『在家佛教』4月号より

在家仏教協会の月刊誌『在家佛教』2007/4月号を拝読。

明治初頭の廃仏毀釈の嵐から善光寺を守った誓円尼(明治天皇の叔母)について。こういう人々の話をもっと知りたい。

  • 泉経武氏「「他者への関心」の共有を―タイ仏教パイサン比丘の実践ー」

日本にもたびたび来日されているというタイのパイサン・ウィサーロー比丘の著書『未来のタイ仏教:趨勢と危機からの出口』を紹介している。泉氏はパイサン比丘の思想的視座について以下のようにまとめている。

1、現実の我々は、心身と社会の絡まりありのなかに存在する。仏教が、解脱の完成を目標に内なる心の鍛錬を掲げているにしても、現実には心の内と外は交錯しながら、時に内面を外化させ、時に外世界を内化させることの運動の繰返しで我々は日々生きている。この運動の繰返しを、パイサン比丘は自己の宗教的鍛錬のひとつとして自覚しているのではなかろうか。深く内面に沈潜する心の修養〜瞑想〜を基軸に据えながら、外世界に開かれた眼をもつ内面のスタンスが、仏教者としての生き方そのものになることを目指している。

2、(非歴史的にではなく)歴史的思惟によって現在のタイ仏教が認識されている。それによってタイ仏教の現状を歴史の所産と見做す。出家仏教の超俗性を現状認識の底流に据えながら、タイ社会の問題を対象化し、仏教徒が関与すべき所与の課題として捉え、(問題が山積する)“現代”が要請する仏教の今日的な実践のあり方を、パイサン比丘は修された心の襞で読み取っている。パイサン比丘の視座を現代(社会)に立脚させている所以はここにある。

3、仏教の立場から、“社会”を認識の対象に据えた。社会問題や道徳・倫理の問題、あるいは市民社会論の議論のなかで、仏教徒であるか否かを問わず、「個」と「個」(あるいは「他者」)のあいだに成立する(通常“社会”と称される)<場>が設定されている。パイサン比丘は、仏教徒の精神的深化の重要性を説き、物質にのみ依存しない独立した仏教徒のあり方を描く一方で、「個」と「個」(あるいは「他者」)が遭遇する<場>によって仏教徒は、その信仰実践の現代性が問われることを明示する。<場>が仏教の理、つまり仏教から提示される道徳や倫理に適っていない限り、仏教徒は<場>への義務・責任を果たしていないことになる。

 容易に想像できることだが、この意味に準じた<場>の完成は現実的にはありえず、その生成は永遠に続き、その実践は願行と化すであろう。(以下略)

 うーん、もうちっとこなれた日本語にならないものか、とゆー苦言は呈したくなるが、非常に興味深い。上座仏教の僧としては、けっこうギリギリのところまで語っている感じがする。タイ上座仏教の最新の社会思想として、ぜひ、まとまった形で訳出してほしいと思う。とにかく、タイ仏教から日本の仏教徒が学ぶことは、ものすごたくさんあると思うけどな。

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