六つの感覚を悟る ブッダが説く「すべて」とは?

大盛況だった25日のスマナサーラ長老講演会『六つの感覚を悟る ブッダが説く「すべて」とは?』より。パワーポイント資料をまとめたら、このままお経のように唱えたくなった。

知る世界の法則


「知る」という機能の法則を理解できたら一切知者です。
知る場合は眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官で知るのです。
感覚器官が一つもなければ、生命ではありません。ただの物体です。
感覚器官を通して知る過程を、その法則を発見することが、「知る世界の全て」なのです。


眼がある。眼に「色と形(色 ruupa)」が見える。
眼に色が触れる。それを感じる。感じたものを知る。
外にあるものをそのまま見るのではなく、見る人が感じたものを知るのです。その「知」に、見えた、視覚と名付ける。
自分が見たから、その「知」は正しいと思う。「知」に対して愛着も生まれる。


しかし、情報は同じであっても、「知」はバラバラです。
皆で、ざるそばを見ましょう。では、皆様に同じ認識が現れますか?
食べたばかりの人、お腹が空いている人、飢えている人、そば好きな人、嫌いな人、中国人、ベトナム人、アメリカ人などの認識、気持ち、反応は決して同一ではありません。


では、誰が正しく見たのですか?
だれの認識が間違っていますか?
他人が知るように、認識するように自分にも認識できますか?(そばを嫌いな人の気持ちがそば好きな人にわかりますか?)
しかし、だれも正しくないし、間違ってもいない。自分が感じたものを知るだけ。それは主観です。主観は真理ではない。
同じ法則を耳・声(音)、鼻・香(におい)、舌・味、身(からだ)・触(触れるもの)にも適用して観察してください。
意(こころ)・法(こころの対象)も同じ法則です。
限りなく考える、妄想する。そちらにも対象(法)がある。
自分の思考に一番執着、愛着するから、妄想からの悩み苦しみは強烈です。
しかし、誰一人も同じことを妄想しません。


このように、ありのままに見ると、六つの感覚器官から生まれる認識は主観であることが発見できる。
主観とはある個人だけの知る世界です。
個人には自分の主観しかないから、知っても、知っても、主観なのです。知っても、知っても、真理を発見できず無知でいるのです。
主観から解放されなくてはならないのです。


眼は無常、常に変化する。だから、何でも感じられる。色は無常、常に変化する。だから、眼で感じることができる。
視覚は無常、常に変化する。だから、次から次へと知ることが出来る。
「知」は瞬間的なものです。しかも、主観です。普遍的な真理でもありません。
その知識に、それから現れる感情に執着しては、固執してはならない。


六つ感覚器官についてこのような公式で観察して、無常たるものついて、因縁によって現れるものについて、執着を捨てて「解放」、「自由」を目指す。
正しくない「知」によって、人は執着を捨てず、無限に輪廻転生しながら苦しむ。
「解放」が出来た人は一切の苦しみからも解放される。
知識を捨てた人に何でも知り得る智慧があるのです。
六つの感覚器官を悟ることは一切知者になる方法なのです。
主観に対する執着を捨てると、必要なものならそれを知る能力があるのです。
△の面積を計算する公式を知っているなら、どのような△の面積も計算出来る。
このように、悟りを開いた人には何でも知ることができますが、必要なもの以外無駄に挑戦しないのです。


感覚器官の法則を知る人には悩み苦しみはありません。


主観・固定概念・妄想から生まれる無意味な苦しみから脱出しましょう。