改訂増補版「アジ活」刊行

この夏の宿題だった改訂増補版『大アジア思想活劇』がサンガより刊行された。今日見本をいただいた。本文を全面的に改訂してオンブック版(オンデマンド出版)では割愛した年表や索引を追加。460ページから600ページに増量された。価格も4200円(税別)から4500円(税別)にちょっと上がった……。とりあえず、本屋さんで買えるようになったのは大きいかな。ただしオンブックでは必ず送料が発生していたので、ネット書店で買うにしても実質値下げではある。それにしても気軽に「買ってね!」とは言いにくい値段だけど、未読の方は蛮勇を奮って購入するなり、図書館にリクエストするなりして、ぜひ読んでみてほしい。(手元にまだ本がないので、執筆でお世話になった方への献本はしばらくお待ちください。)

大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史

大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史

明治から昭和を貫く一筋の道――近代仏教。
教談師・野口復堂、神智学協会・オルコット大佐、スリランカ人仏教徒ダルマパーラ、そして田中智学など、十九世紀から二十世紀の正史、秘史を彩る人物たちがアジアを股にかけ疾駆する近代仏教絵巻。知られざる歴史を解き明かした必読書!(以上、帯より)

『大アジア思想活劇 仏教が結んだ、もうひとつの近代史』主要目次

第一部  噺家 野口復堂のインド旅行
 01 オルコット大佐来日まで   
 02 日本仏教と明治維新   
 03 オルコット招聘運動顛末   
 04 平井金三と野口復堂   
 05 神智学協会インドへ向かう   
 06 インド洋の「仏教国」スリランカ   
 07 パーナドゥラの論戦   
 08 白い仏教徒の闘い   
 09 「ランカーの獅子」の誕生   
 10 ダヴィッドがダルマパーラを名乗るまで   
 11 野口復堂 コロンボでの出会い   
 12 野口復堂 セイロン珍談集   
 13 野口復堂 ついにインド上陸   
 14 明治日印交流史   

第二部  オルコット大菩薩の日本ツアー
 15 マドラス寄席の長名話   
 16 長名話の縁起   
 17 ミッションの船出・野口復堂の凱旋帰国まで   
 18 釈興然 日本に上座仏教を伝えた留学僧(上)   
 19 釈興然 日本に上座仏教を伝えた留学僧(下)     
 20 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(上)   
 21 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(下)   
 22 病床のダルマパーラ   
 23 オルコット来日がもたらしたもの   
 24 ブッダガヤ復興運動の開始   
 25 オルコット再来日・蜜月の終わり   
 26 フォンデス もう一人の白人仏教徒   

第三部  ランカーの獅子 ダルマパーラと日本
 27 シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸   
 28 ダルマパーラ二度目の来日   
 29 「日本の仏像」インドで大暴れの巻   
 30 大拙・慧海・ダルマパーラ   
 31 ダルマパーラ一九〇二年の来日   
 32 ダルマパーラと田中智学の会見(上)   
 33 ダルマパーラと田中智学の会見(中)   
 34 ダルマパーラと田中智学の会見(下)   
 35 血の轍(わだち)   
 36 冷遇された最後の来日   
 37 その後のダルマパーラ   
 38 サールナート寺院壁画と野生司香雪   
 39 ひとつになった仏教世界 (上)   
 40 ひとつになった仏教世界 (下)  
 41 仏教とアジア近代史再考
 おわりに 広島の二葉山平和塔をめぐって
 あとがき
 参考文献
 年表
 索引

いつになるか分からないけど、次はもうちょっと軽い企画を考えます。

〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜

佛教問答

3日の午後からスマナサーラ長老と『パティパダー』と『大法輪』連載用の原稿作成。

ヘンリー・スティール・オルコットの“A Buddhist Catechism according to the canon ofthe southern church”の和訳『佛教問答』(米国人エッチ、エス、ヲルコット氏著 日本京都中學校長今立吐醉譯 佛書出版會 明治十九年四月)を古書店から購入した。明治19年(1886年)、日本で初めて紹介された南伝テーラワーダ仏教の概説書である。学生時代に某所でマイクロフィルムからのコピーを取って以来の再会。現物を手に取るのは初めてだ。同書の由来については、以下のページを参照のこと。


「一名 小乗大意」と朱書きがされている。


書誌情報。120年以上前の本なのに状態は悪くない。和紙ってすごい。


本文。七仏通戒偈の原文がカタカナで表記されている。


こちらは原書の“A Buddhist Catechism”

『佛教問答』近いうちPDFにしてみよう。

PR:2008年度 初期仏教一日体験会

来る7月6日(日)に文京シビックホールで開催されるスマナサーラ長老の講演&瞑想実践会。現在、上記リンクからオンライン予約を受付中。

ミャンマーサイクロン被災者への救援受付中

ミャンマー情報

チベット関連

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

Dr.Steven Kemper先生

今日は朝のお勤めに参加。お坊さん方出払ってたので、終日事務所のお留守番。印刷会社の人にパティパダーのPDF版下渡したり、ウェーサーカ記事の写真選びで頭こんがらがらせたりしてる間にUSAはBates Collgeで人類学研究してるDr.Steven Kemper先生が通訳の日本人学生(日本音楽専攻とのこと)と連れ立って取材にみえた。名刺の表面がシンハラ語で、いきなりシンハラ語で喋りかけられて焦った……。要件はダルマパーラについての調査。アジ活のホームページ見たらしい。amazonにも著書が出ていた。

Buying and Believing: Sri Lankan Advertising and Consumers in a Transnational World

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駒澤の石井公成先生とは交流あるみたい。通訳を介していろいろ質問に答えた。ダルマパーラが煽ったインド佛蹟(ブッダガヤ)奪還運動に日本側がどのように呼応していたか、ということをしきりに聞きたがっていた。そんなもん日本の『大菩提会』ったって、各宗派けん制しあってる中で要人が名前だけ連ねた団体だから、運動としての実体なんかなかったんじゃないですか?と詰まらない答えをしてしまった。オンブック版の『大アジア思想活劇』が一冊あったので差し上げた。まぁネタ本にでもしてくだされ。Kemper先生、シンハラ語と英語堪能なんだったら、かなり突っ込んだ面白い調査できるでしょうに。でも、人類学者だから、いろんな研究仮説が練りこまれた、いたずらにややこしい、読みにくい研究になりそうな気もするな……。コロンボのナショナルアーカイブでいろいろ資料コピーしてPCに入れてるからいつでもデータ差し上げますよ、とか、ご親切に申し出てくださった。ん〜〜5,6年前だったら喜んで飛びついただろうけど、どうも本人の研究モチベーションが希薄になってるところでミスマッチとゆー感じ。でも、ダルマパーラの日記は英語で残っているので、まとまって読めるなら、来日時の心境とか、人物評とか、資料照らし合わせて細かく拾ってみたい気もするな。

一応最後に、「いま自分はスマナサーラ長老の日本語の本作りをお手伝いしていますが、それはダルマパーラの時代には表層的だったスリランカと日本の仏教の交流を、もっと深いところで、日本人の従来の仏教観を変容させるくらい強烈な形で、現在進行形で実践していることでもあります。だから、過去のダルマパーラと日本の関係を探るのもいいけど、いま現在のスマナサーラ長老の日本での活動を分析するのも研究としては面白いんじゃないんでしょうか?」というようなことを話した。「現在の方が日本とスリランカの仏教交流はずっと盛んになってますよ」くらいに訳されてた気がするので、伝わったかどうかわからんち。

まぁ、そーゆー観点で、学者さんがスマナサーラ長老のお仕事に興味持ち始める頃には、きっと僕は死んでるだろうけど。

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釋興然 南方僧団移植事業(「住職のひとりごと」より)

全雄師による釈興然の顕彰記事(中外日報)第二回は、興然が手がけたテーラワーダ仏教サンガの日本移植事業について。まさに現代の日本テーラワーダ仏教協会の活動に直接つながっている歴史だ。ご自身のブログ「住職のひとりごと」に転載されている。

明治四十三年、興然は釋王殿建設を発願した頃、『釈尊正風』という冊子を発刊している。

それによれば、当時の仏教を批判して、「今日の如く仏教を世道から厄介視せられ、教育に於いて関係なきが如く思わしめるようになったのは何故かと云うに、多くは之れ教導者の罪である。僧侶の教えない咎である」と述べた。

決して仏教が衰退したからではなく、日本仏教が分裂多岐にわたり正道を見失い迷ったからであるとして、「仏教に南北の教系を異にし、宗派に千百の別はあるが、その最初の開教法主は仏陀釈尊である。(中略)だから真に仏教の仏教たる所以を明らかにするには、どうしても釈尊の仏教そのものの生命に帰らなければならぬ」と釈尊の教えに回帰する必要を説いた。

そして、興然は、釈尊時代の初期仏教の伝統を保持すると言われる上座(テーラワーダ)仏教によって信仰の統一、行動の一致、目的を明白にすべきだと主張している。

この確信に満ちた筆致に、自らがセイロンで受けた上座部所伝のパーリ律による尊い戒律の護持とスマンガラ大長老のもとで修行した上座仏教の瞑想修行、そして経論を学ぶためのパーリ語修得など、これらに対する興然の並々ならぬ自信の程が窺い知れる。

昭和五十三年に三会寺のパーリ写本を調査したパーリ学仏教文化学会の前田惠學・愛知学院大学名誉教授は、「興然師が有名経典の多くや基本的な戒律、一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナ(四念処)の瞑想法を重視したことが写本リストを見ても窺われる」(『前田惠學集』三)と述べている。
(後略)

テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想実践についても、興然は日本における先駆者だったのかもしれない。何かと教えていただくことに多かった全雄師の連載。こころより感謝申し上げます。

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〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

釋興然略伝(「住職のひとりごと」より)

『アビダンマ』3巻「心所の分析」原稿作成がようやく終わった。引き続き他の仕事をされているスマナサーラ長老に心で礼。アビダンマッタサンガハ心所(cetasika)編解説を面と向かってびっちり口述筆記。これ以上ない贅沢な時間ではあったけど、いつまでも続けるわけにもいかない。正直ホッとした。これで何とか3月中の刊行なるか?

さて、備後國分寺住職を務める全雄師が、日本初のテーラワーダ仏教僧侶、釈興然(しゃくこうねん)の略伝を中外日報「『近代の肖像』危機を拓く」に寄稿された。ご自身のブログ「住職のひとりごと」に転載されている。興然については拙著『大アジア思想活劇 仏教が結んだもうひとつの仏教史』でも詳しく紹介したが、師であり叔父でもある釈雲照とともに、日本仏教史において特別な意味を持つ人物のひとりである。

  • 釋興然(1) 略伝 中外日報3月6日付『近代の肖像』危機を拓く第106回

釋興然師(一八四九-一九二四)は、混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、日本人として初めて南方上座仏教の比丘となった人である。 
(中略)
興然は、セイロン南部の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラで南方仏教の沙弥としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。一年余り後にはコロンボのシャム派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修学の場を移した。

そして、渡航五年目の明治二十三年六月、遂に興然は、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラでスマンガラ大長老より具足戒(パーリ律二二七戒)を授けられた。興然グラナタナ比丘四十一歳。ここに日本人で初めて、南方上座仏教の比丘が誕生した。
(後略)

釈興然の伝記については、拙稿「釈興然 〜日本に上座部仏教を伝えた留学僧」(1),(2)も併せてご覧いただきたい。ちなみに、僕も99,100回で野口復堂を紹介させてもらった中外日報『近代の肖像』総目次はこちら)続く101,102回では吉永進一先生平井金三を取り上げているんである。そんで、このシリーズ32回までを担当されたのは、東洋大時代の恩師のひとり、田村晃祐先生なんである。こんなところで田村先生のお仕事の末席に連なれるとは……。ちょっと感激だなぁ。

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釋雲照略伝(「住職のひとりごと」より)

備後國分寺住職を務める全雄師が、中外日報「『近代の肖像』危機を拓く」に「釋雲照略伝」を三回にわたって寄稿された。ご自身のブログ「住職のひとりごと」に転載されている。
拙稿『大アジア思想活劇』をお読みいただいた方には釈雲照の名を覚えている方もいるだろう。明治以降の日本仏教史を見渡したとき、もっとも注目すべき生き方をした仏教者のひとりだと思う。その存在感の大きさゆえに無視はできないまでも、しかし前向きな評価はなされてこなかった。全雄師の文章を通じて、雲照律師から現代を生きる我々が受け取るべきダンマについて、思いをはせてみたい。

釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋伊藤博文大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請うた明治の傑僧であった。

ところで、明治五年、肉食妻帯勝手たるべしとの勅令が出ると、高野山では女人禁制を解く旨が宣せられた。

政府勅使を迎えた山内僧侶が、みなこれを了承する中、雲照は一人憤然と立って、「女人禁制は歴代天皇の御詔勅、これを撤廃するはその叡旨に背くものなり、愚衲は歴代天皇の勅使として閣下の罪をたださん」と抗弁したと伝えられている。

釈尊は、国王に対しても師として教えを垂れた。仏祖の訓戒をそのままに生きようとした雲照は、仏教本然のあるべき姿を近代の世で体現した人であった。

丁度雲照が東京に転機を見出した頃、廃仏毀釈の時代は既に過ぎ去ってはいたものの、欧化思想が蔓延し、知識階層の仏教に対する無関心が進行していた。そのため、西洋の学問を学んだ仏教徒たちによって近代的仏教研究が試みられていた。 

しかし雲照は、こうした西洋的方法で仏教を研究するのではなく、仏教の原点へ回帰することで、知識人に自律的覚醒を促すべく論理的合理的な仏教論を展開したのであった。

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中外日報「近代の肖像」で野口復堂を紹介 その2

『中外日報』連載「近代の肖像 危機を拓く」第100回:野口復堂の後編。こちらの続き。

編集部のTさんが、大正時代の中外日報マイクロフィルムから、野口復堂が連載していた教談などの記事を何枚かコピーして下さった。なかでもちょっと面白かったのが、大正5年(1916)4月2日付の「若し中外日報なかつせば」というコメント集の一節。

教談講師 野口復堂
若し中外日報無かつせば、いかでか本邦諸宗教内外の起り事を公平に知る事を得んや。又諸賢諸大徳の高論卓説を片手落ち無く窺ふことを得んや。世間凡多の諸新聞諸雑誌はあれど、政党■■にあらざれば多くは一宗一党の利己にあらざるはなし。此間に立ちて至公至平のバランスを保持するは中外の特色と謂つべきものにして。中外は猶ほ宗教界の浄瑠璃鏡の如し敢て鏡の落度を言はゞ。岡山■■の
 「いつはらぬものといふなる鏡さへ右を左に写すなりけり」
位で。之れは鏡の本来で敷方に無いものである。今後宗教界多事益々鏡面を研きて実写に努められんことを至嘱。
(中外日報 大正5年(1916)4月2日一面 ■は読み取れず)

明るくていいなぁ、復堂節は。

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