特定経典への排他的な信仰を迫る偏狭な教えであった。インド仏教の主流を占めた説一切有部の僧院生活については研究途上だが、大乗経典の非難をそのまま受け売りすることは、学問的な態度からは遠いと言わざるを得ない。


大乗仏教が組み込んだ差別思考

これは誤解というより見解の相違だろう。「釈尊の教えのまま」をどう定義するかによって答えは変わってくる。釈尊の教えをその教法の中核にして、それに忠実であろうと努力してきた伝統が上座部仏教である。 大乗仏教もそう努力したのだ、という反論は成り立つが、方法論がまったく違ったことは確かだ。
最後に、大乗仏教の「革新」が初期仏教の平等性を喪失させてしまった例を示そう。
釈尊は女性の出家に積極的ではなかった。しかし修行して悟りにいたるという点では男女の差別はないことを明言していた。女性の阿羅漢尼も多数存在し、その境地を記録した経典『長老尼偈』なども残されている。しかし一方、初期仏教経典には「菩薩が女として生れることはない(仏陀も、転輪聖王も)」という記述がある。ジャータカ(本生譚)で、女の菩薩や、女の転輪聖王が登場すると、インドアーリア文化の価値観に抵触する(ジャータカでは女が治める国は「蛮族の国」扱いだ)。仏教神話を一般に普及させる上で、当時のインドの社会通念と妥協せざるを得なかったための便法だろう。
一方、大乗仏教の菩薩道(六波羅蜜)は、初期仏教〜部派仏教で編纂されたジャータカの菩薩修行からマジメに着想を得ていた。大乗仏教仏陀の教えに従って悟りを得る「阿羅漢果」の成就ではなく、自ら仏陀となる「成仏」を修行の目的にしたため、構造的に女性差別を教義の中心に組み込むはめになったのである。なにせ菩薩摩訶薩は、何劫にもわたって「女に生れない」修行を積んで、ようやく超人的能力を手に入れるというのだから。大乗仏教の「菩薩摩訶薩」とは、究極の喪男(モダン)サークルだったのである。

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加筆して拙著に収録しました。

〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜