かやの木講演会「人間はアベコベ感覚で生きる」

かやの木会館にて、スマナサーラ長老月例講演会「人間はアベコベ感覚で生きる」。セッティング中、プロジェクタが不調のため秋葉原ヨドバシカメラまで急遽買いに行った。以前から計画のあった大き目の会場でも使えるエプソンのプロジェクタを購入した。

画面の明るさ鮮明さもさることながら、台形補正の正確さにはびっくり。


以下は講義のメモ(途中から)。

※さらに詳しくて正確なメモは以下のリンク先をご覧下さい。

hohiのPali語学習・作業記録人間はあべこべ感覚で生きる 〜「私は死なない」の幻想〜


無宗教、無道徳、唯物論、これが現代日本の「世間」の教え


一般人にはこの世が事実である。
宗教は「世間があべこべだ」と、世間は「宗教があべこべだ」と思う。欲を満たして長生きするのが正しいとまじめに思っている。
倫理道徳は優先順位低い。
自分の期待だけ叶うなら、いかなる残酷なことも惜しまないのが人間の本音。
別にそれは不思議なことではない。普通のこと。
とことん儲けろ、金持ちになれ、ライバルに勝て、成功を収めろ、などは当たり前。
欲張るな、嘘つくな、敵を許せ、などの話は信じがたい。
その言葉こそ(道徳の教えこそ)あべこべと思う。
「あべこべ争い」で倫理、心の安らぎが危うくなる。
他人のエゴに怯える生き方。何されるか解らない。


「一切は幻覚だ」とか、「一切皆空だ」とかは無責任、無条件な言葉。
ブッダの言葉にあらず。
ただ生命は認識情報(対象)をそのまま認識せず、捏造してpapaJceti認識するのだと説く。
妄想を語るのは誰にでもできる。真理は希な人にしか語れない。
外の世界さえも、「存在しない」ではない。
まず捏造をやめること。それでブッダの言葉が真理とわかる。


生命の六感も外の情報(対象)絶えず生滅変化してゆく流れ。
その流れも原因により生じ原因により滅する。
あると言える、止まっている実体はない。
「実体は成り立たない」という意味で空だが、「存在はない、何もない」という意味の空は間違っている。
『般若心経』の空は嘘だからみな真剣に信じる。
真理は信じる必要はないから。あまりにも信仰が厚いなら、嘘に決まっている。


顛倒が起こる三カ所 

概念顛倒(想顛倒)
 六感に何か触れた瞬間に、それは何かという想、概念が瞬時に起こる。これもありのままの事実にあらず。転倒したもの。例:見た瞬間に花だ、とわかるように。

心顛倒
 こころにたくさん概念、想が溜まっている。新しいデータ明確にそのまま認識不可。古い想の霧のなかから認識する。ありのままに知ることは不可能。
例:ダイヤを何か光るものだ、概念転倒。ダイヤだ、こころ転倒。

見解顛倒(見顛倒)
 過去の経験、思考、知識、妄想、好みなど駆使して様々な見解をつくる。人生観、世界観、道徳観などを作る。ぜんぜん当てになりません。知識そのものも顛倒。
例:ダイヤをみて、私は神に愛されているからダイヤをもらったのだなどと見解に達する。

第一の悟りでそういう「見解」が消える。


我々がしてしまう顛倒なんでも非難するわけではない。
危険なやってはいけない顛倒を批判する。


1無常に対して常住という概念、心、見解顛倒
認識するときは「ある」と認識する。そのうえ、価値観、感情なども上乗せする。
花が散る、世界が変わる、などの見解は真理の立場で観る「無常」ではない。時間をとりすぎ。無常を知ると煩悩が消えるはずです。無常を知ったら悟りに達する。世間で行っている無常の場合は煩悩が起こる。

2苦に対して楽(善いもの)であるという概念顛倒、心、見解の顛倒。
一切の現象は苦であり、空しいものであり、善いとすべき価値があるものではないのに、我々には価値ある善いもの。特に命、人生に価値を入れる。だから生きるのが苦しくなる。

3一切現象は無実体、無我なのに、我であるという概念、心、見解顛倒。
自分に、物事に絶対変わらない、霊魂、自我、実体があると勘違いすること。仏教は非我と言っただけで無我とは言っていないとか。重症の顛倒。

4不浄であるものに対して浄であるという概念、心、見解…
自分の肉体へのアプローチ。自他の肉体に執着して最善、最美、最浄だと想うと、いま置かれている状況から前進できない。
肉体をありのままに観ると気持ち悪くなる。
自他の身体も他のものも物質として観察する場合もある。その場合、浄・不浄は使わない。
世間は肉体至上主義。肉体は置いて、病に倒れて、一切の期待努力を無にして、裏切って壊れるものと理解しない。顛倒なり。

例:豚の丸焼きを作るとき、生きたまま殴り続けて、それから丸焼きにするとか。どれほど残酷か。鶏肉冷凍すると鮮度も落ちるし、自然に優しくないから、くちばしを切り落としてそのまま出荷するとか。そこまでして食うことに執着する。でも身体に裏切られる。


あり得ない期待・願望
1生まれる性質のものが「私は生まれないように」ということを期待する。しかしこの期待は叶わない。これが期待が叶わないという苦である。二度と生まれたくない、生まれない、今生で終わりだと思っていても生まれる。
2老いる性質
3病気になる性質
4死ぬ性質
5憂い嘆き苦しみ悲しみ悩みの性質
これら5つは期待願望祈りで叶うものではない。生命の本質。生き物たる所以です。


現実的具体的合理的な期待まで叶わないとはブッダは言っていない。

しかし希望が現実的であること、因縁関係(因果法則)の理解、その目的を目指して精進努力すること欠かせない。

頭が良くなりますように、能力が向上しますように、平和でありますように、などは叶えられる。


四つの事柄について、沙門、Brahmana、神も魔も梵天もその他誰も保証できないものが4つある。
1老いる私は「老いないように」と保証すること
2病気になる私は…
3死ぬ私は…
4汚れた、転生を司る、怖悩になる、苦しみが報いになる、再び生老病死を築く、犯した業に結果が現れないようにと保証すること


私の人生哲学
死の実感がない。つねに、いま・ここに居る、という実感。外のものについても、いま・ここにある、という実感。頭で妄想する時も、その瞬間でその妄想概念が頭の中に実在する。だから妄想は危険。
思い出して怒るのは、妄想が実在しているから。
自分は瞬間瞬間で変わっていくプロセスであることは、推測できても、実感はない。
外のものに対しても、様々な原因で認識が怒るプロセスであることは、その原因は瞬間瞬間かわっていくことは実感できない。
ただ、いま・ここに、いる・ある、という実感だけなのです。
従って、死の実感はあるはずもない。
死にたくはないという願望は強烈。なぜ死にたくないのか。死の実感もないのに。ご飯食べるのも呼吸するのも死にたくないから。やめたら死ぬ。だから「死なない」という前提で、生きようとする。ちゅっとしたことで死ぬ。やりきれない。安全対策として、死なないことにして生きる。
生きることを支えてくれるものは何でアレ、善いもの、価値あるものと思う。


あべこべと事実の対立
私が思うからそれこそ事実、という理屈は成り立たない。事実と思いはあべこべ。だから対立が起こる。ソンナハズデハナカッタと思う。
怒り憎しみ苦しみ悩みの底なしの穴に落ちる。あらゆる我々の苦しみは「我は死なない」というあべこべから起きている。
年寄りでも死ぬとなると泣けてくる。
他人と戦う、自分と戦う。それで必ず負ける。負けるはずないから悔しくなる。
生きることは楽しいのだと思うあべこべ
快楽、喜び得ようとする。
しかし自分自身も外のものも不完全だから満足に至らない。
また悔しくなる。限りなく幸福楽しみ快楽を求めるはめになる。
渇愛」が生じる
快楽こそが「正」だとする。
悪行為も快楽得られればオッケー


どこまでも墜ちる
行為と結果の法則は人に自分の希望でかえることは不可能です。因果法則は自分の希望と関係ない。
自分の悪行為の生き方によって、尚更不幸に、苦難に陥る。
「私は死なない」という前提は人に悪行為しかさせない。
期待が外れたのでさらに悔しくなる。さらに同じ道で戦う。それがあべこべの結果。


真理を知ると幸福とやすらぎ
全ては変わる、無常です、生きるとは死につつあることです、と理解すると悪循環が破れる。
生老病死は四つではなく一つです。生命という存在の四つの側面なのです。
それで落ち着く。気楽になる。「無理」に挑戦しないことにする。
悪を犯せなくなる。
死を知っていることは悪いことは犯せなくなる。
自然に行う善行為によって幸福になる。
精神的病気、無知もなくなる。
こころは健全な状態になる。
従って能力向上
努力実る心汚れ消える
輪廻を乗り越え解脱に達する
輪廻乗り越えた人が死を乗り越えた人なのです。(講演終わり)


質疑応答より


Q:悟りに至るのはなぜそんなに難しいのでしょうか?
我々の知る機能にちょこっとダメージがある。
認識する瞬間では「ある」と認識する。変化しつつ、ということは認識できない。「私が」難しくしている。


Q:輪廻のことを納得できないまま仏教を学んでもいいのか?
仏説は納得できなくても大丈夫。
仏教の話はひとつも納得できるはずがない。
納得できないと明確にしておいておけばいい。
解脱の妨げにはならない。


Q:人生は空しい、と、幸福に生きることが繋がらない。
人生は空しい、というのは、人生に価値があるという見解(邪見)にぶつけていること。幸福感持って生きても空しいものは空しい。現実的な目標に頑張りながら、執着はしない。やることはやる。生きることはどうってことないから、失敗しないようにやる。

幸不幸とは何でしょうか?生きることに執着して苦しむことが不幸です。生に執着しない気楽さが幸福です。執着しない人にとっては世の中に何があっても悩みの種ではなく、明るい笑いの種なのです。世の中で大変なことは何も起きません。(すべては因縁で起きるのですから。)でも、おかしなことはいくらでも起きます。だってみんな論理的ではないでしょう。ニコッと笑っちゃうことばかりですよ。


我々の仕事は「幻覚を破る」だけのことです。

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜