仏教原理主義は悪くない?

※註:tenjin95さんの希望でリンクを外しました。広い世界には「来たれ、見よ」と言うことができない「仏教」もあるようです。

tenjin95さんという曹洞宗のお坊さんが主催されているブログ『つらつら日暮らし』に「えっ!大乗仏教は本当の仏教ではないんですか・・・?」というエントリがありました。当ブログの「小乗仏教というモノイイについて」と対照的な感じで面白いです。文章を読んで思うところがあったのでコメントをポストしました。備忘録代わりにこちらにも載せておきたいと思います。論旨は当ブログのコメント欄でも書いたことがある内容ですが…。

仏教原理主義は悪くない? (寺男)

2005-09-28 19:17:17

はじめまして。日本人の上座仏教信徒です。仏教に限っていえば、ファンダメンタリズムは悪くない、という暴論を試みてみてみようと思います。

仏教原理主義の「原点」を「経典の範囲」に置くと、経典をめぐってセクト化した日本の場合は特に負のレッテルの張り合いになってしまいます。しかし、要するに三法印・四諦・八正道(六波羅蜜)といった基本から逸脱しているか否かというところをチェックすることに「原点」を置くならば、仏教原理主義はたいへん素晴らしいものになります。

さらにいえば、仏教が壊れる時は、かならず仏教徒が仏教の「原理」を踏みにじったことによって壊れるのです。日本を例に出せば、先の大戦に際して、仏教諸宗派は諸手をあげて現代の流行を先取りし、「原理主義」を放棄したのです。つまり、不殺生という仏教の基本原理中の基本原理を軍国主義に売り渡したのです。経典どころか祖師の語録にさえ墨を塗り、自らの信仰の対象もうち捨て、「皇道仏教」「皇道禅」「皇道真宗」を名乗って人々を人殺しに駆り立てた時期がありました。

仏教の場合、それが、「原理主義からの逸脱」です。

原理主義から外れるということは、分かりやすくすれば衆生を不幸に陥れる煩悩(貪欲・怒り憎しみ怨み・無知)を肯定し、煩悩を増やす道を歩むことです。その教えを実践することによって、いま現れていない煩悩が起こり、いまある煩悩が増えるならば、それは法に外れた邪教です。その教えを実践することで、現れていない煩悩が起こらず、いまある煩悩が断たれるならば、その教えは正しい実践法と言えます。(一切煩悩経より)

「自分(の煩悩)を見る」という仏道実践の基本に立つならば、「自分を見せる」宗派争いは起きないと思います。

最後に宣伝。リンク先で、A.スマナサーラ長老の法話をポッドキャスト配信しています。よろしければお聴きください。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

コメント欄をご覧いただければ分かりますが、上の書き込みでtenjin95さんにご不快な思いをさせてしまったようです。いやはや面目ない。別に「仏教原理主義者」に立ち入れないほど高尚な議論とも思えなかったんだけど…。まぁ、でも一応弁明というか、次のようにコメントも書きました。

本文については特に反論はありません (寺男)

2005-09-29 00:39:0

tenjin95さん、こんばんは。

さっそくお返事ありがとうございます。
本文については、特に反論はありません。大乗仏教を勉強していれば、そういう見方もあるかなぁ、僕は違う見解を持つけど…という位です。

ただし最後のファンダメンタリズムについては、いたずら心が湧きました。「暴論」というのはおちょくった言い方です。仏教の立場からは、むしろ正論だと思っています。

というか、依拠する経典は違ったとしても、三法印・四諦・八正道(六波羅蜜)・十善十悪などなど、基本的な仏教のキーワードについてはあまり大差ない理解をしているからこそ、世界中で仏教徒は同じ仏教徒として仲良く連帯感を持って共存しているのだと思います。けっこう好き勝手なこと言っているようでいて、お釈迦さまの掌の上、ということはあるのです。

で、そういう仏教徒同士の共通言語になる概念について丁寧に説明してくださっているのはやはりパーリ聖典や漢訳阿含になるんじゃないでしょうか。でも、それらの解釈も何も上座仏教の専売特許ではありません。日本でも大乗仏教や無宗教の立場からいろいろな方が「原始仏典」を論じています。原始仏典に接して、大乗仏教の偉大さを改めて認識する方もいます。逆に、上座仏教の立場から、龍樹の哲学や『般若心経』について論じたりすることもあります(スマナサーラ長老と玄侑宗久師の対談『なぜ、悩む!』ISBN:4901679139)。それは人間の自由です。堂々と真理を説いて、かつ人間の自由を認めるのが仏教ではないでしょうか。

ただ、貪瞋癡で合成された世俗の常識に完全に屈服し、智慧と慈悲の道を学ぶ芯の通った仏教徒の生きかたから外れるとき、因果の道理によってしっぺ返しを受けるのではないでしょうか。先の体戦時の日本仏教のあり方はその悲しい実例ですし、それは日本仏教の諸宗派の方々も認めているでしょう。僕も日本人で日本の仏教をずっと親しみを持って勉強してきたので、自分にとって一番辛い例を出したまでです。全仏教徒が、あるいはブッダに帰依せずとも真理を求めるすべての人々が、戒めとすべき事例だと思います。

でも、いまは日本仏教もそういう逸脱を懺悔して、「殺すなかれ」という釈尊の大慈悲の教えのもと、世界を舞台に活躍されている立派な方も沢山いらっしゃるわけですから、それは掛け値なしに素晴らしいことと思います。

では、お幸せでありますように。

追伸:URLを個人ブログ(ここのこと)にしました。表のページよりも好き勝手にさらに気楽に書いています。ご笑覧ください。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

どんなに最新の概念観念であろうが、世俗のものさしに寄り添って「(自分の)仏教」を宣揚しようとすると肩がこる。構えが硬直する。頭が固くなる。いきつくところ、貪瞋癡の世界以外何ひとつも語れなくなっちゃう。仏教やってるつもりで、仏教そのものを破壊しちゃう。だって順番がアベコベだから。そういう人は数がものすごーーく多いし、本人は真剣真面目でもあるので、なかなかコミュニケーションが難しい。しかし日本仏教が近代以降、肝心なところで足を掬われっぱなしでグズグズなのは、この「弱み」が決定的だと思います。やれやれ。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜