原始仏教聖典による釈尊伝の研究【14】


中央学術研究所の森章司先生より協会宛に「原始仏教聖典による釈尊伝の研究【14】基礎研究篇V」(「モノグラフ」第14号)をご献本いただいた。目次はこちら


森章司先生の【論文16】遊行と僧院の建設とサンガの形成 から、さわりの部分を引用したい(注釈は略した)。

【0】はじめに


 [1]私たちはこの「原始仏教聖典による釈尊伝の研究」をテーマとする総合研究において、いわばそのすべてが釈尊の伝記資料とでもいうべきパ・漢の原始仏教聖典を時系列にしたがって編集しなおすことによって、釈尊の生涯と釈尊教団の形成史を描き出したいと考えている。そしてそれはただ単なる歴史的事項の羅列だけではなく、釈尊や比丘たちの生活をリアルに再現したものでなければならないとも考えている。
 そのためには釈尊とその弟子たちが、毎日を、あるいは1年をどのような周期で、どのように暮らしていたかということを明らかにすることが必須の条件となる。具体的にいえば、釈尊とその弟子たちの衣食住がどのようなものであり、遊行や雨安居がどのように行われていたのかなどということであるが、これらについての細部はまた別の機会に論じることにして、本稿ではその根底にある生活方法の基本を考えてみることにしたい。ただし遊行については本稿の内容と密接に係わるため、若干詳しくふれた。


 [2]ところで本論文の題目(遊行と僧院の建設とサンガの形成)は三題噺的なものになったが、それは、日本の学界では、釈尊の生涯の最初期には比丘たちは、当時のジャイナ教徒やアージーヴァカ教徒など沙門と呼ばれる宗教者たちやバラモン教の遍歴行者たちが等しく行っていた一処不在の「遊行」を常として、山谷の洞窟・樹下などに1人で住していたのであったが、やがて「僧院」が建設されると集団的な定住が始まり、それによって「サンガ」が形成されたという考え方が通説になっているように思われるので、本論文はこれに反論を加えることを通して、上記の主題に迫ってみようとするものだからである。


 [3]確かに釈尊が成道され、教化をはじめられた最初の数年間は僧院は建設されていなかったし、その主な活動の地は王舎城周辺であったから、山谷の洞窟や樹下に住することが多かったであろう。また僧院が建設された以降も、釈尊や主立った直弟子たちの多くは、絶えず遊行されたであろうことは疑いえない。しかしながらそれらがジャイナ教徒やバラモン教の遍歴者(parivraajaka)の行う遍歴と同じような遊行であったかというと疑問を感じざるをえない。
 またサンガは、僧院が建設されたことによって集団生活が行われるようになり、その結果自然形成的に成立したというような、無自覚的なものであったであろうか。サンガは仏教徒が帰依すべき「三宝」の1つとして把握され、この運営規則を定めた「律蔵」は、釈尊の教えを3つに分類した三蔵の、もし論蔵をここから除外するとすれば、経蔵と並ぶ二蔵の1つとして、釈尊の教えの主要な領域を占めているのであって、これらの重要欠くべからざる要素であるサンガが自然の成り行きによって、あるいは外的な要因に促されて形成されたとは到底考えられない。また律蔵の「犍度」のように整備された、サンガの運営規則のようなものが他の宗教に存在しない限り、もし彼らが形成していた集団がサンガと呼ばれることがあったとしても、仏教の「サンガ」をそれらと同様であったと認識することは誤りであると言わなければならないであろう。
 さらに僧院における生活が仏道の修行に益のないものであり、ある意味で堕落であったとするならば、釈尊ははたしてその建設を認められたであろうか。とするならば、僧院建設の意味も改めて考えてみることが必要であろう。


 [4]本論文は上記のような問題意識をもって、釈尊や仏弟子たちの生活の基本が遊行にあったのか定住にあったのか、僧院が何のために、いつごろ、どのような経緯で建設され、そしてサンガはどのような意図をもって、いつごろ、どのように形成されたのかということを論じようとするものである。(以下略)

いつもながら、地味なようでいて刺激的な論考だ。森先生はじめとする研究グループによって、釈尊の成道以降の伝記と生活誌は、かなりの精度で明らかになってきている。引用した論文の全文がネットで読めるのは少し先になると思うが、楽しみにお待ちいただきたい。それまでに以下のリンク先からバックナンバーをダウンロードして読破しましょう。


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